加計学園問題を公開資料から検討する

国家戦略特区に設定されている今治市(正確には「広島県・今治市」)における獣医学部新設「問題」は、どうにも「スキャンダル」の方面に過熱しているように思えますが、こういうときは熱に浮かされることなく、ひとつ「源流」を遡ってみるのが良いでしょう。

まず、ひとつ押さえておきたいのが、獣医学部新設は今治市や愛媛県の「悲願」だった、ということです。今治市と愛媛県の連名で作成されている「平成21年11月構造改革特区提案申請説明資料」(下記URL)において「四国及び瀬戸内沿岸地域に獣医学部(科)を持つ大学が存在していなく獣医師の供給量が少ない」ことが問題視され、「全国唯一の獣医師養成機関空白地域であり、将来的にも獣医師不足が予測されている四国地域において、今治市に獣医大学を設置することで、適切な獣医師供給が可能」であると提言しています(4ページ)。

『平成21年11月構造改革特区提案申請説明資料』
http://www.city.imabari.ehime.jp/…/kouzoukai…/siryo16_01.pdf

このような提言は、関係する都道府県・市町村・関係機関との綿密な打ち合わせなしにはできませんから、獣医学部の必要性はもっと前から議論されていたと思われます。また、本資料では「学部共通教養科目のうち多くの科目を選択・受講できるような配慮をし、学校法人加計学園の3大学が協力し、多彩な科目でIT(ビデオオンデマンドなど)を活用した授業形態の実施を図る」と、加計学園が教育課程に関わる旨の記載があります(10ページ)。まだ特区に指定されていない時期なので、どこが獣医学部を担うのかは明言できない段階ですが、こうした提言は、仮に事が進んだ場合に手挙げしてくれる事業体にあらかじめ目星をつけておくものです。ですから、この時期に、すでに加計学園が新学部を担うことが「内定」していた可能性は十分にあります。

なお、平成21年11月時点というと、民主党が衆議院選挙で自民党に大勝し、鳩山紀夫内閣のもと、民主党が絶頂期にあった時代です。今でこそ「安倍一強」と言われていますが、第一次安倍内閣は当の首相の「体調不良」が原因で総辞職。もはや安倍氏の政治家生命は終わったと見られていた頃です。少なくとも、今治市・愛媛県が安倍氏の意向を汲んで加計学園を提言に加えたとは考えにくいでしょう。

また、獣医学部の新設が、後の特区指定後の「後付け」事項であったことから、そこに安倍首相の意向が及んでいるのでは、とする声もありますが、当資料によれば、獣医学部新設はもともと今治市と愛媛県が切望していたことだったとわかります。

平成24年12月に自民党が政権を奪取し、第2次安倍内閣が発足します。そして安倍首相の肝いりで平成25年12月に「国家戦略特別区域法」が制定され、国家戦略特区の指定がはじまります。

国家戦略特区は、国の省庁間あるいは省内内部署間の「ナワバリ」や、各利益団体の利権等が複雑に絡み合い、本当は改善すべきなのに、もはや各々の主体の意思ではどうにも変えられなくなった「岩盤規制」に対し、各自治体や民間団体の要請に応じ、その区域に限って内閣府が上から「えいや」と穴をあけ、改善の突破口を開くことを目的としています。

今治市はそれまで「構造改革特区」の指定を目指していましたが、「国家戦略特別区域法」が成立してからは国家戦略特区に切り替え、平成28年1月、広島県と共に「広島県・今治市国家戦略特別区域」に指定されました。

なお、当戦略特区においては、獣医学部の設置以外にも、「外国人創業活動促進事業」だとか、「特定実験試験局制度に関する特例事業」だとか、複数の取り組みがなされることとなっています。

『平成29年1月20日 広島県・今治市 国家戦略特別区域 区域計画』
http://www.kantei.go.jp/…/kuikikeikaku_hiroshimaimabari_h29…

獣医学部の件については、特に「今治市分科会」で話されています。平成28年9月21日に開かれた第一回の分科会では、菅今治市長が「今治市に獣医学部の新設は絶対に必要」と熱弁を振るい、また獣医学部の新設は「定員規制により、北里大学獣医学科の新設以来、 これまで50年にわたり新設されておりません。この厚く固い岩盤規制を突破するため、加戸前知事、中村知事、そして、私どもも再三にわたり、関係省庁へ要望を続けて」きたと述べ、これまでの努力が実を結び、今治市を越えた複数自治体の宿願がようやく叶うことの喜びを隠していません。

『今治市 分科会(第1回)議事要旨』
http://www.kantei.go.jp/…/hiros…/imabari/dai1_gijiyoushi.pdf

世間では、今治市の特区指定からして、安倍首相が「お友達」の加計学園に便宜を図るためだったのでは、と噂されていますが、少なくとも国家戦略特区への指定は、今治市を中心とする関係自治体の長年にわたる要望に政府がようやく応えたというのが実態です。

平成29年1月12日の第2回分科会では、渦中の加計学園が会議に出席しています。というのも、これに先立ち、平成29年1月4日付けで内閣府地方創生推進事務局より、獣医学部新設に携わる事業者を公募しており、加計学園のみがこれに応募したからです。

『今治市 分科会(第2回)議事要旨』
http://www.kantei.go.jp/…/hiros…/imabari/dai2_gijiyoushi.pdf
『広島県・今治市国家戦略特別区域会議の構成員 (特定事業を実施すると見込まれる者)の公募について』
http://www.kantei.go.jp/…/hiroshi…/imabari/dai2_shiryou5.pdf

この公募は、公募期間が平成29年1月11日までと非常に短く、その適切性には疑問がもたれます。ここでも「安倍首相の意向が働いたのでは」という疑惑が生じかねませんが、先に述べたとおり、安倍氏の政治家生命がほぼ消えていた民主党政権時代から、今治市・愛媛県の腹中で加計学園を選定することがほぼ内定していた可能性があり、また公募の根拠である「国家戦略特別区域法施行令」の第1条の規定では「特定事業を実施すると見込まれる者の数が公募を行う必要がないと認められる程度に少数であるとき」は「公募をしないで国家戦略特別区域会議の構成員として加える者を選定することができる」とあって、事業者を指定する要件はたいへん緩く、本当は直に加計学園を指定してもよかったけど、理由づけも面倒だし、とりあえず公募した体裁を整えた、というのが正直なところではないかと推測されます。

『国家戦略特別区域法施行令』
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H26/H26SE099.html

さて、第2回分科会でも、新設される獣医学部の意義や、四国・瀬戸内海の各地域で期待される役割等について熱い論議が交わされています。なかでも注目されるのが、当会に出席している「学校法人加計学園新学部設置準備室長」である吉川泰弘氏です。同氏は千葉科学大学の教授であり、感染症や防疫が主な専門のようですが、同氏のHPによれば、当室長には平成28年4月に「命じられて」就任しています。平成28年4月といえば、「広島県・今治市国家戦略特別区域」が設定されてまだ3ヶ月程度、公募の9ヶ月前です。まだ加計学園が選定されていない段階で準備に入っているところを見ると、すでに加計学園で内定していた線が濃いと考えるべきでしょう。

『吉川泰弘氏HP』
https://www.ayyoshi.com/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%…/

さらに気になるのが「命じられ」たという一言です。所属している千葉科学大学に、他の大学の室長になれと「命じられた」というのは不自然ですし、もちろん雇い主でも何でも無い加計学園に「命じられ」るいわれはありません。となれば、さらに上の組織から「命じられた」と考えるべきです。

「なるほど、ここで内閣府なり安倍首相なりがかれに『命じ』て、加計学園の便宜を図ったんだ」と推理する方もいるでしょうが、普通に考えれば「上の組織」とは獣医学界等の大学を横断する組織のことだと考えるのが妥当でしょう。となれば、今治市での獣医学部新設は、関係自治体や国のみならず、関係する業界が一丸となって取り組む一大プロジェクトへと発展しており、加計学園が学部の設置に携わることを既定路線として固めておかないと、事を前に進められない状態になっていたと思われます。


加計学園が獣医学部新設を担うことになったのは、関係自治体・関係団体が、民主党政権時代を含む長年にわたって練り上げてきた計画において、すでに加計学園で内定していたからで、それを規定に合わせて選定されたように見せたため、手続きに不自然な箇所が生じてしまった。それが「加計学園が選ばれたのは安倍首相の意向が働いたからでは」という疑惑を生む原因になった、と私はこう推理します。

いずれにせよ、獣医学部新設は今治市、そして近隣市町村・都道府県にとっては長年の願いであります。それが「アベの独裁」を印象づけるための政争の具にされている。果てはこの獣医学部も、森友学園と同様、政争に巻き込まれてスケジュールが間に合わず、開校を断念せざるをえなくなるかもしれません。前川前事務次官が言うように、もし特区の設置なり獣医学部の新設なりが「極めて薄弱な根拠のもと認められた」のであれば、それは「最後に正義が勝った」ということになりましょうが、いままで獣医学部新設に向けて尽力してきた人々にとっては、泣くに泣けない結末です。

※後日確認したところ、千葉科学大学は加計学園のグループ大学だったことがわかりましたので、誤っていた箇所を削除しました。しかし「獣医学部を加計学園が担うことは、今治市・愛媛県サイドで民主党政権時代から内定していたと推測され、安倍首相の意向が働いていたとは考えにくい」という論旨に変わりはありません。

今上陛下の御意思はわが国の立憲体制を護持するため否定しなければならないこと

今上陛下の退位を巡る問題については、以前も述べましたとおり、私の意見は「生前退位はもはや『違憲』であるから認めるべきではない」です。なぜなら、戦後のわが国においては、天皇はあくまでも「日本国民統合の象徴」であって、天皇の意思が政治を動かすことは、わが国憲法第4条に定めたる「天皇は…国政に関する権能を有しない」という規定に反するからです。

マスコミは、政府が「陛下の意志を尊重」しておらず、さらに政府が参集した有識者が「天皇は祈っているだけでよい」と発言したと報じて、政府の非情さを喧伝していますが、上に述べましたとおり、天皇の意志が尊重されるなど、わが国の立憲体制においてはもってのほかです。「天皇は祈っているだけでよい」という発言も非難がましく取り上げられていますが、わが国の憲法に照らせば、祈ることすらも余計なのです(一応断っておきますが、国事行為として行う儀式で祈ることは何ら問題ありません)。

今上陛下は、ご自身が天皇としての職務を全うできないことにいたく心を痛めておるようですが、憲法の第5条では摂政が国事行為を代行できるとあります。つまりわが国憲法は、天皇が心身に重大な問題を抱えて国事行為ができなくなった場合をあらかじめ想定しているのであって、もし今上陛下の気力・体力ともに限界を迎えた場合は、皇太子殿下が摂政となって国事行為を執り行えばよいのです(旧憲法下ではありますが、大正時代に前例があります)。

たとえば、目の前で犯罪が起こっているのに、犯人を捕まえようともしない警察官がいれば、私たちは「やつは警察官の名に値しない」と批判します。私たちにとって警察官とは、地位や職業ではなく、市民を守るために犯罪者を捕まえる職務を負った者であって、この職務を全うできない者は警察官の地位を剥奪されて当然と判断します。では天皇はどうでしょうか。天皇は「憲法に定める国事に関する行為のみ行」うとされていますが、しかし摂政の規定からもわかるとおり、天皇という地位において国事行為は、天皇であるために絶対不可欠の「職務」ではありません。警察官は「犯罪者を捕まえる職務を負った者」でありますが、天皇は「国事行為を行う者」ではない。

もうひとつ例を引かせていただきますが、たとえば鳥のハトは「平和の象徴」とされていますが、それはハトが平和を守るために身を粉にして働いているからではありませんし、ハトが平和について何か口出しすることもありません。それなのになぜ「平和の象徴」とされえいるのかと言えば、非常に身も蓋もない話ですが「人間がそうしたから」としか言いようがありません。しかし、私たちはこの「象徴化」によって、ハトを介して平和を愛する気持ちを互いに共有することができます。ここにおいて、ハトは「存在する」だけで十分に「平和の象徴」としての役目を果たせるのであって、ハトが何を欲しようが何をしようが、それがハトの「象徴」としての位置づけには何ら影響しないのです。

天皇にとって、国事行為は「オマケ」に過ぎません。陛下ご自身が国事行為を執り行えなくなっても、天皇という地位にとって何ら不都合はありませんし、「国民統合の象徴」としての機能にも何も支障は生じません。

ここで、戦後わが国において、天皇に「象徴」としての意義しか付与しなかったことの意義と目的とを提起すべきでしょう。旧憲法における天皇は、国家元首であり、国を統治する最高権力者でありました。明治天皇は指導者として腕を振るうこともありましたが、大正デモクラシー等を経て議会政治が発展した時代に即位した昭和天皇は、国政に口出しすることを極力控えました。しかし、それをいいことに、政治家も軍人も、自身こそが天皇の真の意思を(今風に言うと)「忖度」しているのだ、と称して暴走していったのです。

最高の権威をもった者は、仮に本人は政治に関わる意向がなかったとしても、そこに存在しているだけで権力者に利用され、国政に影響を与えてしまう。そのことを反省したわが国は、天皇を純粋な「象徴」として、政治とのかかわりを一切遮断したのです。

極端なことを言えば、わが国の憲政においては「天皇の意思」なるものが存在すること自体が不都合なのです。なぜなら、天皇に意思があれば、天皇の権威を利用しようと企むものが、その意思を「忖度」しているとして、自らの発言力を強化する余地が生じてしまうからです。それは「天皇」という地位は人間にしか就けない以上、仕様がないことではあるのですが、しかしそれが、戦前・戦中に起こったような権力者の暴走に結びつく可能性は十分にあると私は思います。その芽を摘むためにも、われわれ国民は、天皇はあくまでも象徴であり、その機能は「生きてさえいれば果たせる」こと、そして天皇の「意思」を認めたり、さらには国政の場において「尊重」しようという動きは、戦後わが国の立憲体制を脅かしかねない、という認識を再共有しなければならないと思います。

極右というリベラル急進派――自由は勝利したのか?

フランス大統領選は下馬評のとおり、極右政党・国民戦線のルペン氏を中道左派のマクロン氏がダブルスコアに近い差をつけて大勝しました。

これが右派躍進の歯止めとなるのか、それとも右派のさらなる躍進の序曲に過ぎないのかは現時点ではわかりませんが、しかしこの結果を「フランス国民は排外的・差別的で国粋主義の極右ではなく、自由・平等・博愛を掲げるリベラル派を選んだ」という図式で捉えると、これからの政治の流れを読み間違うおそれがあります。

そもそも、どうして極右政党が大統領選の決選投票に残るまでに勢力を拡大しているのでしょうか。日本でもそうですが、いわゆる右翼と呼び称される政治団体は、やたらとケンカ腰だし、言っていることも古臭くて時代錯誤で「スマートじゃない」と見なされ、特に若い人には人気がありません。ヨーロッパでも事情は同じで、ほんの20年前くらいまでは右翼の政治団体など見向きもされませんでした。

ヨーロッパの右翼団体は次第に支援者を失い、活動が先細りになっていくなかで起死回生の策に取り掛かります。とにもかくにも支援者を増やさないことには、団体そのものが消滅してしまいますから、一般人にも取っつきやすくなるよう、イメージの刷新を図ったのです。

その取り組みのひとつが「リベラリズムに則って右翼的主張を通す」という戦略を実行したことでした。

たとえば、あなたの暮らす地域に、女性の社会進出はおろか外出すらも制限し、外出の際は全身を覆う衣装の着用を義務付ける等、女性の人権を著しく損なっている人々がいるとしましょう。その人たちは、女性はみなそうすべきと主張しているわけではなく、自分たちの文化は伝統的にそうやって生活してきたからそうしているだけだから、放っておいてくれまいか、と言うのですが、特にリベラルな傾向の強い人は、同じ社会に暮らす女性が人権侵害を受けていることを看過できないでしょう。国や社会も罰金を課すなどの様々な制裁を通して、かれらの「改宗」を促すことになりますが、それでもなお止めなかったらどうしましょうか。

どこの自由社会でも、最終的な手段は同じです。つまり、こうした「人権侵害」をする人々を、社会から排除するのです。

日本でも近年、ヘイトスピーチ規制法が成立しました。リベラルな人々はこれを歓迎しましたが、この法律は「他者に非寛容な言動はゆるさない」という意思の現れです。リベラルは「他者への寛容」を美徳としますが、しかしその価値を守るためなら「他者へ非寛容な者への非寛容」をも辞さないのです。

事情はヨーロッパでも同じです。たとえばドイツであれば、かつてのナチスを称賛するような言動は厳罰に処されます。またフランスでも、ムスリム女性がスカーフ等の宗教文化に根付いた衣装を付けて学校に通うのは、フランスの掲げる「平等」に反するとして禁じられています。このように、リベラルな「寛容」は、寛容を否定する「非寛容」に対して戦うことによって保たれているのです。

ここに、ヨーロッパの右翼は目をつけました。

かれらは何とかして移民、特にムスリムの移民を排除したいのですが、そこにいかにも右翼的な差別的意識を持ち出してしまえば、自由と平等の価値を信じて疑わない大多数の人々からは顰蹙を買うだけです。だから、右翼は論法を変えました。すなわち、ムスリムは女性の人権を抑圧する等、ヨーロッパが愛する自由と平等の価値に従おうとしない。つまり、かれらは「他者に非寛容な者」であり、われらリベラルの敵であるからして、これを社会から排除しなければならないのだ、と。

かくして、ヨーロッパの右翼はリベラルの戦法を逆手に取り、リベラルの規範内で排除を正当化する理論を手に入れました。そして思想信条的には「リベラル急進派」とも評しうる装いを前面に押し出し、良心の呵責から移民反対を唱えられなかった国民から支持を集めることに成功したのでした。

マクロン氏とルペン氏の決選は、「リベラルvs極右」ではなく、「リベラル穏健派vsリベラル急進派」の争いだったと見ることもできます。すると、もしマクロン政権が「他者に非寛容な者」の跳梁跋扈を防げなければ、国民戦線含む極右=リベラル急進派が「真に自由・平等・博愛を守りとおせるのは自分たちだけだ」と勢いづき、さらに躍進するシナリオも十分にあり得ます。今後注目されるのは、フランス社会が今後、リベラルな価値規範からは外れる国内のムスリムとどう関係を築いていくのかということです。もしここで対応を誤れば、「リベラルな思想に基づく大規模な排除」という、およそ世界の思想史において最悪ともいえる結末が待っているかもしれません。

※そう考えると、シャルリー・エブド襲撃事件は、返す返すも厄介な前例になってしまいました。かの一件以降、ムハンマドの肖像画を描いてさらにかれを批判する、というムスリムにとって最大級の侮辱的行為も、フランス社会は表現の自由の一環として認めざるをえなくなりました。

立憲制が民主制を損なうとき――1票の格差是正に寄せて

去る4月19日、衆院選挙の区割り審は福島4区に3区の西郷村を編入する改定案を政府に勧告しました。

……と言われても、福島県民ではない方には何が「問題」なのかまったくわからないかと思います。しかしながら、ここの「問題」のポイントを押さえないことには本題に移れないものですから、少々ご堪忍いただいて、まずは福島県民が抱いている「地域への帰属意識」についてお話させていただきます。

まず、福島県はタテに3つの地方に分けられます。東北新幹線と東北本線が縦断し、県庁所在地の福島市と県内最大の人口を抱える郡山市がある「中通り地方」、本地方を軸として東側、阿武隈高地を挟んで太平洋に面する「浜通り地方」、西側に奥羽山脈を越え、猪苗代湖を擁する会津盆地を中心とする「会津地方」。この3地方間でも、県民同士の明らかな帰属意識の違いが見られますが、もう少し実態に近づけるため、さらにヨコに3分割してみます。

「中通り地方」は、北から県庁所在地の福島市を中心とする「県北地域」、県内最大都市の郡山市を中心とする「県中地域」、寛政の改革で名高い松平定信が治めた奥州の玄関口である白河市を中心とする「県南地域」。

「浜通り地方」は、北から馬追いで有名な相馬市・南相馬市を中心とする「相馬地域」、福島第一原発のある「双葉地域」、フラガールでおなじみのハワイアンズがある「いわき地域」。

「会津地方」は、北から蔵とラーメンのまち喜多方市を中心とする「喜多方地域」、鶴ヶ城と白虎隊で名高い会津若松市を中心とする「会津地域」、会津高原の山々が広がる「南会津地域」。

これらは行政区分とは異なりますし、私の造語も交じっています。また細かく見ていけば、各地域の中でも市町村ごと、集落ごとで帰属意識の違いが見られますが、この9地域ごとに文化・生活・経済圏が形成されており、人々の帰属意識もおおむねこの9地域で分かれていると見て間違いはないと思います。

さて、前段が長くなりましたが、件の西郷村はこの9地域のうち、「中通り地方」の「県南地域」に属しています。県南地域の中心である白河市とは東側で接しており、かつては白河市との合併も取り沙汰されるなど、県南地域とのつながりが深い自治体です。一方、西側では「会津地方」の「南会津地域」に接してはいますが、村境は山間部で人口も少なく、買い物も白河市まで出ていく人がほとんどで、南会津まで足を運ぶ人は非常に少ない。

西郷村が属していた福島県小選挙区の3区は、県南地域全域と県中地域の一部で形成されています。一方4区は「会津地方」全域を選挙区としています。西郷村は「南会津地域」と接しているとはいえ、上述のとおり住民の帰属意識も、また文化・生活・経済圏も「中通地方」の「県南地域」に属しています。それが今回の改正で、西郷村はタテの区分けもヨコの区分けも飛び越えて、縁の薄い「会津地方」に編入されようとしているのです。

元来、国政選挙とは、地域の利害を代弁する代表者を国会に送り込むことが目的であり、そうした地域の代表者たちが集って政治を取り仕切る国をこそ「民主国家」と呼ぶのです。ですから、選挙区は課題や利益を共有する地域でまとめなければ、選挙は「地域の声」を国政に届けるという重大な役目を果たせなくなり、ひいては民主主義そのものが骨抜きになってしまいます。

いわゆる「一票の格差」は長らく問題視され、2011年以降は最高裁でも、現状の格差は「違憲」と判決されています。しかしながら、地域の結びつきを無視して「数合わせ」に徹すれば、選挙は、問題意識の異なる人々から票を集めるだけのゲームに堕して、民主制の理念が損なわれることになります。政府は憲法には逆らえませんから、最高裁に「違憲だから是正しろ」と言われれば、選挙区の区割り再編に着手せざるを得ませんから、仕方のない側面もあるのですが、このままでは憲法に従うあまりに民主制の意義が失われかねません。私としては、たとえ「一票の格差」があっても、地域の結びつきを曲げて無理に区分けを再編するくらいなら、多少の格差には目をつむってもいいんじゃないか、と思わないではいられません。

ユナイテッド航空の対応は「問題」か

ユナイテッド航空の「オーバーブッキング客強制引きずり降ろし事件」は、降ろされた男性客が中国系のアジア人だったことも相まって、アメリカや中国を中心に大きな反響を呼んでるようです。

オーバーブッキングとは、航空会社が搭乗可能な人数よりも多く予約を取ることを言い、日本語では「過剰予約」と訳されますが、ほとんどの航空会社で常態的に行われています。だいたい数席はキャンセルが出てしまうので、席数ぴったりに予約を取ってしまうと空席が出てしまいます。すると、その空席分は「損」になってしまうわけですから、あらかじめ多めに予約を取って「損」が出ないようにしているのです。

なんだか航空会社はひどくあくどいことをしているように聞こえますが、オーバーブッキングそのものは違法でもなんでもありませんし、各航空会社はオーバーブッキングで席が足りなくなった場合は搭乗を拒否する場合があることをあらかじめアナウンスしています。

ユナイテッド航空や空港警察の対応は確かにまずかったのですが、件の男性客は航空会社から搭乗を拒否された以上、それに抵抗するのは客としてレギュレーション違反ですから、男性客の「搭乗拒否の拒否」自体は擁護できません。そのため、当該事件を批判する際に押さなければならないポイントは「搭乗拒否を拒否した客を飛行機から降ろすための適切な方法とは何か」です。

航空会社はオーバーブッキングで搭乗拒否した客には、次の便を優先的に確保(会社によっては席をアップグレード)したり、金銭補償をしたりと、何らかのケアを実施していますが、それでもなお頑として降りない客にはどう対処すべきなのか。ここで「強制的に引きずり降ろす」以外の方法が思いつかないのであれば、今回の事件はさして「問題」ではないのやもしれません。

【参考】羽田空港サーバー「オーバーブッキング(過剰予約)に関する航空会社の対応」
http://www.haneda-airport-server.com/entry/overbooking#ユナイテッド航空