保守・リベラル・革新は何がちがうのか

民進党が「希望の党」と「立憲民主党」に分裂したことで、衆議院解散総選挙は「保守中道左派(自公)vs保守中道右派(希望・維新)vsリベラル派(立民・社民・共産)」の三つ巴の争いになりそうです。国民としては、選択肢が多く、かつ判りやすくなったのはたいへんありがたいことです。

ときに、日本では「保守派」の自公政権に対して「リベラル派」の民主・社民・共産が対抗する、というのが長らく政局の構図となっていましたけれど、かつては「保守派」と対立軸を形成していたのは「革新派」でした。しかし、「革新派」と呼びうるほどの政党も政治家も、70年代をピークに後を絶ち、「保守派」に真っ向から対立する政治勢力は存在しないはずです。

しかし現在の日本では、保守派とリベラル派はまさに犬猿の仲となっていて、互いが互いを「ものの道理もわからぬ愚か者」とみなして無暗に罵り合うばかり。先述しましたとおり、本来、両派はそれほど深く対立するような間柄ではないはずですが、いまや建設的に議論を交わすことも難しくなっています。選挙が近づくなか、これは大いに問題ありとせねばなりません。

ときに、政党や政治家の立ち位置を表すのに、こうした保守・リベラル・(ついでに)革新といった分類がされますけれど、「じゃあそれぞれで何がちがうの?」と訊かれてもよくわからない方も多いのではと思います。そこで、本稿では選挙の予習も兼ねて、それぞれの思想・信条の傾向をざっくりとまとめてみたいと思います。

その前に。私たちが「○○派」と呼んで人々を分類するのは、同じことへの対応でも、人によって判断・選択の違いが生じるのを認めるからであります。たとえば、目玉焼きの食べ方ひとつを取っても、醤油をかける人、ソースをかける人、何もかけない人――と好みが分かれます。そこで、私たちは「目玉焼きの食べ方」において、「目玉焼きにかけるもの」の違いを基に、人々を「醤油派」だとか「ソース派」だとかに分類するわけです。

政治においても、様々な問題の解決方法やその是非について意見がわかれることが多々あります。たとえば、今回の選挙では原発政策もテーマになっておりますが、原発を今後も推進していくと掲げる政党もあれば、廃止を訴える政党もある。消費税を増税するという政党もあれば、凍結するという政党もある。こうした個々の問題に対する主張の違いを基に「推進派/反対派」と二分することはできます。しかしこれだけでは、選挙で政党なり政治家なりを選ばねばならない有権者にとっては「情報不足」です。

わが国は「間接民主制」を採っております。選挙の度にいろいろな争点が提示されはするのですけれど、それは政治が取り組むべき問題のほんの一部であって、他にも問題は山積しているわけですが、それら選挙で問われなかった問題に係る判断は、政治家にほぼ一任するよりありません。ですから、有権者は選挙公約そのものよりも、その公約から透けて見える政党・政治家の「政治的志向」を基に投票することになります。

人間は誰しも、何かしらの状況への対応を迫られれば、複数の選択肢のなかから行動を選択しなければなりません。たとえば、東京から大阪に旅行するのであれば、交通手段は飛行機、新幹線、電車、バス、自家用車等いくつか選択肢がありますけれど、ある人は多少経費がかかっても最速で着きたいからと飛行機を選び、またある人は多少時間がかかっても旅行の風情を楽しむために電車を選び、またある人は、大阪観光よりも大阪までのドライブを楽しみたいからと自家用車を選ぶ。何に目標を置き、何を重視しているかによって、それぞれの選択は異なってきます。「政治的志向」とは、ある政治的問題に対して複数の選択肢が想定されるなかで、何を第一目標に置き、また何に依拠してその選択が正しいと判断するのか、その基準の在り処を示すのです。

「保守派」ですとか「リベラル派」だとかは、この「政治的志向」の違いに応じて貼りつけたパッケージなのです。有権者は、自分と「政治的志向」が似ている政党・政治家であれば、他の問題についても概ね自分が正しいと考える方向性で取り組んでくれるだろう、と期待できる。そこで、どの政党・政治家が何派であるか、という情報が非常に有用となるのです。

少々前置きが長くなりましたが、それでは各派の「政治的志向」について、特にそれぞれが自らの判断の根拠としているのは何かという点に注目しつつ、解説していきたいと思います。

まずは保守派について。辞書を引きますと、保守とは「今までの状態・考え方・習慣などを根本から変えようとはしない態度」と定義されています。おそらく、保守と聞いて一般の人が真っ先に思い浮かべるのはこの意味ではないかと思いますが、そのためか「保守的な人」というと、堅物で、頑迷で、融通が利かない奴、とネガティブな方にイメージされがちです。しかし保守派は胸を張って「このとおりである」と言い返すでしょう。

保守派にとって重要なのは、国家・社会・村落・家族といった大小様々な共同体が、長い歴史のなかで「伝統」を培い、受け継いでいるという事実です。「伝統」には、その共同体が慣習的に引き継いできた社会制度の一切が含まれ、それは日常生活のスタイルを規定する文化様式や、為すべきこと・為してはならないことを教唆する倫理・道徳的規範、自らが集団の一員であるという自覚と、集団のルールに従わなければならないという感覚を養う公共意識、人の行為の正当/不当を仕分ける正義の基準、そして物事の優劣を順序づける価値観等、多岐にわたります。それらは、共同体が秩序を保つために不可欠でありますが、いずれも一朝一夕で出来上がるものでも、また人為的に創造できるものでもない。世代を超えて営まれてきた共同体の生活実践のなかで、自ずと醸成されてきたものです。

保守派は「伝統」を、共同体が相続してきた、他には代えがたい貴重な財産と見なし、それを急激に変えたり、破棄したりするような企みは断固拒否します。保守派からすれば、元来個々ばらばらの人間が共同体を形成できるのは、ひとえに「伝統」を共有しているからであって、「伝統」の崩壊は即ち共同体の崩壊なのです。また、共同体が「伝統」によってまとまっている以上、共同体の正しさの規準もまた「伝統」にあると見なさなければならない。だから、保守派は万事「伝統」に依拠して物事の是非を判断することになります。

すると当然、次のような批判が噴出することでしょう。「新しい時代には、過去に類例のない事態が生じるもの。だのに、昔からの先例に囚われていては新たな世の中に対応できない」と。

保守派の目が過去に向きがちなのは確かです。また、伝統にこだわるあまり、急激な社会の変化に対応しきれないことも往々にしてあります。これは保守派の「弱点」ではありますが、同時にこの「ぶれなさ」こそが保守派の「美点」でもあります。

保守派の使命は「古くからの伝統をそのままに維持すること」ではありません。そもそも「伝統」と呼ばれるものは、時代の変化のなかでその形姿を変えてきたのですから、それをどこかの時代で区切って凍結保存するなどナンセンスです。保守派が目指すのは、「伝統」を過去から現在までの歴史の流れを汲みつつ、未来へと「発展」させていくことです。

「伝統」を「発展」させる、というのは少々違和感があるかもしれません。しかし、たとえばどんなに新奇な芸術作品も、過去に制作された作品の影響を受けていないものはありません。言い換えれば、新しい作品は、過去の作品を土壌にしなければ生まれえなかったのです。この過去と現在の芸術作品の間を貫く連続性のうちに、私たちは両者の根底に共に流れる「美」の精神を見て取る。この「美」が両者を統一しているのであり、さらに統一者たる「美」の発展史としての「美術史」が構築されるのです。

同様に、保守派は「伝統」を共同体の始源とし、共同体の歴史をその発展の軌跡として捉えます。この視点では、現代とは、伝統の発展過程の途上に位置するのであり、そこに生きる現代人の使命は、過去から連綿と続く「伝統の発展史」を未来へと延長させることにあります。ですから、保守派はけして変化を厭いませんが、しかしその変化は、「伝統」の精神を核としてしっかりと保ち、「伝統」と時代とが調和したものでなければならないのです。

以上のとおり、保守派は、共同体と共同体の成員は、過去から引き継いできた「伝統」に基づいて社会生活を送っていると考えますので、物事の是非は、それが「伝統」に適っているか、あるいは、伝統の順当な発展と評価できるか、という観点から判断します。これに対峙するのが「革新派」ですが、そちらよりも先に「リベラル派」について解説いたします。

「リベラル(liberal)」は、日本語ですと専ら「自由主義者」と訳されますが、その名のとおり「自由」に至上価値を置きます。それもただの「自由」ではありません。リベラルが求めるのは「人類普遍の自由」であります。

ではまず、リベラルが誕生した歴史的な経緯をざっくりと追ってみましょう。

ヨーロッパで「大航海時代」の幕が上がり、国と地域の貿易が地球規模にまで拡大して、いわゆる「商業革命」が勃興すると、ヨーロッパの経済規模は爆発的に膨れ上がり、商業や金融業、海外植民地での農場・鉱山経営等、時代の花形となったビジネスに従事する人々は徐々に力を蓄え、中産階級(市民:ブルジョワジー)を形成していきます。社会における市民の影響力が強まっていく一方、国家は未だ王侯貴族や聖職者といった旧い階級が幅を利かせる中世的な枠組みからなかなか脱せませんでした。

保守派は、変化そのものは否定しないと言っても、その理論は既得権益を持つ者の自己正当化に援用されがちであることは否定できません。市民社会の黎明期においても、王侯貴族は国家の支配者として君臨し続けた古い血脈を拠りどころとして、自分たちの権力を正統化し、市民が上げた利益を税として徴収しては、豪奢な生活を送っていました。

この状態に業を煮やした市民たちは、旧来の体制を改めようとしない王侯貴族等の「保守派」に対抗するかたちで、個々人の自由を掲げる「リベラル派」を形成していきます。リベラル派の望みは、王侯貴族や国家に邪魔されることなく、市民が思うままにビジネスを展開できる環境を作り上げること、つまり支配者層の権力を最小化して「自由になること」でした。そのためにはまず、王侯貴族らの権力の根拠となっている「伝統」の権威を打ち崩す必要がありました。

そこでリベラル派は、人間はみな、血筋も生まれも家柄も関係なく、人間であれば無条件に人間としての権利、すなわち「人権」を有していて、この権利は何人たりとて犯すことができない聖域なのだ、という思想を生み出す。そうして「伝統」の地位を「人権」よりも下におき、人権に反することは、たとえどれだけ長い歴史をもつ「伝統」であっても、これを排撃していきました。かくしてリベラル派は、人権を旗幟に掲げて保守派を攻撃し、市民の自由を拡大させていくプロジェクトを推し進めていくことになります。

しかし、伝統を軽視し、共同体の規範よりも個人の自由意思に重きを置くリベラル派の傾向には、保守派から「伝統を顧みなくなれば、人々の倫理・道徳意識が薄れ、共同体は秩序を失って崩壊するぞ」といった批判が向けられることになります。この批判に反論するため、リベラル派は伝統という強固な規範がなくとも社会が成立しうることを説明しなければなりませんでした。

そこで、リベラル派が「人権」と並んで重視したのが、人間の「理性」です。

人間には、その天性の素質として、誰に指図されるでもなく、自ら「最も正しい」判断や行動を選択できる能力が備わっている。保守派は、そうした人間の力を信じることなく、何事も「伝統」に縛り付けて人々を統制しようとするが、そんなものはそもそも不要で、人々は束縛のない自由な状態になれば、持ち前の理性をいかんなく発揮して最適な行動を取るようになり、古くさい「しきたり」でがんじがらめにするよりも、むしろ優れて調和した社会が成立する、とリベラル派は主張しました。

この説を補強するように、古典的な経済学は、みながみな合理的にふるまえば、世の中にあふれるモノやカネは、だれかがコントロールせずとも最適に配分されるというモデルを描きました。思想家は、そもそも政府は市民の財産や生命を守るために創られた、市民の生活の便を図るための一機関に過ぎない、と見なして、権力者の恣意的な国家権力の行使を牽制しました。知識人たちは、理想社会の実現に向けて、人々の「理性」を磨き上げるべく啓蒙活動に熱を上げていきました。

このように、リベラル派は「自由な諸個人による共同体」の建設を目指して自由を称賛する理論や思想を練り上げ、やがて市民による革命を巻き起こして、王侯貴族による古い支配を打破し、民主的な国家を築き上げていきます。今日、民主主義を標榜する国家において、人権ですとか、自由権ですとかを否定する者はまず存在しません。リベラル派の起こした潮流は、しっかりと現代に根を下ろしているのです。

一方で、こうしたリベラルな考え方が深く定着するに従って、リベラルな価値観が「伝統的」になりつつあり、国によっては「保守=リベラル」になっているケースも現れはじめます。かつての保守派のように、王侯貴族の血筋を重視するような人はもはや絶えて久しいですから、保守とリベラルの差はずっと狭くなっていて、人権をはじめとする基本的な価値を守り、発展させていくにあたっては、両者が協同することも難しくはありません。

とはいえ、保守派が共同体のもつ「特殊な」価値基準を重視するのに対し、リベラル派は国家・共同体を越えた人類の「普遍的な」価値基準に拠る、という方法論の面ではやはり相違は残っており、特に国際政治の場で意見が食い違うことは多い。たとえば国際貿易を巡る議論では、保守派は共同体に生きる人々の生活を守ろうとしますので、国内産業に配慮して保護主義になりがちです。一方のリベラル派は、国家なるものは見えない国境で区画された仮初の共同体であり、そもそも人間はみな同じ「世界市民」であるから、むしろ古い共同体は解体して、自由貿易によって世界をひとつにつなげようとする傾向にある。

おおざっぱにいえば、保守派は「共同体の利益」を、リベラル派は「人類の利益」を第一目標としている。いずれを重視するかは、人によって、あるいはそのときの歴史的状況によって異なります。ですから、国民が常にどちらかの方針を選ぶことができる状態にあるのが、民主主義国家においては望ましいことなのです。

最後に「革新派」について解説いたしましょう。こちらを後に回しましたのは、この3者のうち、革新派が歴史上最も遅く登場したからであります。

市民を主役とする一連の革命の後、ヨーロッパ諸国は続々と近代化を遂げ、人類史上未曽有の大発展を遂げます。それは、リベラル派の理論・思想の正しさを証明するかのようでした。

しかし、その内実をよくよく眺めてみれば、まずヨーロッパ国内においては一握りの資本家が富み栄える一方、労働者は明日の食事にも困窮する有り様。国外においては、ヨーロッパは自由と人権の価値を知る「文明人」だが、その他の地域に住む人々は、人類の普遍的価値を知らない「野蛮人」であって、先進的なヨーロッパはかれらを教導せねばならない、という「帝国主義」を掲げて、その実は暴力によって原住民を支配し、かれらから土地や財産や命を奪っているだけ。

この理想と現実の捻じれを目の当たりにした人々の間に、リベラルのいう「自由な諸個人による共同体」の繁栄は、結局のところ、強者が弱者から富を奪い取ることで成り立っていて、保守派が王侯貴族らの既得権益を守っていたのであれば、リベラル派の理想は、ヨーロッパの中産階級(ブルジョワジー)以上の利益を守っているに過ぎないのでないか、という疑念が広まっていきます。

そして歴史は、カール・マルクスという「巨星」を生み出すことになります。

かれは、リベラル派の支柱となっていた古典派経済学の理論を援用して、それが説く人類の繁栄は、労働者などの貧しい人々が生み出した価値を、ブルジョワジーが収奪することではじめて成立すること、そしてリベラル派は、人類はますます自由になっていくと説くが、自由な経済のもとでは、むしろ資本の増殖という無目的なプロセスに延々と巻き込まれることとなり、かえって自由も人間性も失われていく、と唱えました。

リベラル派のいう自由を推し進めていけば、むしろ人類は自由を喪失していく、というパラドクスはヨーロッパ社会に激震を与えます。さらにマルクスは「自由な諸個人による共同体」である市民社会が発展の最終局面に至ったとき、ブルジョワジーはこのパラドクスに耐えられなくなって没落し、やがて労働者を代表とするプロレタリアートが主導する真に平等で自由な世界が訪れる、と予言し、これに希望を見出した人々から熱狂的な支持を獲得していきます。

かくして、ブルジョワジーの打倒を掲げる革命が世界各地で勃発し、ロシアではソヴィエト社会主義連邦共和国、中国大陸では中華人民共和国という、革新派が掲げる共産主義・社会主義に基づく巨大な国家が誕生します。

革新派は、保守派が後生大事とする「伝統」にはなんの価値も見出しません。なぜなら、革新派にとって過去の歴史は「ブルジョワジーによりプロレタリアートが迫害されてきた事実」の累積でしかなく、そのなかで形成された価値観は、もれなく弱者を抑圧するためのイデオロギーに過ぎず、むしろ積極的に乗り越えていかねばならない、と考えていたからです。革新派は、こうして過去からすっかり脱却して、未来の理想社会に向かって邁進することをよしとしました。

また、リベラル派が求めて止まない自由な経済活動も、革新派は強者が弱者から富を収奪するのを正当化するだけだとして否定します。人々に儲けを追い求めることを要求する自由経済では、富は偏り、人は幸福になれない。みなが公平に富を受け取り、真に幸福な人生を送るためには、むしろ中央機関が経済活動をすべてコントロールして、人々が必要なだけ生産し、必要なだけ消費する社会としなければならない、と考えました。

これら革新派が描くユートピアは、人類史上類例のないものであり、保守派やリベラル派の理想を真っ向から否定するものでしたから、当然、両派は革新派を不倶戴天の敵と見なしました。しかし、保守派やリベラル派がけん引してきた世界では、人間同士の争いは跡を絶たず、困窮にあえぎ、迫害される人々が救われる兆しも見えない。この惨状のなかで、科学的な言説で身を固めた革新派は、知識人や正義感の強い青年を中心に急速に勢力を拡げ、保守派・リベラル派を脅かすことになります。

しかし、ソ連が先導し、人類がその歴史のなかで犯してきた過ちを清算するはずだった壮大な社会実験は、皮肉にも、集中し過ぎた権力は必ず腐敗するという、歴史の法則を繰り返
して崩壊します。かくして革新派は、3派のなかでは最も新しく誕生し、そして最も早く退場したのでした。しかし、革新派が巻き起こした嵐の影響はすさまじく、保守派・リベラル派は自身のポリシーの大転換を迫られました。

民主主義国家においては「数」こそが力です。革新派の主張は、社会のなかで圧倒的多数を占める貧民層の救済を第一とするものでしたから、それらが団結して選挙に臨めば、民主的手続きのもと、革新派による独裁政権が誕生するおそれがあった。そのため、保守派もリベラル派も、貧困対策に乗り出さざるをえませんでした。かくして、保守派もリベラル派も、膨大な社会保障関連の予算を確保するため、政府が経済成長や増税による税収増に血眼になる時代へと突入します。しかしこれは、当然の結果として、市民生活に対して国家が介入する領域と範囲を拡げることとなりました。

保守派は、たとえば「共同体が本来有していた相互扶助の仕組みを政府が補完する」とでも言っておけば言い訳になりましたが、国家権力の増大を許すことは、リベラル派にとっては自派の存在意義にかかわる深刻な背反行為でした。そのため、リベラル派は「みなの人権が尊重され、自由に市民生活を送るための最低限かつ基本的な社会インフラを政府が整えることは、真に自由で公平な社会を成り立たせるためには必要である」とする積極的自由の理論を組み上げましたが、いずれにせよ国家の巨大化を許容する点においてどちらも変わりはありません。

リベラル派が金科玉条としていた「国家権力の最小化」というポリシーも次第に有名無実化していくにつれ、保守派とのちがいがますます見えなくなってくるに伴い、リベラル派の立場も国や地域によって隔たりが出てきます。ヨーロッパにおいては、ある程度旧来の枠組みが維持され、保守派は伝統と自国の利益重視の中道左派、リベラル派は自由経済と世界全体の利益を重視する中道右派であることが多い(そのため、困窮する自国民を顧みない政治家を指して「あいつはリベラルだ」と批判されることがある)。なお、政府が介入する領域をさらに拡大し、国家主導での社会問題解決を訴える左派の領分は、社会主義ないし社会民主主義政党が守っています。

一方、伝統的に市民の自由を国是としてきたアメリカ合衆国では、保守派が自由経済志向であるため、中道右派であるリベラル派がもっとも左側に位置することになり、人民の権利を救済するために政府が積極的に動くべきだと主張しています(アメリカにおいては、どちらかというと民主党が左派寄りで、日本では当たり前の医療保険制度の「オバマケア」も民主党政権時代に制定されましたし、最近では、バーニー・サンダース氏が民主党の大統領予備選で非常に左派的な政策を主張して躍進しました)。

翻ってわが国はどうか。保守派を自称する与党自民党は、対外政策においては自由貿易を推進し、国際的な安全保障体制への軍事的プレゼンスを拡大する等、むしろリベラルな右派志向にある一方、国内政策においては、膨大な政府債務を抱えながらも、社会保障費や公共事業の削減には手を触れない等、左派的な傾向が見られる。一方、リベラル派を自称する野党は、自由貿易には反対し、安全保障に対しては非常に限定された役割しか認めない、一国主義的な保守派傾向にあり、内政についてはどうかというと、特に緊縮財政を主張するわけでもなく、そればかりか、国民の権利の保護等についての政府の役割を拡大しようとする等、むしろ左派・社会民主主義的な傾向がある。

このように、わが国の政局の見取り図を描こうとしても、なかなか一筋縄ではいかず、容易に「○○党は○○派だ」と当て嵌めることができない。そのため、国民からするとどの政党ごとにどういう特徴や違いがあるのか、非常にわかりにくいですし、また、各政党に一貫したポリシーがあるわけでもないので、有権者の思想・信条と心から共鳴するような政党が見当たらない。おそらくこれが、わが国の国民の政治に関する関心の冷え込みや、政治活動の低調化の要因なのではないか、と個人的には思います。

総じていえば、わが国の政党は全体として保守派・左派的で、国家の役割を大とし、国家による「上からの問題解決」に頼る傾向がある。その意味では、市民の自由な活動に絶大な信を置き、国家の役割を最小限に抑えようとする生粋のリベラル派政党は存在しない、といえるのかもしれません。これも個人的な展望ではあるのですが、こういう「真のリベラル」が登場しないことには、わが国の政治が変わることはないのではないか、と思います。

次の衆議院解散総選挙は「国防選挙」とすべきであること

国会が衆議院の「解散総選挙」に向けてにわかに色めき立ってきました。

一時期猛烈に吹いていた自民党への逆風は幾分弱まり、一方で新体制を発足させた民進党は出足から躓いた上に離党者も相次ぎ、党内は浮足立っていて選挙どころではない。また、細野氏をはじめとする民進党離党組と小池東京都知事が中軸となり、ともすればフランスのマクロン新党の如く旋風を巻き起こすかもしれない「新保守主義」的な新党は、未だ立ち上げにも至っていない――と、自民党が確実に勝てる選挙をするにはこれ以上ないタイミングですから、およそ政局的判断から解散に踏み切る算段であることは明らかです。

そのため、早くも野党や反自民党のスタンスを取るメディアからは「大義なき解散」との批判が相次いでおります。私も、上述のとおりの時節でありますから、安倍首相のホンネは「勝てるときに勝つ」ことにあると考えておりますが、北朝鮮の脅威が日増しに増す昨今、もしこれが「国防選挙」という位置づけで実施されるのであれば、たいへん意義があると思います。

北朝鮮は、この2ヶ月の間に日本上空を通過するミサイルを2度も発射し、これに抗議して国際的な圧力を強化しようとする日本に対しては「日本列島を核爆弾で海中に沈めるべき」などと威嚇しています。これまでであれば「弱い犬ほどよく吠える」といなしておけばよかったのですが、水爆の開発にまで成功したと思しき現状、「日本列島を沈める」という売り言葉も、あながち大言壮語とは言えなくなっています。

東アジアの緊張がますます高まっているなか、国民の生命と財産をいかに守るかと言う、民主主義国家に課せられた使命を日本はどう遂行していくか、これが喫緊の課題として浮き上がっています。しかし、主権国家の存在意義にすら関わるこの課題について正面から取り組むのは、わが国においては「政治神学上のタブー」となっている観がある。あらためて指摘するまでもなく、わが国憲法九条の規定が「日本国が自らを防衛すること」を想起することすら忌み避ける空気を、国全体に蔓延させる元凶となってしまっているのです。

思えば、先の安保法制を巡る乱痴気騒ぎにおいても、護憲派は「日本がアメリカの戦争に巻き込まれる」危険性については極度な不安を抱いていましたが、しかし「日本が戦争の当事国になる」ことにはまったく無頓着でした。もしかすると護憲派は、平和憲法さえ掲げていれば、敵対国もテロリストも日本を攻撃することはない、と、まじないめいた確信を抱いていたのかもしれません。しかし、可能性として「日本が攻撃される」という事態が想定しうる以上、それを一考だにしないのは「平和ボケ」と揶揄されても仕様がないように思います。

とまれ、わが国の採るべき「国防」のスタンスについて、国民も国家も明確な方針を示せていない以上、これを早急に整理する必要があります。そこで、ひとつ想定事例を提示してみましょう。もし、北朝鮮のミサイルが「日本を標的にして」発射され、迎撃に失敗して都市部に着弾、あるいは、日本を標的にしていなくとも、日本上空を飛んでいたミサイルが空中分解して、爆薬を搭載した弾頭部分が日本の領土に落下、国民に死傷者が生じた――としたら、わが国はどう対応すべきでしょうか。

国連軍の派遣による武力制裁は、中・ロが北朝鮮のバックについている以上、期待できそうにありません。ならば、日米同盟に則って、アメリカが日本に代わって武力行使してくれるか、というとこれも定かではありません。

もともと日米同盟は、旧日本帝国軍の解体に伴う軍事的空白を埋めること、日本が再び軍国主義に走らぬよう日本政府に圧力をかけること、日本列島を共産主義陣営と対峙するための前線基地にすること等を目的に結ばれたものでした。しかし、すでに東西冷戦は終息し、アメリカに敵対しようなどと考える日本国民は、いたとしても極少数派となっている。つまり、日米同盟の成果はすでに達成されており、そのコンセプトも現代ではすっかり時代遅れになっているのです。

※護憲派を含む日本の左派は、日本がアメリカの「属国」のようになっている現状を苦々しく想っているようですが、同時にかれらがしばしば発する「安倍首相は独裁者であり、日本は全体主義・軍国主義になりつつある」という「煽り文句」は、ともすれば日米同盟の古いコンセプトのリバイバルを要請し、同盟の正当化につながりかねないことを指摘しておきます。

つまり、東西冷戦時代と比べて、アメリカには何が何でも日本を防衛しなければならない、というほどの強烈な動機はないのです。ましてや、日本人は血を流さず、アメリカ人のみが戦うとなれば、かつてのベトナム戦争のように「無意味な戦争」という意識がアメリカ国民の間に蔓延して反戦運動化し、十分な武力制裁が行われないこともありえます。

そもそも、「護憲派」にしても自衛隊の保有と個別的自衛権の行使はどうやら認めているようですけれど、在日米軍基地が攻撃されたのならいざ知らず、わが国が攻撃され、日本国民に死傷者が出たのであれば、国連軍もアメリカ軍も動かずとも、日本が独自に北朝鮮に対して武力制裁を加える(反撃する)ことは、個別的自衛権の当然の行使として可能であります。されば、日本は自衛隊を朝鮮半島に派遣して敵の軍事施設を制圧し、場合によっては首都平壌に迫って彼の国を「降伏」せしめるべきでありましょうか。それとも、平和主義の理念を貫くために武力制裁には訴えず、ひたすらにミサイル迎撃の防備をかため、再び襲い来るかもしれない死と破壊の恐怖に甘んじて晒されるべきなのでしょうか。

「もし日本が攻撃されたらどうするか」という、主権国家が応答しなければならぬ当然の問いは、わが国にあっては、戦後よりこの方維持してきた――というよりも、真剣に向き合うことをしてこなかった「平和」なるものの姿を、かようにも掻き乱すのです。次の選挙はこのパンドラの箱をあえて開放し、わが国にとっての「平和」を、他ならぬ国民の手で具体化する歴史的作業となればと、密かに期待するものであります。

Jアラート不要論に対する3つの反論

今朝(8月29日)はJアラートのけたたましい警報音で目覚めた方も多いのではないでしょうか。Jアラートが実際に使用されたのは今回が初めてということ、そして朝の心地よい眠りを妨げられたことの怒りもあってか、ツイッターはじめSNS上では、ミサイルを発射した北朝鮮よりも、Jアラートに対する批判・不満の声の方が目立ちました。

その声の多くが、Jアラートなんてあったって無駄だし、不要だ、と主張しています。その理由を整理しますと、だいたい下記の3つにまとめられるように思います。

①「頑丈な建物や地下に避難してください」と言われても、そんな施設は近くにないし、どう対応すべきかわからないので、警告されたところでどうしようもない。
②ミサイルは、発射されれば10分とかからず飛来する。逃げる時間はないし、地下とかに避難したとしても、着弾すればまず助からないのだから、警報なんて無駄。
③今回のように、日本上空を通過しただけなのにいちいち警報を鳴らしては、人々の不安をいたずらに煽るばかりで、場合によっては社会がパニック状態になりかねないから、むしろ警報なぞ鳴らさないほうがよい。

かくいう私は「Jアラート必要派」でありまして、この3つの理由についてはどうにも承服しかねます。そこで、なぜJアラートは無駄ではないのかを、これらの理由に論駁するかたちで、ひとつ論じてみたいと思います。

まず、①についてですが、確かにJアラートの警報画面では「直ちに頑丈な建物や地下に避難してください」とだけしか指示はありませんでしたから、「そんなの近くにないよ!」と焦ってしまうのも理解できます。

しかしながら、政府は今年の4月に「弾道ミサイル落下時の行動について」というパンフレットを公表しており、各マスコミもこのことを大々的に報じていたように記憶しております。

★弾道ミサイル落下時の行動について
http://www.kokuminhogo.go.jp/pdf/290421koudou2.pdf

このパンフレットでは、Jアラートが鳴った際は、まず「できる限り頑丈な建物や地下に避難する」、建物がない場合は「物陰に身を隠すか、地面に伏せて頭部を守る」、屋内にいるときは「窓から離れるか、窓のない部屋に移動する」よう呼びかけています。

つまり、「頑丈な建物や地下に避難」するのは、最善の方法ではありますが、身を守るための行動は他にもあることは、すでに紹介されている。ですから、「頑丈な建物や地下」がないのであれば、パンフレットにある次善の行動を採ればよいだけのことで、「頑丈な建物や地下」が近くにないと言って怒るのは、要するに「もしミサイルが飛んできたらどうやって身を守るか」をまったく考えていなかったことを露呈するだけです。そういう方がまっさきに為すべきは、自身の危機意識の低さを反省して、次にJアラートが鳴ったらどう行動するかをきちんと考えて備えておくことのみです。

※このパンフレットの存在をそもそも知らなかった、という国民が多いということならば、国の周知が徹底していなかったということですから、そこは国も反省して取り組みを強化しなければなりません。

次に②について。仮に着弾地点が予測できたとしても、ミサイルは10分もかからず飛んできますから、逃げることは不可能です。また、核弾頭の有無に関わらず、爆心地付近に居た人々は、地下や頑丈な建物に避難しても、あるいは核シェルターに入ったとしても、残念ですがまず助からないでしょう。だから警報なんて無駄なんだ、という言い分にも一理ないこともありませんが、しかし、それは「爆心地付近の人々」にとっての理に過ぎません。

ここで、私たちは広島・長崎の原爆投下の教訓を思い出すべきでしょう。

広島・長崎における原爆による被害は、原爆が落ちた爆心地を頂点として、そこから周辺部に向かうにつれて同心円状に小さくなっていきます。爆発の熱風は、外に広がるほどに温度が低下するのですから、当然といえば当然といえます。

爆心地付近であれば、もはやなにをどうしようが助かりませんけれど、爆心地から離れれば離れるほど、ちょっとした行動の差が生死を分かつケースが増えてきます。たとえばある人は、窓際に立っていたために熱風を全身に浴びて落命したけれど、同じ地点にいた別の人は、遮蔽物に身を隠していたので、身体の一部にやけどを負う程度で一命を取り留めた。またある人は爆発を直視してしまったために失明してしまったが、ある人は地面に顔を伏せて目を強く閉じていたので失明を免れた等々。これら「間一髪」の事例は、広島・長崎の原爆体験において枚挙に暇ありません。

ですから、言い方を変えれば、Jアラートは「爆心地にいる人々を助けるため」にあるのではなく、「身を守る行動を取れば生存率が上がる周辺部の人々に注意喚起する」ためにあるのです。「ミサイルが落ちたらどうせ助からない」と悲観する人は、一方で、ちょっとした行動の差で生き残るかもしれない人々がいることを想像する力が欠けているのです。

③については、たしかに、日本の領土内に落ちるならまだしも、なんら被害が出ないのにいちいち警報を鳴らされてはたまらない、という気持ちは理解できます。しかしながら、ことミサイルについては、警報を鳴らすべきか否かを判断する時間はほとんどありません。

今回のJアラートも、ミサイルが発射してから警報が鳴るまでおよそ4分あり、その4分後に日本上空をミサイルが通過していきました。その間、ミサイルの種類、発射角度、軌道からどこに着弾するかの分析は絶えず続けられてはいますが、Jアラートを流すタイミングまでに着弾地点を予測するのは不可能です。また、分析した結果、上空を通過するだけとの結論が出たとしても、ミサイルがトラブルを起こして空中分解し、日本の領土内に落下する確率もゼロではない。

つまるところ、多少なりとも可能性があるならばとりあえず警報しておかないと何もかも手遅れになる、というのが実態なのです。
なお、今回は北は北海道から南は長野県まで、かなりの広範囲にわたってJアラートが鳴り響きましたけれど、これは着弾地点が予測しきれないために、可能性がある範囲すべてを対象とした、ということもありますが、仮に迎撃ミサイルで撃墜したとしても、ミサイルの破片が広範囲に降り注ぐこと(ミサイルの燃料や爆薬(核弾頭である可能性も)が空中で爆発し尽くすとは限りません)から、広く注意喚起するより手がないという事情も勘案すべきです。これが意味することは、ミサイルが日本領土を標的に飛んできたら、その時点で、いくらかの被害が出ることは覚悟しなければならない、ということです。

以上、私なりにJアラートが必要である所以を述べてみましたが、最後に確認したいのは、ミサイルがひとたび発射されれば、政府にせよ私たち国民せよ、ほとんど対処の仕様がない、ということです。日本中に配備されているミサイル迎撃システムも、完璧ではありません。そもそも高速で飛来する弾頭を撃ち落とすということが無理難題ですから、基本的に「ミサイルは、ひとたび撃たれたなら直撃する」ものと考えるべきです。

おそらく、飛んでくるミサイルの脅威を前にしては有効な対処法などない、という認識が、Jアラートなぞ無駄である、という想いの根っこにあるのではないでしょうか。現在の軍事技術では、残念ながらこの認識は一面の真理であると認めざるをえません。しかし、だからといってすべてを投げ出すのではなく、今回のJアラートはミサイルの脅威を実感できる良い経験になったと捉え、自分の生命を守るためにどう対処・行動すべきなのかを再検討する等、あくまで前向きな対応を心掛けたいものです。

※ところで、上記の認識を理由に「Jアラートで警報を出しても、ミサイルが飛んできたら被害が出るのだから、そんなことより外交力でミサイル発射そのものを止めさせるべき」という主張もツイッターで散見されましたが、それは「交通事故が起これば死傷者が出るのだから、交通事故そのものを起こさないようにすべき」という主張に似ています。ミサイル発射も交通事故も、ゼロにできるならそれに越したことはありませんし、ゼロに近づける努力はすべきです。しかし、どれだけ人事を尽くしても、起こる可能性をゼロにすることは不可能でありますから、仮に起こってしまったらどう対応するか、あらかじめ決めておかねば、かえって被害が深刻化してしまいます。どうも上述の主張は、ゼロリスクを求める日本人の悪癖が滲み出ているように思えます。

件の「二重国籍」騒動について雑感

個人的には、海外から日本に移り住み、その後に日本に帰化(外国籍を放棄して日本国籍を取得)した人が国会議員になっても何も問題はないし、むしろ開明的でけっこうなことではないか、とさえ思う。

ただ、諸外国での「二重国籍」への対応はなかなか厳しいようで、オーストラリアでは憲法で国会議員の二重国籍を禁じているとか。そういえば、ミャンマーも配偶者が外国人だと大統領になれないとかで、アウンサンスーチーさんは政府与党の党首であるにも関わらず、大統領には就任していない(実態としては、大統領以上に権力を有しているとかいう話もあるけれど)。

日本ではどうか。国籍法の第14条では「外国の国籍を有する日本国民は、外国及び日本の国籍を有することとなつた時が二十歳に達する以前であるときは二十二歳に達するまでに、その時が二十歳に達した後であるときはその時から二年以内に、いずれかの国籍を選択しなければならない」とあるから、法律の建前上、日本には二重国籍の日本国民は存在しないことになっている。

とまれ、これに違反したとて罰則は設けられていないし、本人の努力義務みたいなところがあるので、実際は二重国籍の日本国民はたくさんいるけど、特に問題視されることなく放置されてるのが実態。また、オーストラリアと違って、憲法にも、その他法律にも、二重国籍の国会議員を排するような国籍条項は設けられていない。ただし、それは国籍法上では「二重国籍を有している日本国民」は存在しないことになっているので、特段定める必要はないから、とも解釈できる。

そのなかで特例的に国籍条項が設けられているのが外務公務員(外国政府と交渉等する役職)で、当職は外務公務員法第7条で「国籍を有しない者又は外国の国籍を有する者は、外務公務員となることができない」と規定されている。だから、仮に二重国籍のまま国会議員になれても、当然に首相や外務大臣にはなれない。

わが国における例の二重国籍の騒動については、もし政権交代があれば首相となるであろう最大野党の党首が、そもそも首相になるための要件を満たしていないのでは、という疑惑が持たれたのであるから、単なるスキャンダルでも、ましてや「人種差別」の問題ではなく(であるならば、オーストラリアなぞ憲法で「人種差別」を肯定している国ということになってしまうだろう)、法治国家における最高権力者になりえる立場にある公人として、真っ先に身の潔白を示さねばならぬ案件であった。

なお、公職選挙法第235条には「虚偽事項の公表罪」というものがあって、「当選を得又は得させる目的をもつて公職の候補者若しくは公職の候補者となろうとする者の身分、職業若しくは経歴・・・に関し虚偽の事項を公にした者は、二年以下の禁錮又は三十万円以下の罰金に処する」とある。違反したらば候補者になれないとか、当選を取り消すとかは規定されていないし、二重国籍の状態であることを知らなかったというのが本当なら、悪意がなかったということで見逃されるだろう(過去の発言を見るに、知らなかったとは信じがたいことではあるが)。しかしながら、知らなかったとはいえ経歴を詐称していたのは事実であるから、政治家として何らかの責任を取る必要はあるのではないか。

獣医学部新設の是非はどのように検討されてきたのか――国家戦略特区HPの公開資料から検証する

今治市・加計学園の国家戦略特区(以降、「特区」に略。)における獣医学部新設を巡るニュースは、日々その焦点が移り変わっていくので、追いかけるのもたいへんですが、振り返って見ますと、いろいろと噴出した「疑惑」のすべてが氷解したわけでもなく、置いてけぼりをくらって放置されているものも少なくありません。

そのなかのひとつに「結局のところ、獣医師って足りているの?」という疑問があるかと思います。もし獣医師が足りているのなら、獣医学部新設を認めたことがそもそも不当なのではないか、それこそ「総理の意向」が働いて、加計学園だから認定されたのではないか、という次第で、加計学園が問題化した、割かし初期のころから巷でささやかれていたように記憶しています。

この疑問は、今治市・加計学園の特区指定の妥当性を評価するに留まらず、特区制度そのものの正当性をも評価するのに、非常に重要なポイントになると思うのですが、どうも今のニュースは、国会での「政局」を追うのに執心し過ぎて、問題の「根っこ」をきちんと検証してみよう、という気配はありません。そこで本稿では、日々の事件を追っかけるのはマスコミにお任せして、あえてこの「獣医師は本当に足りているのか」という疑問を拾い上げ、獣医学部新設を巡る問題の「根っこ」の部分を再度掘り返し、光を当てることで、加計学園問題を捉える視野の拡大を図りたいと思います。

とはいえ、私は獣医が絡む業界の関係者ではありません。それどころか、これまで獣医とはまったく無縁で生きてきました。そんなしがたない一般人の私が、専門的見地なり、業界の裏話なりを駆使して「獣医師は足りてる/足りていない」をスパっと断言する、なんてことができようはずがありません。

そこで、例によってではありますが、前回・前々回と同様、主に「国家戦略特区」のホームページで公開されている資料から、獣医学部新設が特区で認められるようになるまで、その是非がどのように検討されてきたのかを追跡することで、特区指定が妥当だったのかを判断する材料を整理する、という方法を採りたいと思います。

さて。本題に入る前に、特区の指定や規制改革メニューが決まるプロセスを簡単におさらいしておきましょう。

もしかすると、特区は、安倍首相が特区候補のリストを指さして「これは採用、あれは気に入らないからダメ」などと言って独断で決めている、なんて思っている方もいるかもしれませんが、もちろんそんなことはありません。まず、自治体や事業者が「規制があるから今はできないけど、こんなことをやってみたい」と提案します。それを受けて「国家戦略特区ワーキンググループ(以下、WGに略。)」が提案した自治体や事業者、そして関係省庁とヒアリングを行い、現在の規制は妥当なのか、また規制改革してでもやる価値がある取り組みなのかを検討します。そして、規制改革すべきと判断した案件は諮問会議に提出し、諮問会議でも審議した結果、特区で規制改革することを認めよう、という結論に至ったものについては、その旨を内閣総理大臣に提言し、それを受けて内閣総理大臣が認定する、という流れになっています。

つまり、特区を設けて規制緩和してでもやるべきなのかは、主にWGの段階で検討される、ということです。WGでの議論も、その多くが議事録となってホームページ上で公開されておりますけれど、獣医学部の新設についてはほぼすべての議事録が揃っています。これはたいへん好都合ですから、WGの議事録を第一の資料として取り上げていきましょう。

平成26年8月5日。「獣医師養成系大学・学部の新設」について、文科省及び農水省の担当者に対する初のヒアリングが実施されています。今治市(正確には「広島県及び愛媛県今治市」)の特区指定は平成27年12月15日ですから、その1年も前のことです。というのも、実は今治市や京都府よりも先に、新潟市特区で平成26年7月18日に開かれた第1回区域会議で獣医学部の設置が検討事項として上げられていました。新潟市は後に、獣医学部新設を取り下げたようですけれど、これをきっかけに始まったヒアリングが、後々の今治市・加計学園の獣医学部新設に繋がっていきます。

『平成26年7月18日新潟市国家戦略特別区域会議(第1回)議事要旨』
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/niigatashi/dai1/gijiyoushi.pdf

『平成26年8月5日国家戦略特区ワーキンググループ ヒアリング(議事要旨)』
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc_wg/hearing_s/h260805gijiyoshi01.pdf

当ヒアリングでは、まず文科省の吉田高等教育局長(以下、役職は当時のもの)より、獣医師養成の大学を「抑制をしている理由」としては、「獣医師の需要を考えたときに、おおむね充足しているのではないかということを認識して」いるからだと述べられています。ただ、獣医師の需給については農水省の管轄だけれど、平成19年に農水省が行った需給に関する検討会では「今後の需給状況の対処については明確な結論は出なかった」とも述べている。

一方、今治市からの再三の要望を受けて、構造改革特別区域の方では多少議論がされており、獣医学部新設は「今後前向きに検討を進める規制改革事項等」のひとつに含まれていましたが、平成26年6月の「獣医学教育の改善・充実に関する調査研究協力者会議」においては「国際水準を目指した獣医学教育の改善・充実が最優先の課題」であるから、「獣医系大学の定員管理の仕組みは継続すべき」と結論しているものの、獣医学部の具体的な定員数については「種々の増減要因等を総合的に勘案して決定することが望ましい」としています。

『平成26年8月5日国家戦略特区ワーキンググループ ヒアリング 配布資料』
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc_wg/hearing_s/140805siryou01.pdf

一方、農水省の荻窪消費・安全局畜水産安全管理課課長補佐は「今、産業動物獣医師の確保というのが1つ大きな課題になって」いるが、その対応としては「産業動物獣医師の確保について、いろいろな形で現在、支援をさせていただいているというのが現状」と述べるにとどまっています。

すると気になるのは、現状の獣医学部の定員数が「種々の増減要因等を総合的に勘案して」決まっているのか、という点です。WGの八田座長は、まず獣医学部に係る規制は「競争的な市場環境を保つためには、そもそも存在すべきではな」く、「この号を入れたこと自体が大問題」と所見を述べた後、「需給管理についてはどういう数値をとってなさってきているのでしょうか」と質問します。文科省の牛尾高等教育局専門教育課長は、昭和50年から「現在の930人という形になっている」、ただし「需給の状況については、……農水省さんでやっていただいているようなものを参考にしながらやっておりますけれども、供給が足りないとかについての客観的なというか、明確なものが出ていない状況なので、私どもとしては930名から動かしてこなかったという経緯」だと回答しています。

これに対し、WGの原委員は「需給管理をされてきたということなのですから、当然需要についての評価、分析はされてきたのだと思う」と釘を刺しつつ、「これまでの需要についてどう評価をされてきているのか」と質問。これに対し牛尾課長は「我々としては基本的に需要が足りないのでふやすべきであるということではない状況がずっと続いてきていると認識している」と、ドジョウが逃げるかのように掴みどころのない回答。

何とも歯切れの悪い回答に、八田座長は「大学の設置だとか定員数に関して、それを国が管理することになった場合に、特にそれが既得権は全部認めた上で追加は認めないという形になるというのは、教科書的にはあり得ない……既得権の立場から見たら、どの産業で も参入制限して欲しくてしょうがないわけですね……学校、獣医師全体が数をふやさないでくれと言うに決まっていますね。しかしそれは、新陳代謝を止めてしまうから、国民経済的には最も避けるべきことです」と巻くし立てたあと、「そういう仕組みがここに導入されていること自体が、大上段に振りかぶれば大問題です」と、当規制が獣医業界の既得権の温床になっているとの認識を示します。

※おそらくですが、八田座長はこの時点で、獣医学部の規制を、打破すべき岩盤規制として狙いを定めたのではないかと思います。

この初回のヒアリングは、原委員が「どういう評価をされた上で、昭和50年からずっと定員数を延ばさないという判断をされてきたのか」を後日データで示してほしい、と助け舟を出すかたちで終了しています。しかしこれは、獣医師の過不足を巡って繰り広げられるWGと農水省・文科省との「泥仕合」の序章に過ぎませんでした。

早くも2週間後の平成26年8月19日、獣医師養成大学・学部の新設に係る2回目のヒアリングが実施されます。

『平成26年8月19日国家戦略特区ワーキンググループ ヒアリング(議事要旨)』
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc_wg/hearing_s/h260819gijiyoshi05.pdf

WGとしては「昭和50年以降、定員が930人で推移している」ことの理由を、具体的な数値で示しつつ説明してくれるものと期待していたのでしょうが、その期待は大きく裏切られることになります。

文科省の吉田局長は、冒頭から「昭和51年の報告書以降、具体的な需給の増減に関する見通しというものが示されておりませんので、この930という定員についてもずっとそのまま推移してきている」と、あまりに正直に、40年前から獣医師の需給の見通しというのはなく、930という数値は前例を踏襲しているだけであることを白状しています。

その後、農水省の荻窪課長補佐が獣医師一人あたりの家畜数や犬の飼育数から見ると、海外と比較して「ほぼ同等ぐらいの数の頭数を見ている」と説明しますが、原委員からは「家畜数、ペットの数の推移……が入学定員の推移にどう反映されてきたのか」との質問。しかし、これにまともに答えることはせず、近年の家畜やペットの頭数の傾向を淡々と述べるだけ。ついには原委員も「入学定員をどうするのか、どう設定するのかというのを判断される上で、当然に動物の数がどれぐらいあって、実ニーズがどれぐらいあるのかというのは、多分一定の形できちんととられているものだと認識しておったのですが、そこは必ずしもそういう客観データを整理した上でされているわけではないということですね」と念を押すように確認した後、「何らかの基準をつくられて、この水準を超えたらまたふやしましょうということがなされてきたのかどうか」と訊けば、農水省の荻窪課長補佐は「申しわけございません、私のほうではそれを認識してございません」との返答。

第1回目のヒアリングから、この規制に既得権のしがらみを感じていた八田座長は「需給調整をするということは必然的に既得権を守りますから、それはやるべきではな」いと原則論を述べ、さらに「国家資格が能力の検定というよりは、需給調整の道具になっているという側面があるということなのですかね」と追及すると、吉田局長は「ある程度そうかもしれません」と回答。これを受けて八田座長は「国家試験を気にしないで獣医学部をふやしても、それなりの社会的ニーズは非常にあるのではないか」とコメント。

結局、定員数930名の基準・根拠は何か、獣医師は足りているのか等はあやふやになったまま、今後も協議を続けるということで2回目のヒアリングは終了します。

次のヒアリングは4ヶ月後の平成26年12月26日に開催されました。農水省の担当課は欠席しています。

『平成26年12月26日国家戦略特区ワーキンググループ ヒアリング(議事要旨)』
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc_wg/hearing_s/141226_gijiyoushi_06.pdf

文科省は、先のヒアリングで残された「宿題」、すなわち定員数の根拠は何かを答えなければならなかったわけですが、牛尾専門教育課長は、農水省の担当課が欠席であることをにらんでか「農林水産省におけます獣医師需給の見通しをもとに 入学定員に係る検討を行ってきて」おり、当の農水省は「昭和51年3月に具体的な見通しを示されていまして、その時点では将来的にむしろ減少傾向ではないかという見通しが示されている」し、また「獣医師につきまして不足する見通しであるといった見通しが示されていないということで、私どもとしても定員をいじっていない」と、定員数に関しては農水省の見解に従っているだけだから、文科省は関係ない、と言わんばかりの発言。

これに対し、八代委員は「農水省の統計予測自体にすごく問題」があると言います。たとえば「同じ獣医といっても、……産業動物の馬や牛と猫や犬では全然違う」し、「ペットの高齢化」という問題もあるけれど、農水省の見通しはそれを考慮に入れていない。文科省は農水省の見通しをアテにしているのであれば「もし農水省の需要推計に問題があれば当然、文科省としても考えていただくということなのですね」と、あわよくば文科省から獣医学部新設または定員憎の是とする言質を得よう、という意図が透けて見える発言。

しかし、牛尾専門教育課長は「医師、獣医師など、計画的に養成する社会的要請がある」とした上で、さらに6年間の授業料負担を考えれば、供給過多は避けるべき、といった旨の発言をして、あくまで定員維持の姿勢を堅守します。

ただ、これはまったくの墓穴でした。八田座長は「それは学生の責任でしょう」と一蹴し、「特定の学科だけの学生は確実に就職ができる」のは「はっきり言えば、政治力のあるところはこういうことをやって、ないところは市場に任せている」ということで「非常に不公平」だと指摘。定員数の根拠が満足に示されないなかで、獣医学部の規制には強い「政治力」が働いている、という八田座長の認識を一層強めることになりました。

ただ、文科省との一連の問答のなかで、WGは、規制と既得権益を守りたがっている「敵」は農水省である、という感触をつかみます。つまり、農水省から「獣医師は足りていない」という口実を得れば、文科省を陥すのは容易と見たのです。

ここですかさず、内閣府(事務局)の富田参事官から「小動物の地域偏在とか、小動物がどこにおるかは農水省は把握していなくて、あくまでも産業動物」のみであるとを助言、突破口がどこにあるのかをさらっと紹介します。それに対し八田座長は、ペットの需給見通しはいわば真空地帯「だから、獣医については需給調整を撤廃するというのが一番すっきりしている」と、改めて規制改革に意欲を示します。最後は「全体の需給見通し、特に小動物について根拠をもうちょっと明確にしていっていただかないとこれは詰まっていかない」と、農水省の「弱点」を衝く宿題を出して当ヒアリングは終了します。

年明けの4回目のヒアリングは、農水省から諸々の質問への回答がありましたが、メインとなったのは、やはりペット診療の需要についてでした。

『平成27年1月9日国家戦略特区ワーキンググループ ヒアリング(議事要旨)』
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc_wg/hearing_s/h270109gijiyoshi01_07.pdf

農水省の藁田消費・安全局畜水産安全管理課長は、産業医にしても、ペット等を診察する民間の獣医師にしても「頭数に見合った形で、獣医師がその地域で活動されて」おり、獣医師は「完璧に分布して」いるので、地域の偏在はないし、ペットの飼育頭数も家畜の飼育頭数も「低下傾向」だから「全体として獣医療の需要がふえるというのは考えにくい」と説明します。

これに対し、まず八田座長が「東京が127で、青森などは獣医師一人が犬を529 頭診ている」と地域ごとに一人当たりの診療数に偏りがあることを指摘。藁田課長は「恐らく獣医療にかけられる費用の点もある」と意見を述べます。つまり、東京のように経済的に余力がある地域は一頭あたりの診療費が高くても商売になるが、地方になると、安く・多く診ないと商売にならない。要するに「所得の水準によって小動物への需要はかなり大き」く変わる、ということです。

原委員からは「東京については圧倒的に獣医師さんがたくさんいる状態で、……実際に偏在状態になってしまっている」ではないか、という指摘とともに「そこの対策は講じられているのか。偏在状態があるのかないのか」との質問。

これに対し、藁田課長は産業医についてのデータは示すものの、民間の獣医については「小動物につきましては、結局、社会経済のニーズに合わせて活動する獣医師の数が、それに応じて配分されているのではないか」と、農水省ではペット診療の需要は把握していないし、当然ながら需要に応じた獣医数の調整等はしていない、つまり、民間の獣医は市場原理による配分にまかせている、という旨の発言がなされます。

これに原委員は「経済状況に応じて、それは地域の偏在などは起こらずにちゃんと配分されますよということであれば、そこは供給量についてもマーケットに任せるということをとられるのが筋」だと述べ、さらに八田座長は「全体が制限されていると、どうしても供給の偏りがあって、不足しているところが出てきて、豊かなところはちゃんと手に入るということになって」しまい、「仮に需給に応じて制限するとしても、今の(供給状況)は厳し過ぎるのではないか」とコメント。

藁田課長は「当省は別に供給に関して物を言う所管ではございません」から「需要に関してだけお話をしたい」と前置きした上で、動物の数が減っている現状、「今後、需要の点で増加するということが、 我々農水省サイドからすると、残念ながら難しい状況かなという感じがします」と反論します。

しかし、八田座長は、需要は頭数ばかりでなく「経済的な状況を反映している」のであり、そうでなければ東京への獣医集中は起きないだろうとした上で、景気が良くなれば需要が増えることは「非常にあり得る」とし、さらに「需要がないとして供給を止める理由はない」と述べ、そもそも需給云々で政府が定数を制限するのがおかしい、というこれまでの主張を繰り返した後、「需要モデルをもっといろいろと所得などを入れて、きちんと統計分析をす」ればまだしも説得的だが、とコメントして当ヒアリングは閉じられます。

次のヒアリングは約1ヶ月後の平成27年2月3日。当ヒアリングではかなり突っ込んだ議論がなされることになります。

『平成27年2月3日国家戦略特区ワーキンググループ ヒアリング(議事要旨)』
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc_wg/hearing_s/150203_gijiyoushi_06.pdf

まず口火を切ったのは、文科省の牛尾高等教育局専門教育課長。「そもそも大学の設置を制限することにより獣医師の需給調整を行うべきではなく、自由に獣医系大学・学部の新設を認めるべきではないかということについての私どもの考え方を御説明させていただきます」と、かなり核心的な議題からスタートします。

まず1点目として。獣医系大学、獣医師養成は食の安全、公衆衛生といった国民の健康につながる「社会的な使命を担って」いるため、「無制限に養成することは質の確保の観点から望ましくない」こと。
2点目。「獣医系大学におけます教育は獣医師養成に特化した形」であるから、「その適正規模を検討するに当たっては、将来における獣医師の各分野における社会需要の見通しを踏まえる必要があり」、また仮に自由に参入を認めた場合は「かなり国家試験対策という方に大学の教育内容が傾斜してしまう」おそれがあることから「獣医系大学の定員管理は維持する必要がある」こと。
3点目。「獣医学部の定員問題につきましては、通常の構造改革特区の方でも御提案を累次いただいて」おり、入学定員のあり方については「平成26年度内に速やかに検討を行う」方針であって、「定員のあり方についてはただいま検討中」であること。

なお、3点目については「今後の需給について考える際のポイントでありますとか、あるいは地域偏在の問題をどう考えるかといったことについて」は「今、検討途上なので、ここで具体的な方向性等を申し上げられる段階にはない」と述べて、微妙に逃げ口を作っていることを補足しておきましょう。

が、もちろんWGの委員はそれでは納得しません。

1点目について。八田座長は「質問に対する答えがよくわからない」と一言した後、「獣医師の質を担保することが必要だということ」はよくわかるが、「それは国家試験で一定の基準を満たせば、それだけで済む」のだから「国家資格では質を担保しているかどうかだけが問題」であって、「獣医師学校の新設の基準は質の確保とは全く別のことだし、需給をそういうところで見るべきでない」。質を確保するための制限としては「獣医学部の先生の質、研究水準、そういうもので獣医学部の新設を認めるための制限をする。次に医師の質を国家試験で……制限する。その2つで十分」との意見。
本間委員も「一定の正答率、つまり、知識、技術水準が一定の水準に達すれば獣医師の免許を与えている」のだから「そこが担保されれば、獣医師がいくらふえてもいい」と思うので、「獣医師に関して需給調整を官庁がやらなければいけないという理屈がどうもわからない」とコメントしています。
牛尾課長は、参入規制をなくした法科大学院の例を引き合いに出し、「なぜそんなにたくさん設置認可してしまったのかというような御批判も受けているような状況」であり、「多少の混乱はあっても全ては市場が解決するのであって、そこで何も社会問題化しないのであるというのが世の中のコンセンサスであれば、より多くの分野でそういうやり方がいいのではないかと思います」と、規制緩和により何か問題が発生した際の政治問題化を憂慮していることを仄めかします。
しかし、八田座長は「法曹に関しては、結局、……獣医の国家試験のような公明正大な正答率でもってやるという基準ではなくて、やはり最後の国家試験のところに需給のことが反映した……。結果的に、不必要に難しくしてしまった。だから、もともとは法科大学院を出た人の合格率というのはかなり高くする予定だったのを、そこの試験を非常に制限してしまって難しいものにしてしまった。そういうことをやったらだめですよね」とコメント。鈴木委員も「だから、今度は需給見通しをこちらがちゃんと見なければいけないというのは、ちょっと筋が違う」し、「そういう需給見通しなんていうことは文科省ができるものではないという前提で考えるべき」だと述べます。
2点目について。本間委員は「国家試験の合格を主目的にした大学になってしまうということの根拠がよくわからない」と一言。八田座長も「今は試験対策をしなくてもみんな通るけれども、数がふえると試験対策をするようになるだろうということですか」と質問すると、文科省の牛尾高等教育局専門教育課長は「よりそういう傾向が強くなってしまうのではないか」と懸念していると返しますが、八田座長は「新しく入ってくると競争が生まれるということでしょう。だから全体の質が上がるということではないですか」と一蹴しています。

3点目について。牛尾課長は特区ではなく、あくまでも「全国レベルで対応するということ」に拘ります。阿曽沼委員が「委員会や検討会の結論はいつ出るのですか」と尋ねれば、「委員会での一定の意見の取りまとめはできておりますので、それを踏まえて、今、我々がどうするかという行政的な検討をしている」と明確な時期を示すのを避けます。
八田座長は「全国で、ここで養成していることができるとなったら、特区でやる必要はありません。だけど、それはいつになるか、そうなるかもしれませんでは、やはり特区ではやっていただきたいと思いますけれどもね。そのタイミングの問題」と述べ、時間がかかるようであれば特区での新設も辞さない構えを見せます。

当ヒアリングは、八田座長から「もし、もう(獣医学部設置の)基準を(委員会や検討会で)つくっていらっしゃるなら、それに整合的なものを急いで出せるというようなことを検討いただければ」と要請し、牛尾課長が「いずれにせよ検討中」と返答。ひとまず文科省からの結論を待つこととして終わります。

なお、ヒアリングも終わりに差し掛かった頃、鈴木委員から「新たな獣医学部がスムーズに設置審を置いて、通って、入学を始めるまで何年ぐらいかかるのですか」と質問が出ています。牛尾課長は「私どもの手続から申しますと、学生を受け入れるある年の4月としますと、その1年ちょっと前ぐらいに、1年半ぐらいだったと思いますけれども、文科省に申請いただいて設置の手続に入っていくと思います。それは全国対応であっても特区対応であっても、その手続はどちらも一緒」と答えます。内閣府の藤原地方創生推進室次長は「大体2年後というのが相場」と補足しています。

これがなかなかに興味深い話で、というのも、ふつうなら大体2年、最短でも1年半は必要とする見解が出されているわけですが、広島県・今治市の特区指定が平成28年1月、獣医学部新設が規制改革事項に追加されるのは平成28年11月、正式に告示されるのは平成29年1月です。仮に平成30年4月に開校するのであれば、その1年半前、平成28年10月くらいには、準備万端整った上で手続きを開始していなければならなかった。
しかし、例の流出文書に書いてあることが事実として、それが書かれたのは獣医学部新設が規制改革事項に追加される直前あたりのようですから、その時点で、スケジュール上はギリギリだったし、その後の告示等の手続きを考えれば、明らかに「時間切れ」でした。それを、内閣府が、文科省に対し、1年とちょっとで開校まで漕ぎ着けろ、もしダメなら文科省の責任ね、と言ったとなれば、ただでさえ獣医学部新設に反対なのに、さらに無茶苦茶な注文をつけられたということですから、文科省サイドの怒りが頂点に達したであろうことは想像に難くありません。
とまれ、この話題は本稿の目的からずれますので、引き続きWGでの検証の様子を追っていきましょう。

次のヒアリングは、獣医学部の新設が検討項目として盛り込まれる「日本再興戦略改訂2015」がまとめられる平成27年6月30日の直前の6月8日に開かれます。前回のヒアリングで文科省が出した「新設すべきではない理由」は、WGの委員が納得できるようなものではなく、またそもそも、獣医学部の定員930名の明確な根拠も、規制するのであれば当然把握しているべき需給見通しも碌に示せていないのですから、両省はどちらかというと「劣勢」にあったと言えます。WGに規制改革待ったなしの空気が漂う中、それでも、文科省は、現在検討しているからちょっと待ってほしい、と口実を設けることで何とか虎口から逃れることができましたが、いよいよ政府方針を改正する段に入って、もはや規制改革を認めるよりないか、と思われましたが、ここで文科省は起死回生の一手を打っていました。

『平成27年6月8日国家戦略特区ワーキンググループ ヒアリング(議事要旨)』
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc_wg/hearing_s/150608_gijiyoushi_02.pdf

この頃には、すでに今治市からも特区での獣医学部新設が提案されていますが、まず冒頭で文科省の北山高等教育局専門教育課長より説明があります。「既存の獣医者の需要については、農林水産省さんに確認をしたところ、現時点では獣医師の需給に大きな支障が生じるとは考えにくいとのこと」だから、「文部科学省といたしましては、愛媛県・今治市より、既存の獣医師養成でない構想が明らかになり、そのライフサイエンスなど獣医師が新たに対応すべき分野における具体的な需要が明らかになった場合には、近年の獣医師の需要の動向を考慮しつつ、特定地域の問題としてではなく、全国的見地から検討を行う必要があると考えて」いる。さらに「この件につきましては、愛媛県・今治市に文部科学省から累次にわたってお伝えするとともに、直接御相談もいただいて」おり、「提案者のほうで既存の獣医師養成なり構想を具体化していただく必要が」あると「下村大臣からこの旨をお伝えしている」。その上で「獣医系大学の新設につきましては、……特定地域の問題としてではなく、全国的見地から検討しなければならず、国家戦略特区等の特区制度を活用した対応は極めて困難であると考えて」いると、文科省の見解を述べています。

ちなみに、前回のヒアリングで、文科省は平成26年度中に獣医学部の設置方針について具体的に結論を出すとしており、それが上述の「既存の獣医師養成でない構想が明らかになり――」以降の部分ではありますが、具体的に何を基準に獣医学部の定員数を決めるのかという、WGが再三にわたって問題にしていた核心部分は何も定めていません。

原委員が「文科省さんと提案者さんとの間でのやりとりという話がありましたが、事務局で何かお聞きになっている補足がもし何かあれば」と訊けば、内閣府の藤原地方創生推進室次長からは「まったく存じ上げません」の一言。つまり、内閣府及びWGが、文科省が「検討中」だからということで、その検討結果の報告を待つ間に、文科省は先手を打って、獣医学部新設の要件をわざわざ大臣を通して今治市に示し、政府としてもはやその要件を撤回できない状況を作り上げることで、獣医学部新設に係る主導権を奪いかえしたのです。

この一手により、特区で獣医学部新設を認めるかどうかを巡る議論の中心は「獣医学部の定員数に基準・根拠はあるのか」というポイントから「特区で開設する獣医学部が『新たに対応すべき分野』に対応するものであるか」へと移りました。文科省は、定員数の具体的根拠を示せないがために「劣勢」に立たされていたのですが、議論の主題をそっくり変えてしまうことで、これまでのヒアリングの成果をチャラにしてみせたのです。

かくして、これまでと打って変わって、WGは両省のペースで進むことになります。

本間委員からは「今治市が主張している国際水準ないしは新しいタイプの獣医学教育」は「これまでの獣医学教育とはかなり違うと私どもは受け取っているわけで、なおかつ、現在の獣医学の教育体制ではカバーし切れないと認識をしているところなのですが、そのあたりの見解についてはどうお考えでしょうか」との質問。
それに対し、北山課長は、今治市が主張しているような取り組みはすべて、既存の「モデルコアカリキュラムに基づいて、既存の各大学でも実施されているところ」であり、「これらを新しい分野というように位置づけるというのは若干困難がある」と答えます。

本間委員は続けて「新興感染症だとか、バイオテロだとかという危険が非常に高まっているという意味では、量的な拡大、つまり供給の拡大が望ましいというように我々は受け取って」おり、「新しい需要がふえているという中の状況をどうお考えか。……こうした対応について、今後、獣医師が今の数で十分対応できるのかどうか」と質問。
北山課長は「文部科学省では獣医系大学の新設等を検討するに当たっては、獣医師の需給見通しを含めて養成数を検討することが不可欠だと考えておりまして、この点につきましては、農林水産省さんのほうでの需要の見通しというものに基づいて検討をさせていただくことになろうかと思っております」と、農水省へバトンタッチ。
農水省の藁田畜水産安全管理課長からは「需給の関係でございますが、これについては、これまでも御説明したとおりでございます。小動物、ペットの獣医療に関しては、基本的なのはとにかく犬、猫の飼養頭数が減少傾向にございまして、小動物分野の獣医療が大きく伸びるというのは非常に考えにくい」と、以前のWGで需要の見通しがないことを散々突っ込まれた回答を繰り返します。

なんとも釈然としないまま、WGは質問を続けます。

本間委員は「バイオテロでもいいし、危機管理発生時の越境国際感染症だとか、そうしたさまざまなリスクに対応するために獣医師の増加は必要はないのか」となお食い下がりますが、藁田課長は「現状で対応できている」と返答。「今後の見通し」はどうかと訊かれれば、「これまで我々は対応していますし、これからもしっかりと対応していきたい」と、人員は十分なのかについては何も答えません。

八代委員は「就職口が問題ではなくて、では、何が問題で規制しているのですか」と訊けば、文科省の北山課長は「需要に基づいて」と答える。これに対し、八代委員は「小泉内閣のとき、そういう需給調整条項というのは一般的には廃止されるというはずだったのではないか。……国民の安全を守るためだったら、供給は多ければ多いほどいいわけですね。そのほうが競争を通じて質もたかまるわけですし。今の量だけで大丈夫だというのは、もう何十年前の知識を持った獣医でも新しいものに対応できるという前提になるわけですがそれがだとう(原文ママ)なものか」と追及。
農水省の藁田課長は、「質の問題は当然大切な問題」と「質」のみを取り上げて「一定の人材が確保されていると考えています」とだけ述べ、「量」については触れず。

本間委員は「どんな人がどれだけ獣医学の教育を受けていようが、農水省が認めている基準としているものをクリアすれば、それは量的にコントロールする必要は農水省として全くないと思う」と述べると、農水省の藁田課長は「この前もお話ししたかと思うのですけれども、……量的なコントロールはしておりません」との回答。
なお、本間委員が言う「量」は「獣医学部の定員(供給)」のことを指しますが、定員数は文科省が決めることなので、本来文科省が答えるべきところを、農水省が「合格人数」のことと受け取って、コントロールはしていない、と答えており、質疑応答が噛み合っていません。

さらに本間委員から「国家試験さえ通れば獣医師として認めるというお考えですから、合格して生まれた獣医師がどういう活動をして、どのような職についてどういう報酬を得るかというのは、まさに市場の問題ですから、それは前もそういう議論をしたわけですけれども、獣医師の数を規制するという理由はない。規制するというのは全く我々にはわからないということです。獣医学部の段階で規制するという理由は、全く私には理解できない」と、もう一度「規制の妥当性」を問う議論に巻き戻さんとする発言がなされます。
しかし、文科省の北山課長は「無制限に養成するということが質の確保の観点から望ましくないという考えがあり、また、獣医系大学における教育というのは獣医師養成に特化しておりますので、卒業生の卒業と密接不可分である」と、これまた以前こてんぱんに否定された回答を繰り返すのみ。
本間委員は「そのところ(質)は農水省さんの試験がある限りは、我々は確保されていると解釈するわけで……無制限にたとえ獣医師がふえたとしても、それはそれだけの知識と技術を持っている人たちがふえるというだけであって、何ら国民にとって害のある話ではない。……(卒業生の就職先については)予定している就職ができなかったとか、予定していた資格が得られなかったというだけであって、それは就職試験に失敗する学生がたくさんいるのと全く同じ話であって、それを文科省が心配される話ではない」と、これも以前と同様に論難しますが、北山課長は「それは獣医師国家試験に合格する獣医師がどれだけふえても問題ないということかどうか、私どもは農水省さんのほうでのお考え、獣医師数がどうであるかということについてのこと」と、あくまで需給云々は農水省のマターであると逃れ、また就職先云々については、「法科大学院の問題というのが大きな問題になって」いると、すでに論破されたはずの例を再び持ち出し、原委員から「獣医師の場合は法曹資格とは違って人数制限はしていなくて、点数をクリアすれば受かるわけですね。だから、今の御心配はない」と前回とほとんど同じ指摘を受けていますが、それが是なのか非なのか、両省ともに何もコメントしていません。

もはや暖簾に腕押し、糠に釘で、WGがいくら攻勢に出ようとしても、両省はこれまでのヒアリングで理に合わないと指摘されたはずの説明を繰り返したり、微妙に的が外れた答えを返したり、明言を避けたりと、不毛なやりとりが続いていきます。もちろん、両省とも、これまでと同じ回答を繰り返していることは自覚していたはずです。となれば、考えられる目的はひとつ。当ヒアリングをタイムアップに持ち込むことです。

ここで、「日本再興戦略改訂2015」に掲載された「獣医師養成系大学・学部の新設に関する検討」の文章をすべて引用してみましょう。

「現在の提案主体による既存の獣医師養成でない構想が具体化し、ライフサイエンスなどの獣医師が新たに対応すべき分野における具体的な需要が明らかになり、かつ、既存の大学・学部では対応が困難な場合には、近年の獣医師の需要の動向も考慮しつつ、全国的見地から本年度内に検討を行う」

『平成27年6月30日 日本再興戦略改訂2015 本文(第二部及び第三部)』
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/pdf/dai2_3jp.pdf

「あれ?どっかで読んだ気がするな」と既視感を覚えた方、それもそのはず、当ヒアリングの冒頭で文科省の北山課長が述べた説明と内容がほぼ同じなのです。つまり、本文案は、獣医学部新設を頑なに拒否する文科省が作成したものであり、そして当政府方針には、その文科省案がそのまま採用されることとなったのです。

両省は、当ヒアリングさえ乗り切れば、自分たちの案をそのまま政府方針とすることができる、と踏んでいました。だからこそ、当ヒアリングでは政府方針まで話題が及ばないよう、わざと時間を浪費させたのだと思われます。

さて、後に政府方針となるこの要件。これが非常に大きな意味をもっていました。

ヒアリングの時間は超過していましたが、原委員はこれだけは確認ということで「文科省さんから愛媛県さんには正確に何をしてほしいと言われているのですか」と質問します。これに対し、北山課長は「ライフサイエンスなど獣医師が新たに対応すべき分野における具体的な需要というのを明らかにしてくださいということをお伝えしております」との回答。

ですが、原委員の言うように、当ヒアリングでは「新しい分野は全部やっているのですよという話を個々にずっとお話しされていた」、つまり、既存のコアカリキュラムでも、今後起こるであろう問題に対しても十分に対応できる、というのが文科省の見解であると説明がされてきました。
すると――原委員は続けます。「新しい分野のニーズというのは共有された上で、その具体的なプログラムをつくってくださいということを求められているのかと思ったら、そういうことではなく」、つまり両省で「新しい分野のニーズ」は具体的にこれであり、これくらい人数が足りていない、ということを把握した上で、それをカバーする獣医学部の構想を練るように、と求めていたのではない。そもそもからして「文科省さんのお考えとしては新しい分野などは存在しないだろうと、ニーズはないでしょうというようにお考えになっている」のではないか。

牧野課長補佐は「そこまでは言っていません」と前置きしつつも「既存の獣医師養成の分野に関しては少なくとも今足りているというように我々は農水省さんから聞いておりますので、その上で関係者も納得するような、これは新しい構想だというようなものを具体的な需要の数までも示した上でお示しいただければ、こちらとしても一緒に検討していきたい」と返答。

これぞ、文科省が「逆転の発想」で編み出した、獣医学部新設の動きを葬り去るための「秘策」でした。

両省は、新しい需要を具体的な数値(不足している獣医師数等)で証明すれば、最終的には全国の需給状況との相談になるけれど、新しいことに取り組むというのなら、獣医学部新設を考えてやらないでもない、という姿勢です。

しかし、これまでのヒアリングでも明らかなとおり、文科省も農水省も、きちんと数値化された獣医師の需給見通しなどもっていません。以前、WGの鈴木委員が述べたように、そのような見通しなど立てられるはずがないのです。だから両省は「獣医学部の定員数の根拠を示せ」というWGの追及に、最後までまともに答えられなかった。
両省は、これを逆手に取りました。「獣医師の具体的な需要の数」を証明せよ、という課題に、当の両省は答えられなかったわけですが、それを獣医学部新設の提案主体に課した。つまりは、文科省で証明できないことを証明してみせたらクリアという、ほとんど無茶振りに等しい課題を設定したのです。
さらに、両省はまともな需給見通しや、その詳細なバックデータ等を整理しているわけではありませんから、提案主体が出した「証明」が正しいかどうかを客観的に判断することは不可能です。畢竟、両省の主観的判断に比重が置かれることになりますが、両省とも「新しい分野」など存在しないというスタンスですから、どんな目新しくて意欲的な取り組みであっても「現状で十分」と一言放てば跳ね除けることができます。

この秘策により、獣医学部新設の提案はその尽くが「無理筋」と化してしまうという、おそろしい「呪い」がかけられることになります。

原委員は「挙証責任がひっくり返っている」と憤りますが、このひっくり返しこそ、獣医学部新設を絶対に阻止するため、文科省が繰り出した「逆転の一手」だったのです。当ヒアリングは両省の思惑通りに進み、政府方針には文科省の文案がそのまま掲載され、後にこの要件は「石破4条件」と呼ばれ、獣医学部新設反対派にとっての最大の拠りどころとなっていきます。

かくして、獣医学部新設の要件を完全にクリアするのはほぼ不可能となり、両省の起死回生の一手によって、もはや獣医学部新設の望みは断ち切られたかのように思われました。しかし、WGの委員はけしてあきらめませんでした。そもそも、WGにおいて主に問題としていたのは、原委員の言うように「獣医学部の新設についての告示での制約を課していることそのものがまず合理性がない」という「規制の妥当性」についてでした。何だかんだありましたが、結局、獣医学部の定員930名の根拠はわからず仕舞い。ここに既得権の匂いを嗅ぎつけていたWGにとって、この規制は何が何でも打破しなければならない岩盤規制の最たるものと認識されていたのです。

そして、もはや何を提案しても「無理筋」になってしまうにも関わらず、この半年後の平成28年1月には広島県・今治市が特区に指定されます。これには、何としても獣医学部新設に係る規制を突破してやろう、というWG及び内閣府の意地が垣間見えます。見方を変えれば、今治市はWGや内閣府から、文科省の企図を打ち壊すための「鉄砲玉」にされた、とも言えなくもないかもしれません。

そして、獣医学部新設が規制改革事項に加わる2か月前の平成28年9月16日、最後の省庁ヒアリングが実施されます。

『平成28年9月16日国家戦略特区ワーキンググループ ヒアリング(議事要旨)』
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc_wg/h28/shouchou/160916_gijiyoushi_2.pdf

前回のヒアリングから1年と3ヶ月も経過していますが、当ヒアリングは、これの前に開かれた9月9日の諮問会議で、八田議員(WGの八田座長)が「獣医学部の新設は、人畜共通の病気が問題になっていることから見て極めて重要ですが、岩盤が立ちはだかっています」と話題に上げたのを受けて、「総理からもそういった提案課題について検討を深めよう」と話があったことから開かれたものです。

当ヒアリングでは、早速、文科省の浅野高等教育局専門教育課長が「この2015年の日本再興戦略の中で、獣医師養成系大学・学部の新設に関する検討という中で、……」と、例の「証明できないことを証明せよ」と迫る「石破4条件」を持ち出して機先を制しようとします。

WGの本間委員は「獣医師の定員管理をどうするかということは水かけ論になっていて、我々として定員管理は必要ないという立場であって、一定の技術を持ち、資格が認められれば、獣医師になるかならないか、試験を受けて獣医師になるか、その仕事に就くかというのはマーケットが決めればいい」と、WGの主張をまず打ち上げた後、「今治市のほうから出てきている話としては、例えば感染症対策だとか新しいニーズとして獣医師の養成が必要だということです。単なる定員増とは別のところにあるということ。そのあたりの見解についてはどうなのでしょう」と、今治市の提案は要件にも合致してくるのではないか、と文科省に確認します。
文科省の浅野課長は、前回のヒアリングと同様、コアカリキュラムで十分対応できる、という主張を繰り返すものの、一方で「各大学においてライフサイエンス分野での活躍できる人材の養成に取り組んでおりますが、その具体的な需要は明確となってはおりません」と述べます。つまり、今治市で「新しいニーズ」がある、と提案しても、文科省ではそういった需要があるのかわからないので判断できない、という。これぞ「石破4条件」を武器とした必勝の戦術であり、文科省が獣医学部新設の提案を締め出しにかかっていることは明白でした。

本間委員は「需要がどれだけかわからないということなのですけれども、それはもう少し提案者ないしはそれを取り巻く状況からきちんとヒアリングしていただいて、早急にそこはお認めいただきたい」と詰め寄りますが、1年以上も時間があったのに需要がつかめていない、ということは、文科省はもはや需給見通しをつける気などない、と見るべきでしょう。
さらに本間委員は「今、水際のところも十分獣医師が足りているのかどうかわかりませんけれども、たとえ足りているとしても、新たな問題が多々発生している中で、それは将来的にどう防ぐかということも含めた学問的な追求ないしは体制づくりということが必要」というのが今治市の主張であって、「今、水際で検疫等々で調べる獣医師さんがとても不足しているから増やせという話では必ずしもない」のだから、「獣医師の試験を受けようか、受けないで別のところの職場に行こうか等々は、まさにそういうことのマーケットを踏まえて受験生が決める話であって、そこは定員管理で縛る話ではない」と述べます。

八田座長は「2015年に、この問題(獣医師が新たに必要な分野における研究者の需要)を年度内に検討を行うはずだったわけですから、需要があるないということに関する結論が遅きに失しているのではないか」と、文科省を責める一方、「今回、また特区諮問会議でもここが新たな課題として出された以上、本当にこれは早急に御検討をお願いしたい」と言います。なお、新たな課題として持ち上げたのは八田座長自身です。文科省が文部科学大臣を巻き込んで対抗するなら、WGはその意趣返しに内閣総理大臣を突き動かした、といったところでしょうか。

しかし、浅野課長は、再度「石破4条件」を盾にしてWGの攻勢を跳ね除けようとします。それに対して八田座長は「そうであるかどうか(「石破4条件」をクリアしているか)という判定というのはもう今、進めていらっしゃるのですか。それとももう少し提案者等からのヒアリングが必要だということですか」と、より具体的な答えを得るべく追求します。
浅野課長は「恐らくこれは文科省だけでは決められないと思いますので、きちっとしかるべく多分政府全体として、需要と供給の問題も全く関係ないわけではありませんので」と言って、回答を避けます。もとより、文科省は「石破4条件」をクリアできる提案などない、という前提で構えているところがあり、また判定の基準となる需給見通しもない状態ですから、具体的にどう進めているのか、と訊かれても、答えようがなかったのでしょう。

けれど、八田座長は譲りません。「それは関係ないでしょう」と一蹴。文科省は「研究が必要かどうか、その観点からやるから文科省に(大学設置の許認可の)権限がある」と、文科省で判断すべきは研究が必要かどうか、という点のみであって、需給のことなど気にする必要はない、と言います。
それでもなお、浅野課長は「ただ、獣医学部を出た卒業生は、獣医師国家試験の受験資格が与えられますので、当然そこの需給の問題というのはかかわってくる」と食い下がります。

「石破4条件」のキモは、新しい需要があることを提案者に証明させることを条件としつつ、しかし文科省の側ではけして需要の有無を明かさないことで、「証明できないことを証明させる」ところにあります。ゆえに「需給が重要な問題であるが、実際にどれだけ需要があるかは検討中」という状態を維持すれば、「石破4条件」は「難攻不落の要塞」となり、獣医学部新設の動きを堰き止めることができる。

当ヒアリングにおいても、文科省は事あるごとにこの「難攻不落の要塞」に立て籠もり、WGの攻勢をシャットアウトしています。この要塞がある限り、WGが何をわめこうが、獣医学部新設の規制改革は頓挫する運命にある――と、文科省は考えていたかもしれません。

文科省は、再びの勝利を確信していたかもしれません。けれど、かれらは大事なことを忘れていました。

WGのスタンスは、当初から一貫して「需給調整など無意味であるが、百歩譲って、調整が必要というのなら、獣医学部の定員数や具体的な需給見通しを示せ」というものでした。文科省も農水省も「具体的な需給見通し」などもっていないのですが、それを逆手に取り、自分たちではなく提案者に「具体的な需給見通し」を証明させるという無理難題を課して、提案をすべて跳ね除けるというのが「石破4条件」の戦法でした。

しかし、需給見通し云々は「百歩譲った」地点での話であり、そもそも需給調整に意義を見出していないWGにとってはどうでもいいことでした。しかも、この時点で初回のヒアリングから2年が経過しています。この間、文科省も農水省も、規制を設けていることの合理的な理由を示せませんでした。ここで、WGは「タイムアップ」だと判定したのでしょう。

本間委員は「獣医師が増えるか増えないかということは文部省のマターではない」と述べ、需給云々を言い訳に籠城戦を続けてきた文科省に対し、「需給調整を相手とせず」と勧告しました。

すなわち、WGは「難攻不落の要塞」である「石破4条件」を、攻略することなくスルーする、という戦略を採用したのです。

今治市等の提案者とのヒアリングにおいて、WGは、それが「新しい分野」の取り組みといえるかどうかはよく検討していますが、それの具体的な需要を数値化する、という作業はまったく行っていません。WGにおいては、需給云々は完全に論の外に置かれたのです。かくして、獣医学部新設を阻止するための最終防衛ラインに置かれた「石破4条件」は、まともに相手にされないというまさかの事態により、WGの突破を許すことになりました、

そして、平成28年10月4日の諮問会議で、八田委員(WG座長)は「獣医系学部の新設のために必要な関係告示の改正を直ちに行うべき」と提言、翌月には獣医学部新設が規制改革メニューに追加されます。

『平成28年10月4日 第24回国家戦略特別区域諮問会議(議事要旨)』
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/dai24/gijiyoushi.pdf

実際に出された公示は、日本獣医師会をはじめとする反対派の猛烈な政治的働きかけもあり、「1校限定」に留まりました。ここに文科省がどの程度関与していたのかはわかりませんが、とりあえず総崩れだけは防げたといったところでしょう。

かくして、特区での獣医学部新設が認められることになりました。けれど、結局、獣医師は足りているのか、新しい分野でのニーズがどれだけあるのか等は不明確なままです。WGからすれば、そもそも40年間も獣医学部の定員が動いておらず、さらに獣医師は足りているとしながらも、その定員の具体的な基準・根拠がない、それだけで規制改革する理由としては十分でした。極端な言い方をすれば、WGの目的は、獣医学部を新設することそのものよりも、この規制に風穴を空けることの方にあったと思われます。

WGとしては「大義は我らにあり」という想いだったのでしょうが、そのため「石破4条件」に合致していることの証明はなおざりになってしまい、「強行突破」だ、という批判を許すことになってしまいました。もとより、「石破4条件」は、当の文科省自身すらクリアの条件を知らない「難攻不落の要塞」であって、これを正攻法で突破するのは不可能ではありましたが、政府方針として出された以上、これをカンペキにクリアするのが筋と言われれば、反論は難しい。これはどう贔屓目に見ても、WG及び内閣府の落ち度と言わざるをえないでしょう。現に、某前事務次官の「行政が歪められた」という発言に説得力を与えることとなり、この度の騒動が炎上する下地を用意することになりました。

さて。ずいぶん長くなってしまいましたが、本稿はこれで閉じたいと思います。獣医学部新設及び規制緩和は妥当だったのか、それはWGと文科省、どちらの基準・判断を是とするかで評価が分かれるところでしょうから、私からは何も申し上げないこととします。ただ、本稿にお目通しいただいた方々の、ニュースを見る目がほんの少し豊かになっていただけるのなら、望外の喜びであります。