スポンサー広告

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消せます。

論考・自論

2012.3.11の品格

一般意志は、ある特定の個人的な対象だけに向けられた場合には、それが自然のうちにそなえていた正しさを失ってしまうのである。……個別意志が一般意志を代表できないように、一般意志も個別なものを対象とするときには、その性格を変えてしまって、人間についても事実についても、一般意志として判決を下すことはできなくなるのである。    (ルソー『社会契約論』より)



 2012年3月11日。

 3.11と呼ばれるようになった東日本大震災から1年を数える節目、世間は震災記念のイベントに湧いていた。テレビを点ければ震災関連の特番を組んでいない局を探す方が難しく(東京ではテレ東のみが唯一空気を読んでいなかったが)、いずれの番組も震災の悲劇を振り返り、そして日本国民が震災を、そしていまなお苦しむ被災者のことを忘れてはならない、と繰り返し繰り返し訴えていた。

 おそらく、どの番組の制作者も、不運に見舞われた人々への憐れみと、また素知らぬ顔で日常生活を送っている多くの国民への憤りを込めて、番組を作っていたのだろう。「いや、かれら/彼女らに真摯な気持ちなど微塵もない」などと断罪するつもりは私にはないし、誰にもその心裏を伺い知ることなどできないのだから、このような非難は不当であるとさえ言える。

 だが、制作者の想いはどうあれ、すべての番組に品位が欠けていたのは確かだと、私は思う。

 マスメディアは、まるで自分たちこそが国民の代弁者であるという顔をする。自分たちが取り上げるテーマこそが国民が興味を持って知りたいと願うものであり、自分たちの正義の呼びかけこそが国民すべてが従うべき格律なのだと確信する、というより、そのような過剰ともいえる自信がなければ番組など作れない。

 しかし、いくらマスメディアが真摯な気持ちで、真剣な問題意識で番組を作ったところで、それはかれらの個別意志・利益の範囲を超えない。視聴者はいつでもこう考えて視ることができる。

 「なんであれ、マスメディアの目的は多くの人に視てもらうことでしょう?」

 マスメディアはこれを否定できない。どんなテーマで番組を作っても、それはとどのつまりショーに過ぎないでしょう、と言われれば、反論できない。テレビは視聴率を高めるのが至上目的で、たとえある番組が世のため人のためになったところでそれは結果でしかなく、動機でも目的でもない。

 ゆえに、テレビに映る悲劇や、被災者の不幸語りはいずれも滑稽みを帯びてしまう。サーカスが熊の玉乗りやピエロの綱渡りを見せるのと、さして変わらない。人々の数奇な目を集めるためにかれらの不幸を利用していると思われても、仕方ない。

 マスメディアは「マス」とついてはいるものの、けして国民の総意を代表することはない。マスメディアは「マス」の上に成り立っているのではなく、マスを創るのである。ゆえにマスメディアがいう国民は、実は単純な「大衆」でしかない。そこには個別性も、多元性も、複雑性も存在しない。「大衆」はのっぺりとしたひとつの全体でしかなく、実体のない蜃気楼に似ている。

 マスメディアは「大衆」の代表である。「大衆」はマスメディアが創ったものだから、あえていえば、マスメディアはマスメディア自身の代表だ。だから誰の代表でもない。誰の代表でもないのに、まるで誰かの代表のようにふるまうのだから、胡散臭くないわけがない。

 マスメディアの「代表化」作用の悪弊をもっとも被ったのは視聴者ではなく、むしろテーマにされた被災者の方であろう。被災者たちの悲劇体験は、マスメディアに取り上げられたことで劇的に薄っぺらいものとされてしまった。そのひとの個別具体的な体験は無理矢理に一般化され、理論化される。つまり「被災者の体験」というカテゴリーにひとくくりにされる。

 そして二つの不誠実が始まる。まず、その人の、その人だけの悲劇体験は敷衍可能で他のケースにも適用可能な一個のデータ、ありふれた比較対象のひとつとなってしまう。それから、被災者同士の不幸比べがはじまる――2012年3月11日において、これはマスメディア各局間の、まるで代理戦争をしているかのような視聴率争いというかたちで、現実に表れた。

 唯一無比であったはずの悲劇体験が、その人が、その人だからこそ経験した一回限りのできごとが、他者の上にも被せられ、比べられる。何度でも回帰可能なものとして保存される。「被災地を忘れるな」というキャッチフレーズが、ここから発信される。メディアを介して、この回帰可能なものはひたすら増殖し、人々のなかに巣くっていく。そうして、たとえば西日本に住んでいてこの悲劇から遠く隔たっていた人々であっても、個別の不幸と半強制的に関係を持たされる。

 個別具体的な一回性を、経験の真の尊さを犠牲にしてまでマスメディアが成し遂げたのは「過剰な倫理の押しつけ」であった。個別具体的な不幸に対し、われわれがなしえることは、ほんの僅かでしかない。個別具体的である以上、それはどうしても、その本人が解決するよりない。われわれがなしえるのは、より限定された範囲――私が考えるに、食う・寝る・働くという自立環境を整える程度で、それ以上には踏み込めないし、踏みこむべきでもない。被災者への精神的な支援も、この自立環境を得るための補助程度にするべきだ。鬱は人間の自立を難しくするから「鬱病」となる。無論、被災体験を誰かに語りたいというならば、聞きたいという人はいくらでもいるのだから、存分に語っていただきたい。しかし、それは本人たちの能動的な意志があればこその話だ。

 マスメディアは個別具体的な悲劇を一般化する。普遍化する。どうにかしろと国民に訴える。どうにもできないもの、どうにもすべきではないものを、どうにかしろと言う。これが「過剰な倫理」だ。個別具体的なケースに「国民として」できることは、ない。個別具体的なケースに対応できるのは、個別具体的な人間だけだ。その個別具体的な人間であっても、個別具体的な悲劇を、その記憶から湧き上がる悲しみや苦しみを、どうこうできるわけではない。だのに、マスメディアは国民の道徳心をいたずらにかきたてるものだから、というのも、ある不幸を目の前にして等閑視できる人間はそう多くないから、人々はただ後ろめたさを抱えるしかない。それはとても健康的ではないのだけれど、マスメディアとしてはそれが次の高視聴率につながるのだから、かれらの個別利益としては悪くない話なのだ。

 個別具体的なものを一般化するのは無理であり、不誠実なのだ。間違いであり、不健康なのだ。個別具体的なものはそれ自体でしかなく、だからこそ尊い。個別具体的なものの集合から何かしらの共通性を見つけ、抽出しようとすれば、後に残るのは輝きを失った残骸のみだ。ゆえに、個別具体的なものに関わる人間は、それを一般化して、つまりそれをあたかも集合的な経験として、たとえば被災者なる人々を代表するものとして、あたかもそう総称される人々すべてに当てはまる経験であるかのように語るのは、厳に慎むべきであろう。

 そういう意味で、被災者なる人々は実在しない。被災地――なる場所も実在しないのだが――に暮らし、暮らしていた人々は、誰もが異なる「その人自身」たちなのであって、そのそれぞれがあの震災において何かしら特別の、固有の経験をしたのだ。だが、その経験は「被災者の」経験ではない。それは個別具体的な経験の、混じり合うことのない原子の群れのようなものだ。「被災者の経験」とは、この原子を砕き、ぐちゃぐちゃに掻き混ぜてはじめてできあがる、誰のものでもない「まがいもの」だ。

 とはいえ、2012年3月11日が来てしまった以上、私たちは何かしらせずにはいられなかったのだ。私たちの道徳心は、この節目に何かしらのリアクションをせずには落ち着かなかったのだ。マスメディアの震災特集ラッシュも、震災の深刻さを茶化す結果になったとはいえ、この道徳心から起こるリアクションの一種ではあった。

 国家式典や、諸々の追悼行事において、様々な人々が式辞を述べた。これらの式典も、そしてそこで発せられた言葉――それは復興への誓いであったり、苦境の訴えであったり、被災地へのエールであったり、様々だったが――もまた、人間の道徳心をその発端とするものではある。国家的悲劇と位置づけられた災害の、それに対する式典・式辞であるからには、それは国民すべての意志と想いを代表するものでなければならないが、しかしそのどれもが、やはり個別具体的な、つまりその人自身の特有の経験や想い、そして――穿った見方をしてしまえば、本人の損得勘定が絡んでいて、とても国民すべての道徳心に響くものでも、また代表するものでも、なかった。個別具体的な人間の想いと、そこから発せられる声は、いかに魂のこもったものであっても、いかにあれ一般性は持ちえないのだ。

 そのなかにあって唯一、国家国民の代表としての品位を保っていたのは、天皇ただひとりであったように思う。

 天皇の式辞は、ひどく月並みなものであった。議論や批判を受けそうな言葉を極力削り、可もなく不可もないので、中身がないと言えば、そうかもしれない。また、それを読み上げる声にも抑揚がなく、そこから何かしらの感情を読み取るのは難しい。およそ人の心に強く訴えかけるような式辞ではなかったが、しかし、それは大きな問題ではない。むしろ、天皇の式辞はああでなければならなかった、とさえ言える。

 重要なのは、天皇が「個別具体性から遠い」ということだ。つまり天皇は、殊この日本国に関わる事柄においてはもっとも一般性に近いのだ。それは、天皇が象徴的存在であり、人間であって人間ではないゆえの特性である。

 「人間であって人間ではない」というと「天皇は戦後に自分が人間であると宣言したではないか」と反論されるだろう。私はあの宣言を「天皇もホモサピエンスである」という意味で解している。つまり天皇は、天照命を祖とする系譜を持つ神の後胤などではなく、皆と同じく猿から進化したヒトなる生物のひとつに過ぎない、というわけだ。そうして天皇は神聖でも何でもない、合理化された存在となる。

 しかし、天皇は国民ではない。国民に許されているところの諸々の権利を行使できないのだから、国民とは言えまい。国民ではない人間、人間というだけの人間、それはつまり、だれよりも「自然状態」に近い「ホモサピエンス」ということだ。かくして天皇は「社会」の外に出る。国民という人間身分からはずれることで、はじめて天皇の象徴性は成立する。自然という混沌とのつながりが、社会からの離脱が、かえって天皇を「社会的に」一般化させるのである。天皇は社会に直接関わらない。そうしてその社会に生きている人々の個別具体性から超越することで、その社会における一般性を手にするのだ。

 天皇は自身の、そして自身と国民との関わりから個別具体性を除去することで、一般性に達する。天皇は国民ではなく、また国民とカテゴリーされている人々の個別具体性から隔たっているからこそ、あくまで個別具体性から、しかもそれをあるカテゴリーを代表するものとしてしか語り得ないマスメディアや他の国民の声とは異なり、その式辞は国民全員の声を、個々の経験を生きる人間たちの声を代表するものとしての資格と品位、すなわち一般性を獲得していたのである。

 同様の特性をもつ立場の例としてローマ法王を上げることができよう。だが、その象徴性は天皇でなければ、ローマ法王でなければ持ちえない、というわけではない。個別具体性の次元からの隔たり、これが一般性を獲得するための第一条件であり、これが果たされれば「何もが」象徴的存在たりえる。しかし、存在がすべからく個別具体的に考察されるこの時代において、天皇のように一般性を纏った存在は希有ではある。

 ともあれ、天皇とは異なり、「社会内存在」でしかありえない大多数の私たちは何事も個別具体性のレベルから始めなければならず、これを人間存在のひとつの限界として甘受しなければならないのかもしれない。しかし、これはそれほど悲嘆すべき事実でもないように思われる。私たちに課されたこの限界は、無力さの感覚をもたらしもするが、おそらく美はそこから生まれるのである。つまり限界があるからこそ、何物にも犯されない固有の領域が浮かび上がってくるのだ。私たちは個別性を固有のものとして尊重し、それを越えたいという願望をぐっと抑え、限界のただなかに留まらねばならないのだと、私は考える。

論考・自論

東京教育事情――教育格差の是正も一考

 小学校6年生の男の子が、机に向かって「ううん」と唸っている。机の上には、とある私立の中高一貫校の入試問題。ときは1月中旬。かれは2月に行われる中学入試の追い込みにかかっているのだ。その向かいには塾の講師が、男の子よりも渋い顔つきで座っている。男の子の成績が芳しくない――だけではない。その私立校の過去問は、とうに義務教育を終えているはずのその講師にも、ひどく難解なものだったからだ。無論プロとして、つまり受講料をもらって仕事をしている者として、その問題を教えるための予習も授業のシミュレーションも万全にしてあるが、しかしもし備えなしに授業に臨んだならば、教えられたかどうかは怪しい、いや、おそらく無理だっただろう。大人でも難しい問題を小6の子どもに教えるのだから、並大抵の苦労ではない。もちろん、最も大変なのは受験を戦わなければならない当の生徒なのだが――。



 東京の塾に勤めていると、地方とは教育事情がだいぶ異なるのがよくわかる。そのなかでも私にとって最も印象的なのが「中学受験戦争」の存在だ。

 おそらく多くの地方出身者にとって「中学受験」はあまり聞き慣れない言葉なのではなかろうか。義務教育は学区内の県立か市立の、いわゆる公立校に通うのがふつうであり、また中学校に進学する際に入試などしない、あるいは、入試を課す中学校はあるにはあるが、それはよほど勉強のできる「エリート」だけがするのであって、あくまで例外である――と、このように認識しているのではなかろうか。

 しかし、東京では違う。東京においては「私立中学を受験するのがふつう」なのであり、「公立中学に進学すれば負け」なのである。ここで、地方出身者はちょっと首をかしげるかもしれないので補足しておくが、東京では私立と公立の評価が地方とは逆である。地方における私立は公立のすべり止め程度にしか思われていない。無論、私立であってもその学校にしかないカリキュラムがある場合などは積極的に選択されるが、普通科の学校であればまず公立の方が格上であり、私立はそこで落第した者の流れていく場所と見られている。

 東京の私立もピンからキリまであるものの、しかし基本的には私立の方が格上だと見なされている。親御さんの間で「私立に行かねば大学に行けない」と囁かれるほどである。小学校から高校まで公立だった私も一応大学には行けたのだから、少々大げさだな、とは思うものの、おそらくその裏には「大学の名に値する大学」という含意があるのだろう。つまり早稲田・慶応、あるいは旧帝大レベルの大学に行くには私立でなければ、という思いがあるのだ。

 東京に暮らす家庭は、ゆえに子どもが小学校5年生になるとだいたい塾に通わせる。目指すは「私立の中高一貫校」である。中高一貫校という学校の存在も、入試という名のつくものに高校進学ではじめて挑むような地方の人間のなかには、きっと知らないという人もいることだろう(私も東京に来てはじめて知った)。その名の通り、中学から高校までエスカレーター式に進学できる学校である。一度入ってしまえば高校入試を受ける必要はなくなり、また、高校卒業までの6年間でカリキュラムが一貫しているため、中学から高校に上がる際の学習難度のギャップが少なくなる、等々の利点がある。

 なにより大きな特徴は、学習進度の早さとその内容であろう。たとえば、公立中学校1学年の英語がようやく過去形を終えた頃に、片や私立中高一貫校1学年の英語は不定詞や比較を教えている。その教科書の中身も、公立中学校のものは会話文やイラスト中心の、生徒に何とかして興味を持ってもらうようにとの、涙ぐましい工夫の跡が見えるポップな内容だが、私立中高一貫校はイラストなどを極力廃し、情報を圧縮すべく文字も小さいので、小学校を卒業したばかりの子ども向けにしては硬い、高校の参考書を思わせる作りになっている。

 この違いは、まず私立中高一貫校の場合、国や教育委員会が定めているカリキュラムを厳密に守る必要がないことに起因しよう。ここでは中学の段階でも高校で習うはずの内容を授業しても問題にならない。私立中高一貫校の多くは中学2年生の終わりまでに中学で習う内容をすべて授業で完了させているようだ。そして中学の3学年(という括りは中高一貫校では存在しないが)の1年間は、高校1年生の内容の先取りをするのである。すると高校3学年がまるまる空くので、そこを大学受験対策に費やすことができる。

 また、私立中高一貫校は己の求められている役割を十分に承知している。つまり、このタイプの学校に通う生徒(あるいは通わせている家庭)は大学受験を、しかもAランク以上と評されている大学を狙っているのだと、わかっている。だから授業の内容は、来るべき大学受験戦争に備えるべく、容赦なく難しい。公立キャリアの人間からすると「授業に追いつけない生徒が出てくるじゃないか」と非難したくなるし、実際追いつけない生徒はいくらもいるのだが、難関狙いが暗黙の大前提であるから、追いつけないのは学校のせいではなく、生徒の能力や努力の不足に帰すことができるし、それが正当とされている。

 いずれにせよ、私立中高一貫校が大学受験(難関レベルの)において公立よりも有利である、と判断されるのは無理からぬことと言えよう。公立はあくまでカリキュラム通りにしか授業しないし、内容も――これもカリキュラム通りではあるのだが、私立に比べると薄っぺらく見える。また教師の質についても、公立より競争が働く私立の方が優秀という評も多い。というより、公立の教師は何かと評判がよろしくない。東京の夫婦は公立校の教師よりも学歴が高いことがままあるため、社会的地位において下位と見られがちだ。そのため、親からのプレッシャーが凄まじく、また公立は教育委員会の強い制約下にあることも相まって「事なかれ主義」が蔓延している、と思われている。その点、私立は教育基本法や区の教育指導方針に準拠しているとはいえ、学校独自の教育理念を確立しているため、公立よりかのびのびとした教育環境にある、と思われている。このように、教育環境においても、またその後のキャリア形成においても、公立よりも私立の方が評価されているのである。私立のレベルが教育のスタンダードよりもはるかに上で、もしかすると「やりすぎ」なのかもしれなくとも、私立と公立とで教育の質に天と地ほどの差があるのだとすれば、親としては私立校、それも中高一貫校に我が子を何としても入学させたい、と考えて当然だろう。

 そういうわけで、地方では馴染みの薄い「中学受験」が東京では白熱するのである。我が子が将来、裕福で幸せな人生を歩めるかどうかは、ひとえに私立中学に入学できるかどうかにかかっている、とほとんどの親御さんは考えている。入学先が私立か公立か、それがその後の人生を決める大きな分岐点になっているのだ。この分岐点の、より上等な方に行くチャンスを手にするための大前提が「塾に通うこと」なのである。

 ところで、私は塾と名の付く場所に通ったことが一度もない。家庭教師がいたわけでもない。すべて自学自勉であった。それでも、高校はいちおう県下一と言われる進学校に進み、地方国立大学をパスしたから、「塾なんぞ行かずとも大学には行ける、俺がその証拠だ」と思っていた。それどころか――塾に勤めておきながらこう言うのも何だが、塾なんて不要だとすら、思っていた。だが東京で、中学受験に挑む生徒を受けもってから、この考えは100数十度変わった。

 公立キャリアの人間にとって、入試を含めたテストと名の付くものは「授業で習った内容」の確認に過ぎない。もし教科書に載っていない内容を訊く問題があれば、それは明確な「ルール違反」であり、テストとして失格であった。しかし、この原則は私立中学受験にはまったく通用しない。その入試問題は一見して明らかに、また生徒本人に訊いても、小学校の授業ではけして扱わない、それどころか、中学や高校に上がっても習うか習わないかといった問題がほとんどなのである。

 「塾に通うこと」が中学入試の大前提である、と私が言ったのはこのためだ。小学校では習わないのだから、その他の教育機関で習わなければ挑んだところで負けは確実である。中学入試用のテキストは豊富に存在するので、自学自勉もできなくはないものの、とてもではないが、小学生が自力で習得するのは酷な難易度である。親御さんでも教えるのは難しかろうし、何より子どもに勉強を教える時間などない、という方が圧倒的多数なので、やはり受講料を払ってでもプロの講師の教えを請うというのが妥当な、というよりほぼ唯一の選択肢となる。

 「問題」はここだ。

 高ランクの大学に入学するためには私立の、特に中高一貫校に通った方が断然有利、そのためにはまず中学入試に合格しなければならない、しかし中学入試の内容は小学校では習わないようなものばかりなので、塾に通わせなければならない、すると、そもそも受講料を支払う余裕のない家庭はこの「私立キャリア」のスタートラインにすら立てない、ということになる。

 経済力の格差が教育の格差につながっている、と近頃の教育学者はしばしば警鐘を鳴らす。公立キャリアの、しかも塾などに通っていなかった私にはあまりピンと来なかったのだが、しかし中学入試が塾通い前提だとわかった今となっては、なるほどと頷かざるをえない。中学入試に挑むためには週に複数回の塾通いが必要条件になる、と考えるならば、授業の形態が個人指導か講義形式かにも寄るし、塾を掛け持ちしているかどうか(これが意外に多い)も見なければならないが、どれだけ少なく見積もっても月10万円ほどの出費は覚悟せねばならない。サラリーマンの平均年収は400万円ちょっとだから、そのおよそ3から4分の1が塾の受講料に消える計算となる。それにそもそも、私立は公立に比べて授業料が高いのだ。もしかすると、年収すべてを教育費につぎ込んでも足らないかもしれない。平均を相当程度上回る経済力がなければ、私立校に子どもを通わせるなど夢のまた夢なのである。

 そのため、シングルマザーなど生活費を捻出することも難しい家庭は中学入試を早々に諦めてしまう。ちなみに、そういう家庭も塾に子どもを通わせているが、だいたいは「託児所代わり」にしている程度、あるいは公立レベルの授業の補助が目的で、中学入試に備えているわけではない。また、子沢山の家庭ではすべての子どもに中学入試を受けさせるようなことはしない。それでは家計が破産するので、なかでもよく勉強が出来る子だけに入試を受けさせるか、あるいは全員公立に通わせるなどして対処している。

 「私立に行かねば大学に行けない」という認識が拡がっている東京においては、もはや「塾に通わなくば人ではない」のかもしれない。無論、これはかなり誇張した言い方ではあるものの、だがあながち間違いでもないと思う。「子どもに愛情を注ぎ、その将来を憂うならば私立校に入学させなければいけない」という「親としての責任感」が多くの家庭で見られる(実際に子どもに愛情を注いでいるか否かは、それほど問題ではない。これは世間体の問題であり、また親としてのアイデンティティの問題でもある)。子どもが中学入試に挑んで不合格だった、ならまだしも、その前提である塾にも通わせてあげられない、というのは人の親として恥である、という認識が芽吹いていてもおかしくない。あくまで私の推測なので、正確なところはだれかのアンケート調査を待つよりないのだが、おそらく塾通いにかかる養育費の増大が出生率に多少なりとも関係しているのは確かだろう。「塾通いは子育てにおける特殊事例」と見れば養育費はもっと低く見積もってもいいのだが、「塾通いは子育ての大前提」とするものだから、子どもひとり当たりの費用が「余計に」多くかかる計算になり、それを「水準」として考えれば、収入の少ない夫婦は我が子の不幸を思い、子作りを控えてしまう――。

 現在の東京の教育界は、この「経済格差=教育格差」という「教育の平等」に関わる大きな問題を抱えている。これは、東京の教育界が「私立系」と「公立系」に分裂してしまい、かつ前者の方が力関係の上位に立っていることに原因が求められよう。

 私は「私立」や「公立」の区別があること自体が「教育の不平等」につながっている、と批判するのではない。「教育の不平等」の原因は私立系がスタンダードになりつつある、という点にある。地方では、私立は公立の「従属下」にあった。私立系は公立系のカリキュラムからはみ出すことはなく、教育水準を牽引するのはあくまで公立系だった。だが、東京ではこれが逆になる。教育水準をリードするのは私立系であり、公立系のカリキュラム遵守は律儀というより「愚鈍」なものとなる。私立系は公立系におかまいなしに独自のカリキュラムを進めるが、人々は公立系よりむしろ私立系の方の教育方針を評価し、正当であるとしている。だが、私立中学ないし中高一貫校に入学させるためには小学校のカリキュラム以上の内容を学ぶ必要があるので、子どもは塾通いをすることとなる。この塾通いが不可能な家庭に私立への、すなわち高度な教育を受け、高い社会的評価を受けるキャリアを積む道ははじめから閉ざされている。

 地方においては、経済格差が教育格差にダイレクトに響くことはあまりない。公立系のテストは「教科書に載っているもの」であり、塾に通うことが必要条件になることはないからだ。しかし東京では、中学入試の問題が「教科書に載っていないもの」がほとんどなため、塾は学校教育の補助ではなく、教育の中核すら担うことになる。ゆえに、経済力の有無がそのまま教育格差につながっていくのである。

 ところで、「教育格差は是正しなければならない」というのは多くの人が共通してもっている社会正義の公準であろう。でなければ、経済格差と教育格差の関係など問題にすらなるまい。すると、「教育格差」の対義語たる「教育平等」の内容がひとつ議論の的となろう。ときに、私立校の入試のレベルが難しすぎて塾に通わなければほとんど合格不可能である、という状況に対し、その私立校に入試問題のレベルを下げるように要請するのは、果たして正当だろうか? たしかに、教科書準拠の「公立系入試問題」になれば、塾通いが必要条件ではなくなり、「結果的に」経済格差はそれほど大きな問題とならないだろう。子どもの教育キャリアの差は、経済力よりも子ども本人の資質の問題になるだろう。しかし、現に多くの親御さんや子どもがその難関私立校を目指している、つまり需要があるにもかかわらず、それを「標準に引き下げろ」というのは、あまり好ましいととはいえない、と私は思う。

 重視すべきは「結果の平等」よりも「機会の平等」であろう。

 私が東京の教育界を「問題あり」とするのも、この「機会の平等」が守られていないからに他ならない。塾に通う経済力のある家庭に生まれた子どもと、そうでない子どもとの間に明らかな「機会」の差が生じてしまっていること、これが問題なのである。

 では「機会の平等」を取り戻すためにどうするか。私は小学校において習熟度別教育を徹底すれば良いと考える。

 現在の学級別教育ならびに「半端な」習熟度別教育だと、「結果の平等」も「機会の平等」も果たせない。地方であれば「機会の平等」はそれなりに、少なくとも自己弁護可能な程度には果たせたかもしれないが、私立が台頭している東京ではそれすら怪しい。習熟度別教育の徹底はこの東京において「機会の平等」を達成するための最低条件なのだ。すなわち、成績優秀な生徒には中学入試レベルの授業を、それに付いていけない生徒は公立カリキュラム並の授業を、それでも無理な生徒はもっと簡単な授業を、と振り分ける、それが「機会の平等」につながっていくと私は信じる。

 中学入試の難度も出問傾向は、当然学校によって異なるが、しかし教材販売を手がける業者や進学塾はその内容のレベルを十分に分析しており、そこにはひとつの「民間教育学」ができあがっていると言っても過言ではない。その「民間教育学」の成果を小学校も取り込み、成績優秀な生徒に対しては、たとえ教科書にない、つまりカリキュラム外の内容であっても、中学入試レベルの内容を授業で教えるのだ。民間の参考書はそれを十分にこなせるほど充実している。だから、「国定教科書」の内容はひとつのスタンダードとして残し、成績優秀な生徒の授業では「民定教科書」を使えば事足りよう。

※言うまでもないが、日本の教科書は一から十まで国が作っているのではなく、民間で作った教科書を文科省が認可する形で作成されている。

 中学入試レベルを十分にこなす生徒でも、家庭が経済的に貧しい場合は私立中学入試を断念しなければならないこともあろう。そのような成績優秀だけど経済力がネックになる生徒には奨学金を与え、公立程度の授業料で私立校に通えるようにすればよい。このような選抜と救済措置は、実は学級別教育では不可能だ。なぜなら、中学入試レベルの問題は小学校のカリキュラム外にあるため、小学校での成績が良いからといって、中学入試レベルの問題が解けるとは限らないからだ。現に、よほど成績優秀か、あるいはスポーツ等の特殊技能が優れているなどの条件がなければ、中学入試に推薦枠は存在しない。ゆえに、優秀な生徒を選抜し、また家庭の経済事情を十分に酌量するためには、小学校で中学入試レベルの授業を行い、それが理解できているかどうかを審査できなければならない。

 東京で「機会の平等」を実現するためには、「学校で」中学入試に必要な知識を習得できるようにしなければならない。現状はそれができていないから、塾通いが中学入試の、ひいてはより良い人生を送るための大前提となってしまっているのだ。すると、経済力のない家庭に偶々生まれついてしまった子どもは、いくら潜在能力に優れていても、中学入試のスタートラインにすら立てないことになってしまう。これは不当である。「私立が無駄にハードルをあげているのが悪い」という意見もあろうが、需要すなわち「大義」は私立にある。とはいえ、中学入試レベルはすべての子どもが理解できるほど易しくはないから、国定をスタンダードとしつつ、それ以上の内容を理解できそうな子どもに限り、学校で民定レベルの、すなわち中学入試レベルの授業を行う。これが「教育格差」を是正するための最低限の措置だ。

 東京は、公立すなわち国や自治体や教育委員会が教育のレベルを設定し、牽引できる地方とは事情が違う。東京の教育スタンダードは私立が、すなわち市場が決めるのだ。「教育の市場競争」という、人によっては許し難いような実態が存在している。私立校はこの競争を生き抜くために、教育市場の動向、すなわち各家庭の要望を分析し、受け容れ、自己変革していった。その結果、小学校のカリキュラム外の内容を中学入試で課すに至った。おそらく「ゆとり批判」の風潮も相まって、この方針は非難よりもむしろ称賛と需要を生むこととなった。もはやこの流れは変え難い。ならば学校、特に公立校もこの「教育市場」の需要を受け容れて、それに対応できるサービス供給体制を整えるべきであろう。その一策が習熟度別教育と民定教科書導入である。それができない限り、教育にかかる需要は市場によってのみ満たされることとなり、そこへのアクセス権をもたない経済弱者が取り残されてしまい、経済格差=教育格差はいつまでも解消されないだろう。

※ところで、習熟度別教育にはかなりの批判が集まっている。たとえば、生徒の間に「差別」を持ち込むとは何事か、という意見があるが、東京においては中学入試の時点で(最近では小学校入学の段階ですでに)そのような「差別」はできあがっており、子どもたちは遅くとも中学に上がった段階で自分の「身分」をわきまえるようになる。それに、高校・大学・就職と人生のステージを進むにつれて、遅かれ早かれそのような「階層分化」は経験することになるのだ。今さら成績別にクラス分けしたところで、子どもたちの心情に大きな傷を穿つことはあるまい。仮に何かしらの傷を与えることになろうとも、東京で「機会の平等」を実現するためにはやむをえない、と私は考える。無論、これはどちらをより重視するかの問題であり、白黒はっきりつけられるものではない。

 また、習熟度別教育によってある種の「エリート意識」が生じるのを問題視する向きもあるが、私は別に構わないと思っている。資本制社会においてエリートは自然と生まれてしまうものだ。ならば、そのエリート予備軍にエリートたる矜持を抱かせる方がよほど現実的だと思う。要はノブレス・オブリージュをしっかり植え付けること。自分は自らのためではなく、社会や弱者のために活動すべきであるという倫理を教育すること、こちらの方が「生まれてしまうが生まれてはいけない」と主張するよりよほど建設的だろう。

読書メモ

老考酔談


老子―中国古典選 (朝日選書―中国古典選 (1009))老子―中国古典選 (朝日選書―中国古典選 (1009))
(1997/01)
福永 光司

商品詳細を見る


 あんた、ずいぶんくたびれた顔してるねェ。
 気苦労がすぎてほとほと萎れちまッたみてぇだなァ。まま、ともかくこっち来て一杯やろうや。安酒しかねェが、冷えた身体にゃなかなか沁みるぜ。

 ん? ははぁ、なるほどな、世の中腐り切ってると、わかってねェ輩が多すぎると、みんな騙されてると、あんた、そんでムカムカしてるってわけかい。お優しい人間なんだなァ。間違いとか、不正とか、そういうのが許せねェ質なんだろ?
 そいつぁまア、けっこうなことなンだろうがなァ。
 
――大道廃れて仁義有り、智慧出でて大偽有り、六親和せずして考慈有り、国家昏乱して忠臣有り

 ってな……ん? ああ、こいつぁ老子さまの言葉よ。世の中うまくいってないときほど、あれが良いこれが正しい、あいつが悪いこいつが間違い、だれが凄いやつはダメだと、まあ姦しく騒がれるもんだッてことサ。
 あんたもそんだけ腹立ててるッてこたァ、正義のひとつも気負ってるンだろう? いやいや、からかってなんざいないサ。善い悪いの区別をもたねェ人間なんていやしねェ。どんなヤクザな連中だって、野郎なりに道義ってもンがあるのよ。しかしな、
 
――天下皆な美の美たるを知るも、斯れ悪のみ。皆な善の善たるを知るも、斯れ不善のみ。

 俺たちが良しとも善しともしてることってのは、本当に正しいもんなのかねェ? もしかすると、ひでェ勘違いをしてるんじゃねェかなァ? まア、何が正しいかなんざ俺は知らねェがな、けどこれだけは、たぶん本当なんじゃねェかと思うぜ。

――禍か福の倚るところ、福か禍の伏す所、孰れか其の極を知らん。其れ正無し。正復た奇と為り、善復た妖と為る。

 「それだけのもの」なんてないのサ。それは正しい、とか言われたこともひょんなことから間違いにならァ。道徳家が教える善いことなんざいかにも怪しい。幸せの裏には不幸が、不幸の裏には幸せが張り付いてやがる、つまりはこれだ、この100円玉の裏と表、どっちかだけってのは無理な相談サ。だからよ、

――道の道とす可きは常の道に非ず、名の名とす可きは常の名に非ず。

 善いやら悪いやら言われている間は、善いもンでも悪いもンでもないのサ。逆しまに言いやァ、善いやら悪いやら云々するから、善いもンやら悪いもンが生まれてくるのよ。もし真正に善いもンとか悪いもンとかあるなら、そいつは善いとか悪いとかとは別の次元にあるンだろうな。

――其の白を知りて、その黒を守れば、天下の式と為る。天下の式と為らば、上徳たがわず、無極に復帰す。

 世の中にゃあ白も黒もある。世間様は白黒はっきりつけたがるが、そいつァ世の真相ってのを見たくねェからなのサ。まアみんな忙しいからなァ、ンなもんいちいち気にしちゃいられねェってことなのかね。ともかく、この世界ってのは白か黒かじゃあないンだな。白でも黒でもねェ、しかし白でも黒でもある、かといって混じってるわけでもねェから灰色にもなっちゃいない、どっちでもあってどっちでもない、そういうものよ。
 だからな、あれが善いこれが悪い、こいつが優れてあいつが劣る、そっちは真でこっちは偽だ、なんていちいち振り分けするのは止めにしておくに如くことはないのサ。

――学を絶てば憂い無し。唯と阿と、相い去ること幾何ぞ。善と悪と、相い去ること何若。

 人間、半端に学なんてつけちまうと、世の中ってのがどうにも腐ったもンだと見えちまうンだがな、んなもん意味がねェのよ。「はい」も「いいえ」も違わねェ。どっちも同じ事の両面よ。善いも悪いも分かちがたい、すべてが善くもありゃあ悪くもある。だから、ああしたいこうしたい、こうしようそうしよう、とかまア、腐った世の中正そうとか、世直ししようと発心しても、栓のないことなのよ。

――天下は神器、為すべからざるなり。

 ンなことしたってよ、ほれ、空を見てみろい。都会の空は狭ェからなあ、こういうところで育っちまッた人間は、世の中を自分たちの手でどうにかできると思い込んじまうンだ。けどよ、天ってもンは悠久無辺、人がどうこうしたところで、こいつをひっくり返せると思えるかい? 天の広さを少しでも観じりゃあ、自分のちっぽけさも思い知らァ。あくせくしたって仕様がねェさ。何したところで世界はどうとも変わらねェ。あとは野となれ山となれ、お天道様の赴くままに、飯喰って屁ェこいて寝るだけさ。
 あ? なんだ、無責任じゃないか、ってか? ははははは、いやいや、そうだなァ、老子さまの言葉を引くと、大抵向こうは目くじら立てるのよ。しかしな、そう言うやつは、自然の雄大さってやつがわかってないンだよ。近頃は「自然はすばらしい」とか言うようなやつほど、自然の力をわかってねェみてえだが。

――知る者は言わず、言う者は知らず。

 自然の力ってのはよ、俺たちの想像の遙か上なんだ。それを弁えてりゃあ、自然のことなら何でも知った気になってあれこれ言おうなんざ思ねェし、ましてや、それをどうこうしようなんぞまったく畏れ多くてかなわねェよ。無責任とか言うヤツは、自分が自然をどうこうできると考えているンだな。ま、そういうのは結局、地位や名誉や称賛が欲しいだけなのよ。自分にゃ力があって、その力で自然を従えて、そンで世間に褒められたいのサ。自分は運命を変えられるッてな、まったく、小賢しいこったなァ。

――学を為せば日に益し、道を為せば日に損する。之を損し又損して、以て無為に至る。

 無駄なもンは全部捨てちまうこった。己を削るのサ。あんたにまとわりついてる知識やら経験やら技能やらは、自然を手下にするために出来たもンなのよ。そういう余計なもンを削ぎ落としに落としに落としきって、そうしてはじめて、人ってのはありのままに生きられるのよ。
 ん? はははは、そうさな、ンなことしちゃあ、浮き世じゃ生きていかれねェな。世間様にとっちゃ、そういう余計なもンが、人間そのものなンだからなァ。ま、世知辛い話さ。

――我れは愚人の心なる哉、沌沌たり。

 ありのままに生きる、自然に身を委ねて生きる、そんヤツは、世間様からすればゴミみてェな愚か者よ。だから世の人は必死になって自分を益しに益すのさ。ゴミにされたくねェからな。でもな、益せば益すほど、人はやつれていくもンなのよ。だってよ、でっかい自然をちっぽけな自分でどうにかしてやろうとしてるンだぜ? 無理難題を背負ってるッてこった、そりゃあ疲れて果てないもンかよ。

――古の善く道を為す者は、以て民を明にするに非ず、将に以て之を愚にせんとす。民の治め難きは、其の智多きを以てなり。

 ま、ともかく平穏無事に生きるためにゃ、愚か者になるのだ一番なのサ。この道理を知らねェやつが、あれこれごたごたと智慧をつけて、何が善いやら悪いやら騒ぐのよ。人為の賢しらが幸せを呼ぶこたァない、それどころか、あれこれどうこう手を出しゃあ、幸せはそれだけ遠ざかるもンなのサ。
 あんたはいいヤツだよ。正しいことと善いことを愛し、自分ができることをしたいと望んでいる、まア人間としちゃあ上出来だ。しかしま、いろいろ思うところはあるンだろうが、それはあんたの心を磨り減らすだけだぜ――。

 おっと、もう帰りなさるのかい? 明日も仕事かァ、そいつァご苦労だな、どれ、もう一杯飲んで行きな。安酒だが、俺のおごりだ。

論考・自論

死刑制度に関する私見――免疫的社会防衛への警鐘も兼ねて

 死刑制度の賛否についていまなお議論が絶えない。裁判員制度に移行してのち、死刑の宣告は市民の選択の問題となり、はたして自分は他人に死を与えることができるのかという穏やかではないテーマが突きつけられることとなった。

 日本国民の多くは、どうやら「自分が死を宣告するのは、被害者感情に考慮すれば死刑もやむなし」とか「凶悪犯は排除しなければ社会生活の安寧を保てない」という意見を妥当とするようで、死刑制度存続論が優勢といえる。死刑制度廃止論が「なんぴとたりとも、人の命を奪う権利などない」と声をあげたところで非現実的としてあまり受け容れられないし、ヨーロッパなどでは死刑制度を廃止しているじゃないか、と言ったところでウチはウチ、ヨソはヨソで片付けられてしまう。せいぜい「冤罪の可能性は捨てきれない」と指摘して死刑廃止の妥当性を維持するのが精一杯だ。

 ところで、被害者感情あるいは国民感情に配慮して死刑制度の存続を唱える人々は、日本の法は古代バビロニア的「復讐法」なのだと見ていることとなろう。つまり刑罰とは、他人に与えた苦しみと同等か、あるいはそれ以上の苦しみを与えるためにある、というわけだ。多くの人はこれに加えて、己の「罪」を反省させ更正させるという役割をも刑罰に期待している。
 
 さて、もしこのように「苦しみに対して苦しみを」もしくは「苦しみを通して反省を」与えるための刑罰という観点に立つならば、死刑制度は刑罰の役目を十分に果たしていない。なるほど、死もまた人間が味わいうる最大級の「苦しみ」ではある。しかし、死は一回切りな上、わたしたちは死刑に付された者が本当に苦しんだのかを知ることができない。下手をすれば、生きる希望をなくしてしまった者にとって死は救いにすらなるかもしれない。

 もし刑罰を感情的報復の代理執行とみなすなら、死刑では不足なのである。死刑を上回る「罰」を与えねば、復讐法の理念は叶えられない。よって、死に勝る苦しみを与え続ける罰を考案しなければならない。これを仮に「地獄刑」とでも呼ぼうか。地獄に堕ちた人間は死ぬことなど許されない(そもそも死んでいるからでもあるが)。生きたまま永遠に火に焼かれ、身を引き裂かれ、苦行を強要されるのである。それと同様に、簡単に死など与えず、その者の成した悪行に適うほどの拷問的な苦しみを科し続けるのだ。そうやってはじめて、感情的報復を目的とする刑罰の理念は叶えられよう。

 この「地獄刑」に対しては様々な批判が寄せられるだろう。とはいえ、その批判の内容はひとつに収束できるかと思われる。すなわち、そのような人権を無視した刑罰は認められない、と。しかし、これは奇妙な反論である。「地獄刑」が人権侵害だというのなら、死刑はそうではないというのだろうか。もちろん、受刑者の苦しみがなるべく緩和されるよう死刑の執行には様々な工夫が凝らされていることを私も知らないわけではない。しかし、どんなに慈悲深い措置がされていようと、それは結局「人間に死を与える」という、生命の尊厳の否定に行き着くのである。どれほど死刑囚に配慮しようと、この最終結果が変わらない限り、生命を絶つという行為への弁明はむなしいものとなる。要は人権侵害など程度の問題なのだから、「地獄刑」があってもいいではないか。

 「地獄刑」制定の請求は、しかし法律に対する無茶降りもいいところである。なんとなれば、いみじくも法治国家たる日本の法律とそれに則った刑罰に、復讐法的意味合いは含まれていないからだ。自由主義的な近代国家の法律は、そうではなく、国民の「自由な活動」を維持するためにあるという機能的側面から制定されていると考えるべきだろう。つまり、他の主体の自由な活動を、身体を傷つけたり、公正性を欠く要求を押しつけたりして損ねた者は、その主体的な自由の行使を一定期間制限される、という事実を示すことが重要なのだ。つまり、互いが互いの自由を侵害しないだろうという想定を「もし侵害すれば侵害した側の自由が失われる」という事実によって補強し、各人がより自由に活動できるような状況を演出するのが、法律の機能なのである。

 ゆえに、感情的報復を求める復讐法的発想で死刑制度の是非を問うのは的はずれだと言いたい。「被害者感情に考慮して、死刑制度の存続を」と言うならば、むしろ主張すべきは「死刑より過酷な刑罰の制定を」であるべきだろう。しかしこれは近代国家の法律の目的に適っておらず、死刑制度の論点からは著しくはずれてしまう。感情的報復を近代の法律に求めるのは筋違いなのである(それでもあくまで感情的報復にこだわるのなら『デットマン・ワンダーランド』でも開園してみてはいかがだろうか)。

死刑制度は、基本的人権など人間の尊厳が定められているはずのこの近代社会の直中に存在している、という状況をふまえて論じるべきだと私は考える。人間の基本的な権利である自由を侵害した者にはその自由が奪われる、という、一見するとあまりに自明で当然の摂理。けれどここには、法律の不気味さ、そして私たちが死刑制度に人間の何を賭けられているのかを示唆する事実が含まれている。

 人間の自由や生命活動の保持を、生きとし生けるすべての人間に保証されるべき普遍的権利とする考えを、市民による革命を経て近代の民主主義思想は育んできた。基本的人権を尊重すべきという価値観を、いまや世界のほとんどの人間が支持し、民主主義的な原理は人々の行動の規準となっている。基本的人権はすべての人々に平等に保障されているべきだ、という立場からすれば、法律が執行する諸々の刑罰は、この神聖不可侵たるべき権利への「例外的侵犯」となろう。つまり法律の力とは、人間の基礎的な属性を剥奪することにあるのだ。

 基本的人権の保障は、実質上、それぞれの国家の憲法によってでしか保障されえない。しかし、憲法はあくまで、ある人間が国家の「国民」という範疇に在る限りで、その人権を守るよう国家に要請するのである。だから言い換えれば、法律は国民の「国民」という人格(ペルソナ)を奪い、一個の「ホモ」に変換するための装置だともいえよう。

「ホモ」となった者は、もはや「人間」というカテゴリーに容れられることはない。仮に、法律によって刑罰を処せられた者も「人間」だというならば、これは人間であれば誰もが有するはず普遍的権利たる自由権への紛う事なき侵害である。だから法律は、「人間」を「ホモ」に変えることで、人間の天賦の権利と決定的に対立する事態を回避しているのだ。法律が人間の普遍的権利と併存しえるのは、囚人が人間ではないからという論理が構築されているからなのである。

法律は絶えず、民主主義社会に生きる人間を守る「普遍法」にとっての「例外状態」を創り出す。法律とは、この「普遍法」をうち崩すための攻城槌(カタパルト)なのであり、ゆえに法律は、人間から人間の仮面(ペルソナ)をはぎ取るための「暴力」に依拠することとなる。ここで、ヴァルター・ベンヤミンに倣って「警察」を文明社会における「化けもの」と形容するのは間違いではあるまい。「例外者」の査定と捕縛を担うのは、他ならぬ警察なのだから。警察は外見上「普遍法」の守護者としてふるまうが、しかし「普遍法」は人間から人間の尊厳を奪う儀礼的方法を定めていないのである。結局、警察は国家の法律に従って「普遍法」を、たとえ一時的にせよ侵害しないことにはその職務を達成できない。だから警察は、民主主義社会における非民主主義的要素として存在しているのである。

早めに訂正しておくが、私はアナーキストではない。先述した通り、法律は自由の補強する機能を果たしているのであり、その限りで近代社会には不可欠なシステムなのだ。ここで問題となっているのは、「何を/どこまで賭けるのか」ということだ。人間の基本的な権利のうちどれだけを法律と刑罰に譲り渡すのか、人間の生存を守る城壁のどこまでを割譲するのか、それこそが問われているのだ。私たちは私たちの自由を保障する権利を守るために、その自由の一部を譲り渡さなければならない、というジレンマと葛藤を抱えている。この二律背反を止揚し、解消する術をいまの私たちはもっていない。そのため、この鍔迫り合いのような法律と普遍法の間の国境紛争に、(たとえ暫定的であっても)どのような妥協点を示しうるのか、それが死刑制度の是非において問われている真のテーマなのである。

われわれはわれわれの自由のために、自由をどれほど犠牲に捧げられるのか――そうなれば、死刑制度の争点はその予防法的効果の評価に絞られると考える者もいよう。自由権の永久停止が目的であれば、終身刑であっても構わないからだ。終身刑と死刑の差はその恫喝の衝撃性にある。だから、いきおいデモンストレーションとしての死刑の優秀さが議論の焦点となってくるだろう。しかし、死刑は人間社会のより本源的な――そしてだからこそ、非常に厄介な――ある欲望が先鋭化して表出した形態であり、他の刑罰とはその性格を大きく異にしているのである。だから、法律の予防的機能という点でのみ死刑を争点化するのは、より重大な、隠れた問題を見過ごすことになりかねない。

 ここで、死刑制度賛成派がとりわけ掲げる「社会にとって危険な人物を排除する」という死刑の「効能」を取り上げたい。連続殺人犯、テロリスト、更生する見込みのない犯罪者など、凶悪な存在をこの世から抹消すること。この「社会の防衛機能」を死刑は果たしており、ゆえに死刑は安全な社会の創造と維持に必要なのだ、というわけだ。

死刑においても、法律の非−国民化、非−人間化のメカニズムが働いている。「死刑」は、死刑囚の人間性を完全に剥奪し、ただの「ホモ」とした上で死を与える。その実行の場面で、執行者が死刑囚の苦しみを軽減させるよう配慮するのは、人間の尊厳を守るためではない。そんなものはとっくの昔に無効とされているのだ――そうでなければ、死刑執行人はただの「殺人者」になってしまう。むしろ、工場で牛や豚を屠るときの心情に似ていると言うべきだろう。つまり苦痛を感じさせることなく一瞬にして死に至らしめるのは、多分に「効率化」が理由なのだ。それはある生命の死に「意味」を与えることなく処分するための方法なのである。

 ここで死刑は新たな権能を付与されている。死刑は、自由権の永久停止の示威というだけでなく、社会の「免疫学的機能」をも果たしているのである。死刑は社会にとって有害な存在を、さながら白血球のように体外に排除するための一器官なのだ。死刑執行までの、おぞましいまでの無感情さは、この免疫機能の無機質的プロセスを忠実になぞっているかのようである。ここに至って死刑は、近代法の範疇を超えて、新たな法の形成へと向かっている。ベンヤミンは言う。

「死刑の意味は、違法を罰することではなく、新たな法を確定することなのだ。というのも、生死を左右する暴力を振るえば、ほかのどんな法を執行するよりも以上に、法そのものは強化されるのだから」(p.43)。

 死刑の「法措定的」な力が構築する新たな法とは、この免疫的メカニズムに他ならない。危険な存在や不要な存在を社会という身体の外へ排出する、種の健康と生存のための法。この「免疫−法」は社会という身体の存続と純化を指向するがゆえに、より機敏に、よりより熱狂的に、よりストイックに、異物の排除に邁進する。というのも、この排除=死を通してのみ、社会は生存の安全性を高めることができるからだ。

 「免役−法」は「生きるに値する生」と「死に値する生」とを選り分ける。しかし「生きるに値する生」の基準は死の輪郭でもってしか測りえない。生は自身のあるべき姿を自身のカテゴリーのなかで積極的に提示することが出来ないのだ。死をも「値する」と記したのは、まさしく死こそが、死を与えることこそが、生の内実を規定し、豊かにすると考えられるからだ。死すべき者の同定と死の実践によって、その骸で編んだ外縁でもって輝かしい生のあり方は示される。存在してはならない者の徹底的否定を通して、集団のアイデンティティの境界線が浮かび上がるのである。

 どうして終身刑ではなく死刑なのか、ここにも免疫学的な概念からのメタファーが潜んでいる。死刑の効能を主張する人々がもっとも恐れているのは「パンデミック」の発生なのである。つまり、危険なウイルスが他の善良な身体に感染すること、それが連鎖反応的に広がっていくこと、これが最大の脅威なのだ。かれらは凶悪な危険人物が息をしているだけでも我慢がならない。そのような者が存在してしまっているということそれ自体が、次の世代に悪しき先行例を示してしまうことになりかねない、とかれらは考えているからだ。だからこそ、感染が拡がる前にいちはやく「除染」しなければならないのである。

 わたしたちはこれに類似した発想を、前世紀最大の帝王の自伝から伺うことができる。

「不治の病人に、絶えず他の健康な人々に感染する可能性を許しているのは中途半端である。これは、一人に苦痛を与えないために、百の他人を破滅させるような人道主義と一致する。欠陥のある人間が、他の同じように欠陥のある子孫を生殖することを不可能にしてしまおうという欲求は、もっとも明せきな理性の要求であり、その要求が計画的に遂行されるならば、それこそ、人類のもっとも人間的な行為を意味する。その要求は幾百万の不幸な人々に不当な苦悩を免れさせるだろうし、そして結果として、一般的な健康増進をもたらすだろう。……不幸にもそれにかかったものに対する野蛮な措置も、しかし、同時代および後世の人々にとっては祝福である。百年の一時的な苦痛は数千年を苦悩から救いうるし、救うだろう」(「わが闘争 (上)」p.351)

 ナチズムは社会の徹底した免疫化と民族の純血化を図った。しかしそれは、前世紀のはじめから半ばにかけて偶然に発生した「異常現象」などではない。異物の死によって他の生の健康を保持しようする免疫学的社会防衛。その具現形たるアウシュビッツの廃墟は、わたしたちの立つ地面の下に暗渠として埋もれているのである。

 死刑こそ、ロベルト・エスポジオのいう「死政治(タナト・ポリティコ)」のもっとも明確に、そしてあまりに堂々と現前した姿なのだ。ここでの「死の欲動(タナトス)」は初期のフロイトが用いた意味に解すべきだろう。すなわち、人間をふくむ生命体は、外的刺激を感じることのない原初の状態に戻ろうとする欲動をもっている。というのも、外界からの刺激は、生命体にとっては基本的に苦痛でしかないからだ。ゆえに、生命体は無機質的・無感覚的存在への回帰を欲し、外界との関係の完全な遮断――言い換えれば自己の純化――すなわち死に向かう傾向を有しているのである(詳しくは「快感原則の彼岸」を参照いただきたい)。

 「免疫―法」は社会の純化を図ろうとする。それは己にとっての不純物を排出することで内側と外側を厳然と分割し、その相互浸透の一切を遮断することで達成される。「免疫―法」にとって外界の存在は脅威であり、健全なる生に対する挑戦なのである。しかしこれは、白血病的な拒絶反応へと発展する危険性がある。白血球の異常な増幅は自己以外の存在への過剰な排撃作用を生み、結果として生命体の衰退を招いてしまう。これこそ、免疫反応によるタナトス的帰趨に他ならない。生命体は外界の拒絶を指向するが、しかし同時に外界からエネルギーを摂取しなければその活動を維持しえないのだ。「死政治(タナト・ポリティコ)」という概念は、「免疫―法」のこうした自己防衛のための純化指向が裏返り、次第に免疫的反応が己自身へと向けられるようになって、最終的に生命活動の停止へと繋がっていくプロセスを暗示しているのである。

私が危惧するのは、死刑のこうした「免疫―法」的理解が社会に「死」をもたらすことにならないだろうか、ということだ。死刑に表象される免疫学的社会防衛の機運が拒絶反応の連鎖を生み、社会の衰退につながってしまうのを私はおそれる。「価値のない者」、「危険な者」の排除や「死すべき者」の同定が社会の課題となったとき、ナチズムが未来の栄光とともに語った人種主義(レイシズム)の現代への召還がはじまるかもしれない。

以上の理由から、私は「社会にとって危険な人物を排除する」ための制度として死刑を評価する傾向に危機感を覚えるし、社会の免疫化を死刑の正当化に用いる言説には断固として批判の声を向けたい。フロイトは外界との経路を開こうとする生命のエネルギーを「エロス」と呼んだ。外界の拒絶に向かうタナトスと、外界との接触に向かうエロスの力学的緊張関係こそ、生命体の歴史なのである。社会を生命体のメタファーで捉える、100年以上も前の社会モデルの援用が許されるなら、わたしはタナトスよりむしろエロスの力に人類社会の将来を賭けたいと思うのだ。

読書メモ

ハーバーマス「近代 未完のプロジェクト」――終わりなき近代を生きるために

近代―未完のプロジェクト (岩波現代文庫―学術)近代―未完のプロジェクト (岩波現代文庫―学術)
(2000/01/14)
J.ハーバーマス

商品詳細を見る


公共性論や市民社会論で有名なユルゲン・ハーバーマス、かれの数ある論文のなかで重要なもののひとつが「近代 未完のプロジェクト」です。ハーバーマスは数々の著作を残しておりますが、どれも力作と呼ぶにふさわしい重厚長大なものであるため、かれの思考を辿るのはなかなか容易ではありません。今回は比較的短い内容でかれの考え方を知ることのできるこの論文を取り上げ、「近代」という、時代の認識を深めていくこととしましょう。

本文を引用するにあたってひとつ注意を促したいのですが、「モデルネ」という、日本語で「近代」を意味するドイツ語は、訳者の気遣いから「モデルネ」と訳すことなく表記されています。というのも、「近代」というと、私たちはその先の、いまのこの時代を指す「現代」とは断続しているものと見なしがちです。しかし社会科学の分野では、「近代」と「現代」を歴史区分として用いるよりも、「現代」も「近代」の陸続きと捉えるのが普通です(無論、時代は「近代(モダン)」から「ポスト・モダン」に移ったという議論もありますが、どの分野のどのような特徴の変化を重視するかで立場が異なってきます)。「近代」という時代と社会の諸々の特徴、たとえば資本主義であったり、国民国家であったりは、いまも変わらず生き続けているのであり、ハーバーマスもまたそのような立場を採っているたえめ、役者は「モデルネ」を「近代」と訳するのを避けて、「モデルネ」をそのまま用いているのです。



1.モデルンの用法

本論文はハーバーマスがアドルノ賞を授与された際の記念講演です。芸術に造詣の深かったアドルノにちなんで、ハーバーマスも芸術論から論をはじめます。もちろん理由はそれだけではなく、「モデルネ」という時代を論ずるに、人々の表現活動の結晶たる芸術に目を向けるのはとても有効だからでもあります。

まずハーバーマスは「モデルン(現代的)」という言葉に着目します。「モデルン」がはじめて使われたのは紀元後5世紀。キリスト教徒が異教の支配していたローマの時代と教会が支配するいまの時代とを区分するのに用いたのが最初です。基本的に過去と現在を分け、いまと昔が異なっていると理解したとき、「モデルン(現代)」という時代認識が生まれるのです。ゆえに、「モデルン」とは時代の変化の先端を意識した概念なのです。「今やモデルンとは、時代精神がアクチュアリティへとたえざる内発的な自己革新をするさまを表現へと客観化するものを意味するようになった」(p.9)。

「モデルンとされる作品の特徴は、新奇さにある」とハーバーマスは言います(p.9)。「モデルン」は自身が時代の先端にあることの自覚なのですから、その意識の上に築かれる芸術作品は、当然ながら新たな形式、新たな表現を伴っております。しかし、商品の入れ替えの激しい現代においては、新奇なものもたんなる流行としてあっという間に古くなってしまいます。ですが、これに対してハーバーマスは「真にモデルンなものは、古典的なものとある種のつながりを保持している」のであり、「強勢的な意味でモデルンな仕事も、時代を超えて生き残る……力を持っている」と言います(p.9)。いま古典と呼ばれている作品も、当時にあっては「モデルン」だったわけです。古典として残り続けるものが造られるのは「現代」といういまこのときに他ならない。たとえどれだけ商品の波が激しくとも、魅力のある作品は時代の制約を超えて後世まで生き残り、後に「古典」と称されることになるのです。



2.アヴァンギャルドのメンタリティー

古今変わらず、新たな「古典」を生みだす原動力は新しい表現への挑戦心であります。時代変化に敏感に反応し、新たな表現を獲得しようとする態度を「前衛」、すなわちアヴァンギャルドと言います。アヴァンギャルドとは、

「未知の領域に入り込む探検家として、突然のショッキングな遭遇の危険に曝されつつ、未だ占領されていない未来を征服するのである。アヴァンギャルドは、未だ誰も測量したことのない土地にわけ入り、方位、すなわち針路を定めようとする。だが、前へ向かって進もうとするこの努力、未だ定まっていない偶発的な未来への予感、新しきものへのこうした崇拝は、本当のところ、アクチュアリティの賛美なのである」(p.11)

このアヴァンギャルドの精神こそ、時代を先へ先へと進めていこうとする原動力なのです。しかもそれは、ただ過去を捨て去るのではなく、「そのつどもう過去にすぎないとして主観的に決めつけた過去を産み落としていくような、そうしたアクチュアリティ」なのです(p.11)。時代を切り開いたことで自身が再び古典となり、未来の世代の土台を造っていくような活動こそ、アヴァンギャルドには求められるのです。

しかし、アヴァンギャルドな態度には、モデルネという時代の避けがたい矛盾した成功が内包されてもいます。「この新しい時間意識が表しているのは、ただ単に流動化した社会とか、動きの早くなった歴史とか、日常生活における非連続性といった経験にとどまるものではない。それだけではなく、一時的なもの、瞬間的で過ぎゆくもの、またうつろいやすいものの価値を高めた」ものの、「こうしたダイナミズムへの賛美の中に表明されているのは、静止した汚れなき無垢の現在を求める憧れの念なのである」(p.11)。われわれ近代人は、新奇なものを乞い求めながら、しかし一方で変わることのない純粋な価値にも憧れを抱いているのです。けれど、たとえば、たえずイノベーションを欲する資本主義の欲望と、安定した生活を夢見る労働者の想いがうまく重ならないように、このふたつの極が一致することはほとんどありえません。「その点でモダニズムは、たえず自己自身を否定する運動」といえます(p.9)。

この自己否定の運動が続く限り、「伝統」や「歴史」といった過去の慣習や事実の連続から規範性を導くのは、ひとつの手段ではあるものの、やはり十分には機能しなくなります。モデルネは、特にアヴァンギャルドの美学においては、こうした規範性への反抗をそのアクチュアリティの源泉としているのです。「この美の意識は、伝統による規範化の作業に反抗し、いっさいの規範的なものに対する叛乱の経験を栄養源としている」(p.12)。

もちろん、モダニズムは規範ならば何にでも反抗しようとする精神を言うのではありません。「アヴァンギャルド芸術に表明されている時間意識が、徹頭徹尾、反歴史的であるというわけではない。ただ、偽りの規範性に対抗しているだけである。つまり、規範を模倣すれば事足れりと考えるような歴史理解に由来する偽りの規範性に逆らうのである。……この新しい時間意識は……歴史主義によってなされた規準の中立化に対しては、強く反抗する」(p.13)。ただ単に「決まりだから」といってそれに盲従すること、また過去の歴史の一点を普遍化し、批判不可能な規準を作り上げること、これらの静止的な態度に反抗することこそ、モダニズムの精神の表れなのです。



3.モダニティの精神の衰退と新保守主義の風潮

しかし、アヴァンギャルドを筆頭とする美的領域のモデルネの精神はすっかり老化している、とハーバーマスは嘆きます。この空隙を狙ったかのように、モダニズムを「経済と行政によって合理化された日常生活における約束事や道徳的価値への敵対心を煽るもの」として批判し、管理された規律正しい社会、そして伝統遵守を指向する「新保守主義」が台頭してきます。時代はモデルネ以後に移ったのだとするこのような考えを、ハーバーマスは退けます。

ハーバーマスから言わせれば、新保守主義はモダニズムの精神をなべてニヒリズムやコミュニズム、テロリズムやファシズムといった、人々にネガティブな印象を与える概念に兄に結びつけているのですが、これは新保守主義者が「経済と社会の資本主義的近代化が多かれ少なかれ上首尾に進んだ結果として生じた面白からぬさまざまな難問の責任を、文化的モデルネに押しつけている」に過ぎない(p.18)。この稚拙な批判は、かれらの社会分析力が弱いことに由来しているとかれは指摘します。

「社会の近代化という彼らにとって歓迎すべき動きと、意欲の減退とのあいだいにある連関を……視野の外に押しやっている。労働に対する考え方や消費習慣が変わり、要求の水準も高くなり、余暇中心志向が出て来たことの社会構造上の原因を取り出すことが彼らにはできない。だからこそ、さまざまな現象がいまや快楽主義に見えたり、献身的姿勢や服従的態度が欠如していると思えたり、またナルシシズムに思えたり、地位を求める能力競争からの脱落と感じられてしまったりというわけで、それらすべての責任を直接にこのモデルネの文化(筆者註:特に反抗的文化[adversary culture])に押しつけようとするのである」(p.18)。

新保守主義者は必死になってモダニズムの時代を刷新する能力を秩序の敵として封じ込めようとしますが、モデルネの文化はかれらの懸念する社会的活力の減退の真の原因ではありません。またモダニズムのはらむあの矛盾も、人々の不安の原因にはなっていない。新保守主義者の感じている不快感はゆえに倒錯的なのですが、かれらのように現状に不満を覚えている人々は多くおります。その原因をモデルネの文化になすりつけるのはあまりに表面的過ぎる。根っこはもっと深いところにあるのです。



4.システムによる生活世界の植民地化

「社会の近代化に対する反発に由来している。すなわち、社会の近代化が、経済成長や国家による組織的活動〔行政や福祉〕のもつ強制力に促されて、自然に生い育った生活形式の生態系に闖入して来ることへの、つまり歴史的な生活世界のもつ対話的な内部構造を浸食することへの反発に由来しているのだ」(p.20)

ハーバーマスの思想のキモとなる部分がいよいよ登場して参りました。ここは詳しく説明した方が良いかと思いますので、もう少し、引用を続けましょう。

「こうした不快感や抵抗運動が発生する多様なきっかけを見ていると、そこには必ず、経済的および行政的合理性にのっとった一面的な近代化が、文化的伝統の継承や社会的統合、さらに教育等の課題を芯に持つ生活領域に闖入してきているという現象がある。つまり、単なる合理性とは異なった基準、ようするに対話的合理性(kommunikative Rationalitä)
の諸基準に依拠した生活領域に侵入して来ているのである」(p.20)

まずは対話的合理性――社会科学をかじった人ならば、「コミュニケーション合理性」と言った方が通りがいいかもしれません――について。これは人々の、議論によって問題を明確化し、解決方法を模索し、合意によって了解するというコミュニケーションの一連の流れを志向する意志ならびにそのための諸手続のこと、と言っていいかと思います。その特徴は、はじめからある問題解決方法やそのための確固たる規準があるわけではない、という点にあります。そうではなく、新たな社会問題への意識やその発見に際し、それに見合う新たな規則を他者とのコミュニケーションのなかで構築していくことをこの理性は求めるのです。ハーバーマスは、これら人々の対話による問題の提起・解決がなされる領域を「生活世界」と名付けます。「生活世界」は、人々の間の自由な討論によって社会の認識が不断に改められる、今までの議論を引き継ぎつつ言えば、アヴァンギャルドを体現するような領域なのです。

それに対し、国民を監視下におこうとする国家や、作業効率を上げるために労働者を徹底的に管理しようとする企業などは、あらゆる行為をマニュアルの型にはめこもうとします。これら資本主義的精神は、公平性や品質の均質性にこだわるあまり、すべての事柄をシステマティックに処理し、必然の内に収めようとするのです。この「システム合理性」に基づく諸規制が、自由かつ偶然的な領域である生活世界にまで及び、「生活世界の植民地化」が進んでいるとハーバーマスは警告します。豊かな議論の可能性にあふれた生活世界に、必然性と一面性を押しつけるシステムが割り込んできている、このことが、人々の諸々の抵抗、社会への不満の元凶なのです。



5.理性の3つの分化と自律

ハーバーマスは社会学者のマックス・ヴェーバーを参照しつつ、モデルネにおける理性の3つの分化について取り上げます。その3つとは「真理」、「規範上の正当性」、「純粋性もしくは美」です。この分化によって、私たちが統一された世界像を描くのはひどく困難になってしまいました。というのも、諸々の問題は「認識の問題」、「正義の問題」、「趣味の問題」と分かれて捉えられるようになったからです。モデルネにおいて、この3領域を担うのはそれぞれ「科学(学問)」、「道徳」、「芸術」の各々の分野であります。それぞれの価値領域は独立して発展していき、制度化とともに専門家を有するようになり、固有の歴史や法則を持つにいたります。

この分化は、そもそも人間社会のさらなる発展のために寄与するものとして――意図的ではなにせよ、進められてきました。当初は「こうして蓄積された知的潜在力を特殊な人間にしかわからない高踏的なあり方から解き放ち、実践のために、つまり理性的な生活を形成するために役立てる」ことが目指されたのです(p.23)。しかし、事態は逆に推移したとハーバーマスは言います。「専門家による処理と反省を通じて文化の中身が壮大しても、それがそう簡単に日常的実践の共有物になるとはかぎらなくなってしまった。むしろ文化的合理化に伴って、生活世界は自身の伝統のもつ実質的な価値を奪われ、文化的貧困化の危険が増大している」(p.23)。

かくして、モデルネの前途を楽観的に見つめる余裕は次第に失われていきました。しかし結局、われわれにはこの知的分化を押し進める「啓蒙のプロジェクト」にこのまま乗るか、それとも途中下車するかしか選択肢はありません。「啓蒙の後衛」を務める哲学者の多くは、学問(科学)、道徳、芸術の領域のいずれかに依拠して、なんとかモデルネの理念の建て直しを計りましたが、いずれも片手落ちに終わりました。この3つは高度に自律的で、いずれかがいずれかを包括することなど不可能でした。また何より、専門家に任され、制度化されるようになった領域では「システム化」が進行してしまい、コミュニケーション的・自生的な生活世界とはそりが合わなかったのです。



6.文化の止揚の誤り

こうした理性の3分野の自律分化とシステム化による文化の貧困化に対処するためにはどうするべきか。まず言えるのは、システム化とそれに伴う内外(専門家と素人)の分化にひたすら反抗して、ひとつの文化領域の実践で以て社会のあらゆる領域を包括しようという企みは、なんであれ失敗すると言うことです。芸術の領域においてはシュルレアリスム運動がこの失敗例だとハーバーマスは言います。制度化され、基準の定められた芸術の枠を取り払い、専門家と素人という区別も、芸術も非芸術もないところから表現活動を展開しようとしたこの普遍性を求める運動は、しかし「芸術」というカテゴリーに付随する伝統的な諸々の手法や概念を使ってでしか表現活動ができない、という矛盾に直面し、かえって芸術の自律性を浮き彫りにすることとなりました。

結局のところ、自律的に発展してきた文化領域を打ち壊そうとしても、長い構造化の過程を経た枠組みから逃れるのは容易ではないし、「反○○」の宣言からはじめられる運動はなんであれ、その反抗の対象からは離れがたいものなのです。それになにより、「コミュニケーション的な日常実践の中では、認識次元での解釈、道徳上の期待、主観的な表現や価値評価は、相互に深く絡みあったものでなければならない。生活世界における相互理解のップロセスは、これら全領域にわたる文化的伝統を必要としている。しだがって〔筆者註:システム〕合理化された日常生活を、それに伴う硬直した分化の貧困から救うために、どれかひとつの文化的領域……を無理矢理に開け放ち、専門化した知識の集積体のひとつであるものにすべてを接合しようとしても、どだい無理ということになる」(p.32-33)

生活世界は種種雑多な文化領域を内包した、ある種カオス的な空間なのであり、そこをあるひとつの文化的領域で包み込んで統合(止揚)するのは無理があるのです。だから、芸術を普遍化しようとするシュルレアリスムの運動は破綻したのでした。芸術は生活世界の湛える多様な意味の全質量を受け容れる器としてはあまりに小さかったと言えましょう。

しかし、それは芸術に限った話ではありません。事は学問や道徳であっても同様です。「両者とも、つまり制度化した学問も、また法体系の中で分裂した道徳的・実践的議論も、生活実践からかけ離れてしまって」いる上に、芸術と同じく自律化を遂げていますから、相互に総合されることもなく、むしろ「止揚のプログラム」へと、つまり自己の領域内でのみ生活世界を裁断しようとするシステム的発想へと流れていく傾向にあるのです。

もちろん、芸術でうまくいかなかったことが、学問や道徳でどうなるものでもありません。「日常の生活実践というのは、認識面、道徳的・実践的な面、そして美的・感情表現的な面が無理なく自然に絡み合うことによって成り立っているわけであり、そうした日常の生活実践が物象化した場合に、それらの文化的領域のどれかひとつだけを強引に開け放って、すべてをそれにつなぎとめようとしても、その物象化を治療することはできない」のです(p.34)。システム合理性に従って、人間とその理性が道具のように機能的にしか行使されない状態(物象化)に反抗するに、ひとつの理性によって防壁を立てようとしても、それは内側から決壊してしまうのです。そうでなはなく、必要なのは、生活世界のこの混沌とした豊かさ――それはシステムからすると厄介この上ないのですが――を、そのままに活かし続けていくことなのです。



7.モデルネ、未完のプロジェクト

新保守主義は社会に蔓延する様々な倦怠感――労働に対する無気力、投票率の低下に見られる民主主義的制度への無関心、家庭モラルの衰退――を、生活世界の混沌とそこから運動を引き出すモダニティの精神に求めましたが、これはかれらの目的理念から鑑みれば自殺行為と言えるかも知れません。かれらがなそうとしているのは毒をもって毒を制する、つまりシステム合理化がもたらす不満に対して、あらたな/さらなるシステム合理化によって対処しようとするものに他ならないからです。

モデルネのプロジェクトを失敗と決めつけるには早すぎる、とハーバーマスは言います。諸々の止揚のプロジェクトもまた、モデルネ的といえばそうなのですが、しかしモデルネの本質はいわばアヴァンギャルド性にあるのであって、わたしたちはこの止揚の失敗から学ぶべきなのです。

では、シュルレアリスム運動のように普遍化するのでなければ、他に生活世界の豊かさを守る方法などあるのでしょうか。

芸術の領域においては、その答えは非常に簡潔なものです。「素人でありながら芸術好きの役を選んで、自己の美的経験を自身の実人生上の問題に結びつけること」がそれです(p.36)。もちろん、芸術鑑賞に専門家による批評は欠かせません。制度としての批評がなければ、芸術作品の意味内容はとても貧しくなってしまいます。しかし、いったん専門化的な芸術の批評・判断から離れて、素人が自身の個人的生活のなかに美的経験を受容したとき、批評による芸術の美的評価とは異なった意味が生じてくるのです。すなわち、

「このようなものとしての美的経験は、もろもろの欲求に関する解釈を――われわれが世界を知覚する光である欲求解釈を――革新してくれるだけではない。それと同時に、われわれの認識次元での意味理解や規範に関する期待のうちにまで浸透し、認識、規範、欲求というこれら3つの要因が相互に参照しあっているその関わり方をも変えていくのである」(p.37)。

つまり、強烈な美的経験は私たちの世界を見る見方に変化をもたらすのです。優れた芸術作品は私たちの価値判断に深い影響を与えます。ある作品を自身の生活の文脈上に、あるいは逆に、作品の文脈上に自身の生活を置くことで、生活世界の複雑に絡みあった連関構造は震動し、観覧者をしてその組み直しに取り組まざるをえなくさせます。芸術作品との出会いは、既存の価値秩序の崩壊を伴うゆえに時として悲劇的となりますが、新たな世界地平へのカギとなる点では、間違いなく、芸術はモデルネのプロジェクトの牽引役となりうるのです。

ここでは、システムや制度が生活世界を機械的に分割するのとは逆の、専門家の知識や文化が生活世界の側が吸収するという「反植民地闘争」的様態が表れています。支配する側、侵略した側の土俵の上で自分たちの運動を正当化し、活発化させていくという、前世紀半ばに盛り上がった解放闘争を模倣するがごとしです。ここでは「解釈」という意味の増幅・変換過程が決定的に重要となるかと思います(ハーバーマス自身は解釈という概念をあまり用いていませんが)。学問が生産されるのは基本的に価値中立的な無味乾燥の「真理」であります。しかしながら、生活実践者は何の味付けもされていない「真理」を自分ごのみの味に仕立て、自身の善なるものの体系、準拠すべき規範の更新に役立てることができます。実践過程においては、その「真理」をその人がどう解釈し、何を受け取ったかが重要なのであり、この主観的経験はだれも妨げることはできません。こうして生活実践者は様々な意味世界を構築しつつ、今度はそれを他者に公開し、話し合い、新たな規範を更新していく共同的・対話的作業へと促されていくのです。

「モデルネの文化と日常の生活実践とを――つまり、生き生きとした伝統を必要とするが、単なる伝統主義によっては貧困化せざるを得ない日常の生活実践とを――各側面において精密に再接続することがうまく行くためには、社会の近代化をもこれまでとは異なった、非資本主義的な方向へ導くことが必要であり、また、生活世界がそれ自身の中から経済的および行政的行為システムの自己運動を制限しうる諸制度を生みだし得ねばならない」(p.39-40)

ハーバーマスは、たとえばシステム優越を生活世界の拡大によって止揚し、最終的にシステムを駆逐せしめ、「国家を(市民)社会化する」というマルクス派的テーゼについては懐疑的なようです。システムはシステムとして高度な自律分化を遂げており、近代社会においてこれを放棄することも、破壊することも現実的とはいえない。そうではなく、これらともすれば人々の生活をシステム化し、伝統保守に徹しようとするシステム合理性の性向に対し、その固有の領域、すなわち経済や行政とは別個の領域である市民社会を対置させること。別個とはいえ、完全に別離できるわけではありません。システム領域と市民社会は互いに浸透し合うと同時に、鍔迫り合う関係にあるのです。市民社会はシステム化に抗するため、問題を主題化して討論するのはもちろんのこと、ときには解釈を通して逆襲を試みる必要がありますし、また市民社会の自由な討論空間のなかで生じた新たな公共的関心――昨今では女性や子どもの権利、少数民族の人権、地球環境保護などが代表的ですが、それらをシステムの側に反映させ、新たな時代、新たな社会意識に適う制度の創造にむすびつけなければならないのです。

しかし、ハーバーマスは「こうしたことが可能になる見込みは、わたくしの間違いでなければ、あまり良好とはいえないようである」と、モデルネ文化の将来には悲観的です(p.41)。先述した新保守主義のように、反モデルネあるいはポスト・モデルネを掲げる主義主張はアヴァンギャルドの衰退にともなっていよいよ拡がりつつあり、モダニティの機運は頓挫を運命付けられているかのようです。また、本来人々の意見の集約形である公論の形成を担うべきジャーナリズムも、大衆化と商業化の度合いを強めるにしたがって、公共性を担う主体とはもはや言えなくなっていきます(いまのテレビや新聞がスポンサーの宣伝媒体に成り下がっている現状をみなさんも目の当たりにしていると思います)。

しかしながら、モデルネを捨て、市民社会と市民の潜在的な批判力を封じ込めてしまうのは、はたして得策と言えるのでしょうか?時折しも、世界中で格差是正を求めるデモが拡がっています。このような問題提起と連帯の契機なくして、より良き社会の実現や豊かな文化の創造などなしえるのでしょうか?もしも、未来への希望を捨て去るつもりがないのであれば、安易なシステム合理化と偽りの安寧を振り切り、新たな価値領域を切り開くアヴァンギャルドの旗印のもと、人類の幸福のために闘争していくべきでしょう。ハーバーマスは、この幸福希求のモーメントを消し去るような新保守主義やポスト・モダンの言説に反論すると同時に、私たちが「コミュニケーションする勇気をもつ」回路を築こうとしたのだと、私は思います。

Page Top
Powered by FC2 Blog | FC2ブログ | Template Design by スタンダード・デザインラボ