立憲制が民主制を損なうとき――1票の格差是正に寄せて

去る4月19日、衆院選挙の区割り審は福島4区に3区の西郷村を編入する改定案を政府に勧告しました。

……と言われても、福島県民ではない方には何が「問題」なのかまったくわからないかと思います。しかしながら、ここの「問題」のポイントを押さえないことには本題に移れないものですから、少々ご堪忍いただいて、まずは福島県民が抱いている「地域への帰属意識」についてお話させていただきます。

まず、福島県はタテに3つの地方に分けられます。東北新幹線と東北本線が縦断し、県庁所在地の福島市と県内最大の人口を抱える郡山市がある「中通り地方」、本地方を軸として東側、阿武隈高地を挟んで太平洋に面する「浜通り地方」、西側に奥羽山脈を越え、猪苗代湖を擁する会津盆地を中心とする「会津地方」。この3地方間でも、県民同士の明らかな帰属意識の違いが見られますが、もう少し実態に近づけるため、さらにヨコに3分割してみます。

「中通り地方」は、北から県庁所在地の福島市を中心とする「県北地域」、県内最大都市の郡山市を中心とする「県中地域」、寛政の改革で名高い松平定信が治めた奥州の玄関口である白河市を中心とする「県南地域」。

「浜通り地方」は、北から馬追いで有名な相馬市・南相馬市を中心とする「相馬地域」、福島第一原発のある「双葉地域」、フラガールでおなじみのハワイアンズがある「いわき地域」。

「会津地方」は、北から蔵とラーメンのまち喜多方市を中心とする「喜多方地域」、鶴ヶ城と白虎隊で名高い会津若松市を中心とする「会津地域」、会津高原の山々が広がる「南会津地域」。

これらは行政区分とは異なりますし、私の造語も交じっています。また細かく見ていけば、各地域の中でも市町村ごと、集落ごとで帰属意識の違いが見られますが、この9地域ごとに文化・生活・経済圏が形成されており、人々の帰属意識もおおむねこの9地域で分かれていると見て間違いはないと思います。

さて、前段が長くなりましたが、件の西郷村はこの9地域のうち、「中通り地方」の「県南地域」に属しています。県南地域の中心である白河市とは東側で接しており、かつては白河市との合併も取り沙汰されるなど、県南地域とのつながりが深い自治体です。一方、西側では「会津地方」の「南会津地域」に接してはいますが、村境は山間部で人口も少なく、買い物も白河市まで出ていく人がほとんどで、南会津まで足を運ぶ人は非常に少ない。

西郷村が属していた福島県小選挙区の3区は、県南地域全域と県中地域の一部で形成されています。一方4区は「会津地方」全域を選挙区としています。西郷村は「南会津地域」と接しているとはいえ、上述のとおり住民の帰属意識も、また文化・生活・経済圏も「中通地方」の「県南地域」に属しています。それが今回の改正で、西郷村はタテの区分けもヨコの区分けも飛び越えて、縁の薄い「会津地方」に編入されようとしているのです。

元来、国政選挙とは、地域の利害を代弁する代表者を国会に送り込むことが目的であり、そうした地域の代表者たちが集って政治を取り仕切る国をこそ「民主国家」と呼ぶのです。ですから、選挙区は課題や利益を共有する地域でまとめなければ、選挙は「地域の声」を国政に届けるという重大な役目を果たせなくなり、ひいては民主主義そのものが骨抜きになってしまいます。

いわゆる「一票の格差」は長らく問題視され、2011年以降は最高裁でも、現状の格差は「違憲」と判決されています。しかしながら、地域の結びつきを無視して「数合わせ」に徹すれば、選挙は、問題意識の異なる人々から票を集めるだけのゲームに堕して、民主制の理念が損なわれることになります。政府は憲法には逆らえませんから、最高裁に「違憲だから是正しろ」と言われれば、選挙区の区割り再編に着手せざるを得ませんから、仕方のない側面もあるのですが、このままでは憲法に従うあまりに民主制の意義が失われかねません。私としては、たとえ「一票の格差」があっても、地域の結びつきを曲げて無理に区分けを再編するくらいなら、多少の格差には目をつむってもいいんじゃないか、と思わないではいられません。

ユナイテッド航空の対応は「問題」か

ユナイテッド航空の「オーバーブッキング客強制引きずり降ろし事件」は、降ろされた男性客が中国系のアジア人だったことも相まって、アメリカや中国を中心に大きな反響を呼んでるようです。

オーバーブッキングとは、航空会社が搭乗可能な人数よりも多く予約を取ることを言い、日本語では「過剰予約」と訳されますが、ほとんどの航空会社で常態的に行われています。だいたい数席はキャンセルが出てしまうので、席数ぴったりに予約を取ってしまうと空席が出てしまいます。すると、その空席分は「損」になってしまうわけですから、あらかじめ多めに予約を取って「損」が出ないようにしているのです。

なんだか航空会社はひどくあくどいことをしているように聞こえますが、オーバーブッキングそのものは違法でもなんでもありませんし、各航空会社はオーバーブッキングで席が足りなくなった場合は搭乗を拒否する場合があることをあらかじめアナウンスしています。

ユナイテッド航空や空港警察の対応は確かにまずかったのですが、件の男性客は航空会社から搭乗を拒否された以上、それに抵抗するのは客としてレギュレーション違反ですから、男性客の「搭乗拒否の拒否」自体は擁護できません。そのため、当該事件を批判する際に押さなければならないポイントは「搭乗拒否を拒否した客を飛行機から降ろすための適切な方法とは何か」です。

航空会社はオーバーブッキングで搭乗拒否した客には、次の便を優先的に確保(会社によっては席をアップグレード)したり、金銭補償をしたりと、何らかのケアを実施していますが、それでもなお頑として降りない客にはどう対処すべきなのか。ここで「強制的に引きずり降ろす」以外の方法が思いつかないのであれば、今回の事件はさして「問題」ではないのやもしれません。

【参考】羽田空港サーバー「オーバーブッキング(過剰予約)に関する航空会社の対応」
http://www.haneda-airport-server.com/entry/overbooking#ユナイテッド航空

アメリカのシリア攻撃は違法であるが故に歓迎すべきであること

シリア国内で発生した化学兵器の使用に対し、まだアサド政権側の攻撃と確定しない段階で、アメリカは報復としてシリア軍の空軍基地へのミサイル攻撃を敢行しました。しかし、本当にアサド政権が実行したのかどうかは、アメリカにとって本質的な問題ではありません。というのも、今回のアメリカの一手は「アメリカの意向に従わない横暴な国家に対しては、アメリカはけして容赦しない」と警告するためのデモンストレーションと解すべきだからです。

とすれば、今回の攻撃が国際法からすると「限りなくクロに近いグレー」であることも、演出として実に効果的だったと言えます。つまり、アメリカは国際法を律儀に守る気などなく、やるとなればそれを踏み破ることも躊躇しない、ということも同時に世界へ示せたからです。

原則論を唱えることが仕事の学者や、自称平和主義者はアメリカの行動に眉をひそめるでしょうが、国際法上唯一の実力機関であるべき安保理が機能しない以上、いずれかの国が「世界の警察」として振る舞わなければ世界秩序の混乱は避けられず、そして現状においては圧倒的な軍事力をもつアメリカ以外に適任はいないのですから、この「違法行為」は、違法行為であるがゆえに、パックス・アメリカーナの恩恵に授かってきた日本をはじめとする国々からすれば歓迎すべきことでしょう。

問題は、当のアメリカ国内で、アメリカが「世界の警察」に復帰すること(オバマ前大統領は、明確に「アメリカはもはや世界の警察ではない」と宣言しました)への不平不満の声がけして少なくないことです。「アメリカが戦争に巻き込まれるのでは」という、昨今の日本でも耳にした不安を抱く国民もいるようで、いくらトランプ政権が「強いアメリカ」を取り戻そうとしていても、かつてほどの積極性は期待できないかもしれません。

となれば、アメリカが同盟国に「相応の負担」を求めるは必定です。先の安保法制によって、日本が集団的自衛権の一部容認に踏み切ったのはその事前準備ですが、もしアメリカがパックス・アメリカーナの維持に乗り気になって、日本もパックス・アメリカーナへのコミットメントを自国の安全保障体制の柱にする方針であるなら、今以上の負担は当然のものとして覚悟すべきでしょう。

※もし「アメリカ帝国」への貢献を拒絶するのであれば、自国の安全を守るために別の手立てを講じる必要がありますが、おそらく「第二の選択肢」を示せるほどの思想家も戦略家も、わが国にはいないでしょうから、パックス・アメリカーナを維持するほかに、日本の選択の余地はないように思います。

米の「30年問題」――米農業の転換期へ

30歳前後の方であれば「2000年問題」のことはご記憶かと思います。西暦を下二桁でしか処理していないコンピューターが、2000年を1900年と取り違えて一斉に誤作動を起こすかもしれない、と騒がれました。

この「2000年問題」は、結局恐れていたような事態は何も起こらず、事なきを得ました。ときに、コンピューターよりもだいぶ「アナログ」ではありますが、私たちが普段食している「米」に、これから「30年問題」が待ち受けていることはご存知でしょうか。

「減反」という言葉は、小中学校の社会の教科書にも太字で載っていますから、みなさまご存知のことかと思います。日本で作っているお米は、食の欧米化・多様化により消費量が減って余り気味になっている、そこで、国では米以外の作物を水田に作付するよう推進してきました。その減反政策の柱であった米の「生産数量目標」の配分が、平成30年度に廃止されるのです。

これまで毎年度、国は米の国内在庫量と需要トレンドから判断して、米価を現状維持できる生産量と面積を算出するとともに、それを目標値として各都道府県に配分していました。これが「生産数量目標」で、きちんと目標どおりに米の生産量を抑えた農家には「米の直接支払交付金」という制度で10aあたり7,500円が「ボーナス」として支給されました。

これまで、米農家はこの「ボーナス」目当てに国が提示した目標に従っていましたが、この交付金も平成30年度から廃止されます。すると、米農家としては、もう米の作付を控える理由はなくなりますから、米農家が好きなだけ米を作るようになって、供給過多により米価の大暴落が起きるのでは、と懸念する声が業界内でたいへん強い。

しかし、生産数量目標の廃止は、産業としての「農業」に対する考え方を一新する好機と捉えるべきでしょう。これまでは、米農家は作れば作るだけ、すべて農協が買い取ってくれた。けれど、これからは農協も捌き切れない米は買い取らなくなる。米農家は「とりあえず作ればよい」から「需要を捉えて売れる米を作る」という発想に切り替えざるを得なくなります。その結果、経営者としてのマインドに欠ける昔ながらの農家は、利益を上げられなくなって、だんだんと生き残れなくなるでしょう。折しも、米農家の急速な高齢化で、担い手への農地集積が不可避的状況にありますから、新しい時代に適応できず、かつ後継ぎもいない農家が、担い手に農地を貸し出すよいきっかけにもなるかもしれません。いずれにせよ、国や農協が農家に「アメとムチ」をチラつかせて米の生産をコントロールする時代(その始まりは戦中まで遡る)が幕を降ろすということは、米農家の自主・自立性の回復とも取れますから、それが特段悪いことだとは私は思いません。

国内で最も生産量の多い農作物であるお米。そのあり方が平成30年度を境に劇的に変わります。それは米の産業構造はもちろん、農村・農家の形姿もまた変容を余儀なくされるでしょう。ではどう変わっていくのか……具体的にイメージするのは非常に困難ですが、それを占う時期は、もうすぐそこまで来ているのです。

今の私が震災の現場にいたのなら

東日本大震災から6年の歳月が過ぎた。

あの頃と比べて、私も、私を取り巻く環境も、ずいぶん変わった。

私は公務員になり、結婚し、子どももできた。あの震災に対するまなざしも、それに伴って変わった。考えてしまうのだ。「もしあの日、今の自分が、津波の押し寄せようとする現場にいたのなら」と。

あの頃の私なら、ただ自分が生き残るためだけに、一目散に高台へ向かっただろう――避難を呼びかけるアナウンスに従って。

あの日、自らは逃げることなく、最後まで放送で人々に避難を呼びかけて、遂には津波に巻き込まれ亡くなった自治体職員がいた。もし今の私が、あの日に、同じ立場に居たならばどうしただろうか――。

私もまた、命はてるまでマイクを放すことはないだろう。なぜなら、人々のために身命を尽くすことこそが、公僕となった私に与えられた【天職(Beruf)】の【義務(Duty)】だからだ。

日本語でいう「天職」は、専ら「その人の能力や性質にぴったり適合した職業」を意味するけれど、「Beruf」でいう【天職】は、そういう職業適性とは関係ない。また、「義務」と言っても、それは誰かに、あるいは法律や契約によって、強制されるものではない。それは、その場・その時に在る人間に与えられた、果たすべき「務め」である。

もっと厳密に言えば、【義務(Duty)】を為すに、「~スベキ」や「~ネバナラナイ」といった、判断や当為は必要ない。風立てば、凪いだ水面は揺れ、木々の葉はさやさや音を奏でる。しかし、水面も葉も、自らの意思でそうしているのではない。風立てば、そう成る。それに抵抗することはできないし、抵抗する理由もない。そう為れば、そう成る、それだけの、当然の帰結に過ぎない。

実に【天職(Beruf)】とは、天が人の世に吹き降ろした風に身を委ね、成るように為すことをいう。

私には妻ができて、子が生まれた。けれど、だからといって、それが【義務(duty)】の遂行を妨げることはない。【天職(Beruf)】に従う者に、もはや個性は存在せず、ただそこには「務め」に身を捧げる一介の「人間」があるのみだ。いまや公僕となった私も、ただ己が【天職(Beruf)】を全うすべく、【義務(duty)】を粛々とこなし、場合によっては、命を落とすだろう。かくて我を捨て、風立つままに為らんとすることのみが、まこと尊厳に値する人間の姿と思念するからには。