悲劇の要素とカタルシス ~アリストテレス『詩学』のメモ~


詩学 (岩波文庫)詩学 (岩波文庫)
(1997/01/16)
アリストテレース、ホラーティウス 他

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1.悲劇と喜劇の区別

 まずはじめに、悲劇と対をなす劇の形式である喜劇とのちがいを区別しておきましょう。アリストテレスは悲劇も喜劇も、人間の行為(プラクシス)を再現(ミメーシス)したものと定義します。しかし両者のちがいはその行為する人間の特性にあるのです。すなわち、悲劇は自分たちよりも優れた人間の行為を、喜劇は劣った人間の行為を再現の対象とします。
 喜劇における「劣った人間」とは「あらゆる劣悪さにおいてではなく、滑稽なものはみにくいものの一部であるという点において」劣っているのだとアリストテレスは言います。「なぜなら、滑稽とは、苦痛もあたえず、危害も加えない一種の欠陥であり、みにくさである」(第五章)。つまり、喜劇は観る者の精神にそれほど深い劇的効果を与えるものではなく、表面的なよろこびしかもたらさないものとされます。
 一方、悲劇における「優れた人間」とは何か。この基準はあまり明確に示されていませんが、アリストテレスは「優れた人間」と述べるとき、その人物像を神話や伝説上の英雄(たとえばオイディプス)などに求めています。つまり一貫した信念をもち、決然と行為・選択のできる人物が「優れている」とされているのです。
このように悲劇と喜劇とを分けて後、アリストテレスは悲劇を喜劇よりも優れた詩作(ポイエーシス)であると評します。そして以降『詩学』は悲劇の分析を中心に展開していくことになります。それでは、アリストテレスの分析を追いつつ、かれが悲劇に、ひいては詩作(ポイエーシス)には何が必要と説いていたのかを見ていきましょう。


2.悲劇の構成要素

 悲劇は(1)筋、(2)性格、(3)語法、(4)思想、(5)視覚的装飾、(6)歌曲の6つの構成要素をもつとされます。ここからさらに、語法と歌曲は再現の媒体、視覚的装飾は再現の方法、筋と性格と思想が再現の対象と分類されます。
 この6つの要素のなかでもっとも重要視されるのが出来事の組み立て、すなわち筋(ミュートス)です。以降、悲劇の構成要素における重要性の順位は性格、思想、語法、歌曲、視覚的装飾の順に並べられます。この順位は筋を構成するにあたっての必要性を基準としておりまして、アリストテレスがいかに筋を重視していたのかがわかります。
 語法以下の要素についてもアリストテレスは詳細な検討を加えていますが、そちらは悲劇にとっていわば枝葉にすぎません。よってそちらの解説は割愛して、以降は主に筋と、それと筋の理解に役立てる範囲で性格について取り上げて見ていこうと思います。
 

3.性格よりも筋(ミュートス)が大事

 悲劇は優れた人間の行為を再現すること、と先に述べました。行為には当然、その人物の性格や思想が関わってきますから、悲劇の登場人物たちにはそのような性質が備わっていなければなりません。つまりキャラクターが立っている必要があるのです。ちなみにアリストテレスは性格を「行為する人々がどのような性質をもっているかをわたしたちがいうときの基準となるもの」(第六章)、思想を「行為する人々が何かあることを証明したり一般的な意見を述べたりするときに語る、すべてのことがらのなかにあらわれるもの」(第六章)と定義しています。
 しかし、悲劇における再現は、個々の人物の行為から、あるいは個々の人物の行為によって、その人物の性格や思想を再現するのではなく、複数の登場人物の行為をひとつの行為として再現することを重視しています。もちろん、性格や思想がなければ行為はなされませんので、それらはなくてはならないものではあるにせよ、しかし悲劇全体の統一された行為の再現に比べればそれほど重要ではないのです。アリストテレスは筋だけの劇を「白と黒で正確に描かれた似像」、性格だけの劇を「美しい色の絵の具を手当たりしたいに塗りまくった絵」に喩え、前者の方が悲劇固有のよろこびを与えるものとしています(もちろん、両者が絶妙に合致した劇が好ましいことは言うまでもありません)。
 アリストテレスが個々の登場人物の性格を悲劇全体の筋よりも下に置くのは、「悲劇は人間の再現ではなく、行為と人生の再現だから」です(第六章)。アリストテレスは人間の幸、不幸はその人間の性格よりも行為によって決定されると見ています。そのため、悲劇は登場人物の個々の性格を再現するだけのものであってはならないのです。「悲劇は、行為なしには成り立ちえないが、性格がなくても成り立ちうる」(第六章)のでありまして、性格は再現のためのひとつの要素として取り入れられるに過ぎないのです。したがって「筋は、悲劇の目的(テロス)であり、目的はなにものにもまして重要である」(第六章)。筋は悲劇の構成要素でありながら、悲劇全体の構造を形づくる原理でもあるのです。「筋は悲劇の……いわば魂である」(第六章)。


4.筋と出来事

 「行為の再現とは、筋(ミュートス)のことである。すなわち、ここで私が筋というのは、出来事の組みたてのことである」(第六章)とアリストテレスはいいます。ここでいう出来事(プラグマ)とは、行為されたこと、行為によって生じたことを意味します。つまり、出来事は行為者本人とは直接的に関わりはないということです。言い換えれば、行為者は行為した瞬間に、行為によって生じたことから隔絶されるのです。悲劇においては行為者本人の性格や思想よりも出来事の組み立て、すなわち複数の人間によってなされるひとつの行為の再現、つまり登場人物たちの諸行為を一本の筋に統合することの方が重視されます。
 しかしながら、たとえひとりの人物の行為を追っていった場合でも、現実においてはその行為が首尾一貫しているということはほとんどありません。「なぜなら、一人の人物には多くの、数かぎりない出来事が起こるが、これらの出来事のあるものからは、統一ある一つのものはけっして生まれないからである。同様に、一人の人物でも多くの行為を――そこから統一ある一つの行為が生じることはけっしてない多くの行為をなすからである」(第八章)。人間とは気紛れな生き物でありまして、昨日の発言を今日になったらコロっと覆す、なんてことはまったく日常茶飯事なのであります。人間の人生はある一本の確立されたレールの上をまっすぐに進んでいるのではなく、並列し、ときに混じり合う複数のレールをあっちこっちしながら歩んでいるものなのだ、というアリストテレスの人生観がうかがえる箇所であります。
ひとりの行為ですら首尾一貫していないのですから、ましてや複数の人物の行為が統一されていることなど望みようがありません。現実の出来事は筋などもっていないのです。そこで、アリストテレスは詩人たちの詩作(ポイエーシス)はいかなるもので、また何を目的とすべきなのかを説いていきます。


5.詩人の仕事

 「詩人(作者)の仕事は、すでに起こったことを語ることではなく、起こりうることを、すなわち、ありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で起こる可能性のあることを、語ることである」(第九章)とアリストテレスはいいます。この詩人の目的は歴史家と詩人とのちがいを比べることでよりはっきり理解できます。「歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語るという点に差異がある。したがって、詩作は歴史にくらべてより哲学的であり、より深い意義をもつものである。というのは、詩作はむしろ普遍的なことを語り、歴史は個別的なことを語るからである」(第九章)。
 歴史は行為の再現ではなく、過去に実際に起こった出来事のみを語ります。歴史上の出来事、すなわち現実世界の諸事実は偶然や、隣接する諸々の事実の複合によって生じています。歴史とはそれをある時間軸にそって羅列したものでありまして、ある事件とある事件との連続性は必ずしも明らかではありませんし、またある事件がどうして発生したのかを探ろうにも、それは人知のおよぶところではありません。すなわち、歴史家は出来事を、ある出来事のゆえに起こることとしてではなく、ある出来事の後で起こることとしてひたすら記述するのです。そのため、歴史には一本の筋など存在しません。それは数ある出来事の断片の集合にすぎないのです。
 それに対して、詩作は筋の通ったひとつの行為を再現する。つまり、たとえ同じ歴史的事件を対象とする場合でも、詩人はそこに「起こりうること」や「可能なことがら」を、すなわち誰もが納得する必然的な因果関係を見出し、それを一本の筋に構成する。そのため、同じ歴史的な出来事を取り上げるときも、歴史家はそこで起こった事件を網羅的に記述するのに対し、詩人はそこに筋を見出して物語として構成します。ひとくちに言いますと、歴史は偶然性(ノンフィクション)に属し、詩作は必然性(フィクション)に属しているのです。
 よって詩作における再現の技術(テクネー)とは、すべての出来事をカバーするのではなく、ある出来事と出来事を起こりうる仕方で結合させ、ひとつの統一された筋を作り上げることなのであります。詩人にとって歴史上の出来事などは詩作のための「資料」にすぎないのであり、その目的は劇や詩を完成させるために、それらを一本の筋に編み上げることにあるのです。


6.悲劇(筋)の必然性

 先にも述べたとおり、アリストテレスにとって、筋はありそうな仕方で、あるいは必然的な仕方で行為を再現したものでなければなりません。これは重要なポイントでありまして、アリストテレスはことある事に、悲劇の筋は「ありそうな仕方(エイコス)」で「必然的に(アナンカイオン)」組み立てられていなければならないと繰り替えしています。つまり筋は明確な論理的一貫性をもっていなければならず、またそこで再現される行為は観る者が理解・共感できないような荒唐無稽なものであってはならないのです。つまり、劇の鑑賞者が「いやその展開は無理あるっしょ」とか「あのキャラ出した意味がまったくわかんないんですけど」とか思ってしまうような劇は失敗作なのです。
 そのため、もうひとつ注意しなければならないのが、筋を適切な長さに収めることです。「美は大きさと秩序にある」とアリストテレスはいいます(第七章)。筋は短すぎても冗長にすぎてもいけません。観る者が全体をすっきりと見渡せるような長さがふわさしいのです。たとえば『ゲ○戦記』のように、長編小説を無理矢理2時間に収めようとすると超展開ばかりになって観客はついてきませんし、一方『ド○ゴンボール』のように長すぎると設定がこんがらがって煩雑になり、ストーリーが支離滅裂になってしまいます。そうなりますと、観客は劇の全体を適切に把握することができない、すなわち筋を見失って劇の効果を享受できないのです。よって悲劇とは「一定の大きさをそなえ完結した一つの全体としての行為の再現」(第七章)であるべきなのです。


7.性格の必然性

 少々蛇足ではありますが、登場人物の性格においてもアリストテレスが「ありそうな仕方(エイコス)」の原則を貫いていることを示しておきます。アリストテレスは性格を描写する際、以下の点に気をつけなければならないといいます。すなわち、

(1)性格はすぐれたものでなければならない。つまりすぐれた選択をする人物でなければならない。
(2)性格はその人物の属性にふさわしいものでなければならない。つまりその人物の性格が、観る者のイメージから著しく逸脱したものであってはならない。
(3)現実の人間と似たものにしなければならない。
(4)性格は首尾一貫としたものとして再現しなければならない。

 要は、観る者の共感や理解を得られないような人物を登場させてはならない、ということです。昨今のアニメのキャラクターはメガネっ娘にしろボクっ娘にしろツンデレにしろ、既存の属性のフォーマットの再生産が多いですが、ある意味劇の作りとしては正解なのかもしれません。


8.悲劇におけるよろこび、ならびにそれを引き起こす筋の構成

 「悲劇が人の心をもっともよく動かす要素は、筋を構成する部分としての逆転(ペリペテイア)と認知(アナグノーリシス)である」とアリストテレスはいいます。逆転とは「行為の方向がこれまでとは正反対の方向へ転じること、すなわち、ある行為がその意図した結果の実現をはばまれ、予期に反して、その正反対の結果を引き起こすこと」(第十一章訳注)です。相手のためを想って行った行為が、かえって相手を苦しめる結果となってしまった、などがこれです。
 次に、認知とは「無知から知への転換――その結果として、それまで幸福であるか不幸であるかがはっきりしていた人々が愛するか憎むかすることになるような転換」のことです(第十一章)。つまり「好きになった女の子が、なんと血の繋がっている実の妹だった」みたいな展開ですね。もっとも優れた認知は、出来事そのものの必然的な推移から、それが逆転とともに生じる場合とされます。つまり「実の妹とも知らずに告白したらOKもらって恋人同士に。やることやった後になって父親から『実はな、お前には妹がいるんだ』と告げられて会ってみたら、なんとあの恋人が血の繋がった妹だと発覚!さらに先の一発で妊娠してしまい……」みたいな展開のことでしょうか。
 逆転と似た概念に「変転(メタパシス)」があります。変転とはひとつの筋の流れのなかで幸福から不幸、あるいは不幸から幸福へ移り変わることです。要するに日常パートにおける自然な感情の変化ということでしょうか。変転は物語の単一的な流れに過ぎませんが、ここに逆転が起こりますと、このひとつの筋の流れが逆流し、筋が複合的になって悲劇に深みが増すのです(ただし、筋が複数ある劇は駄作とされます。つまりふたつの物語が同時並行で語られる劇はアリストテレス的にはダメなのです)。
 逆転も認知も変転も、筋の組み立てから逸脱することは許されません。いずれも筋そのものから必然的に生じるものでなければならないのです。この点、アリストテレスは徹底しています。
 

9.おそれとあわれみをもたらす悲劇の筋

 「悲劇とは、一定の大きさをそなえ完結した高貴な行為、の再現であり、快い効果をあたえる言葉を使用し、しかも作品の部分部分によってそれぞれの媒体を別々に用い、叙述によってではなく、行為する人物たちによっておこなわれ、あわれみとおそれを通じて、そのような感情の浄化(カタルシス)を達成するものである」とアリストテレスは定義しています(第六章)。おそれとあわれみを引き起こし、それによって観る者にカタルシスをもたらすこと。アリストテレスにとって悲劇の最終目的とはこれです。そのため「もっともすぐれた悲劇の組みたては……おそれとあわれみを引き起こす出来事の再現でなければならない」のです(第十三章)。
では、おそれやあわれみを引き起こす筋とはどのようにあるべきなのでしょうか。アリストテレスによれば、

(1)よい人が幸福から不幸に転じることが示されてはならない。
(2)悪人が不幸から幸福になることが示されてはならない。
(3)しかしながら、まったくの悪人が幸福から不幸に転じることを示してはならない。
(4)よって、これらの中間にある人がなんらかの「あやまち」(ハマルティアー)によって、大きな名声や幸福を享受しているにもかかわらず不幸に陥ることを示さなければならない。

 つまり、観る者におそれとあわれみを喚起させるのは、不幸に陥るのにふさわしくない者(アナクシオス)が大きなあやまちを侵したことで幸福から不幸に転じていくような筋なのです。
 ここでいう「あやまち」とは、その人物の卑劣さや邪悪さによって起こされた倫理的に重大な罪ではなく、数ある選択肢のなかからかれが選んだ知的判断や決断のことをいいます。つまり善悪の問題ではなく、その人物がある運命的な分岐にさしかかった際に選んだひとつの決断が、後に悲劇のきっかけとなってしまった場合、そのときの決断を「あやまち」というのです。
かのオイディプスは、「故郷に近づけば両親を殺すことになる」との神託を受け、自身が故郷と信じるコリントスから旅立ちます。しかしかれの本当の生まれ故郷はテーバイだったのです。そして知らず知らずのうちにテーバイにたどり着き、あの父殺しを犯してしまう。これはオイディプス本人にはどうしようもなかったことですが、何はともあれ、かれは「あやまち」を侵してしまった。『オイディプス王』はギリシア悲劇の傑作のひとつですが、このような筋の展開が観る者におそれとあわれみをもたらすのだ、とアリストテレスはいうのです。
 ところで、先にも述べましたとおり、アリストテレスは筋の組みたては必然的な、ありそうな仕方でなされていなければならないとし、悲劇の筋が「機械仕掛けの神」によって強引に解決することを極力排除するように言います。しかしよくよく考えてみますと、不幸に陥るのにふさわしくない者が不幸に転じる、というのは「必然的(アナンカイオン)」とはいえないような気もします。つまり、観る者に「おそれ」を引き起こすためには、神や運命といった不合理が介在する余地を残しているように思えるのです。ここは『詩学』の研究者の間でもいかに捉えるべきか論争になる部分のようです。私はアリストテレスの研究者ではありませんから何とも言えないのですけれど、アリストテレスは「可能なことがらとは、信じることができることがらである」(第九章)と言っておりますし、その上ならば「不合理なこともときには不合理でないことがある、と答えることもできる。なぜなら、起こりそうもないのに起こるということも、起こりそうなことであるから」(第二十五章)という少々言い訳めいた発言も、要するに「観る者が筋の展開に納得できればそれでよい」とアリストテレスは考えていた、こう解釈できるんじゃないかと思います。
 
 
10.カタルシスについての考察

 これまでアリストテレスのいう悲劇の要件について語ってまいりました。悲劇とは行為や人生の再現であり、劇中の出来事は必然的でありそうな仕方によって組み立てられた、ひとつの統一された筋を成していなければならない。それというのも、これらの条件が整ってはじめて、人は悲劇からおそれとあわれみの感情を受け取り、そして感情の浄化(カタルシス)を得られるから。しかしながら、悲劇を観て得られる「カタルシス」とはいったい何なのでしょうか?また、アリストテレスはおそれとあわれみから悲劇固有の「よろこび」が得られるとも言います。私たちの一般的な感覚からいいますと、悲劇から「カタルシス」や「よろこび」を得る、というのは少々想像しにくいかと思います。この点も研究者の間では議論の的になっているようでございますが、ここでは私なりに、この「カタルシス」とは、「よろこび」とはどういったことを指しているのか、考察していきたいと思います。
 実はアリストテレスは悲劇の目的たるこのカタルシスについては他の著作でもほとんど説明していないようで、そのため後世にさまざまな推測がなされてきました。そこでまずは訳者の松本/岡さんの訳注から、どのような推測があったのかを簡単に確認していきましょう。

(a)瀉出説
 医療行為における有害物質の除去にもとづく解釈。おそれやあわれみの感情を高めることで、観客をこれらの感情から解放するためとみる。
(b)倫理的浄化説
 瀉出説とは異なり、おそれやあわれみの感情を除去するのではなく、倫理的に高める(浄める)ものとみる。つまり、感情が極端に傾くのを防ぎ、適度な状態に導くことが悲劇の目的となる。
 
 カタルシスは伝統的に大きくこのふたつの捉え方があるそうです。松本/岡さんは、過度の感情が瀉出された後には適度な感情の状態に至るのだから、双方の差異はほとんどなく、よって倫理的浄化が、すなわち感情の均整のとれた境地に至ること、これをカタルシスと解釈しておられます。

 しかし、倫理的浄化をもってカタルシスと見るのは、もちろん研究者でもない私がどうこう言える立場ではないのですけれど、なんといいますか、少しもったいないような気がいたします。カタルシスは医療行為における瀉出とともに、宗教的な浄めの意味でも使われたと言います。私としては、この後者の意味をより重く受け止めたい。つまり、アリストテレスは悲劇に、世界の真実の姿(エイドス)を表現する力を見出していたのでないかと、そう私には思われる。カタルシスとは、そのような世界にさらされた人間がおぼえる「驚き(タウマツエイン)」のことではないか。
 私には、アリストテレスが性格よりも筋を、すなわち個々の人間の主体的行為の要因よりも、それらの行為によって起こった出来事の統合に重点を置いていること、これが重要なように思われる。悲劇においては個々の人間そのものよりも、全体を貫く筋が重要だとアリストテレスは述べていました。それというのも、人間の行為は、たしかに人間なしにはなされませんが、いったん為された行為は、その行為をした当人から離れて出来事として結晶します。ある出来事とそれに関わった行為者との間には、実は深い溝が穿たれているのです。
 とある事件の責任を誰が取るのか、私たちの社会ではこの責任の帰属を巡る争いが度々起こります。しかしながら、ある出来事の原因を、あるひとりの人間の行為に帰せることなど果たして可能なのでしょうか?いかなる出来事であっても、それは数多の人間の行為や、人の手の及ばない自然的な諸力によって引き起こされた複合的なものです。それをたったひとりの人間の原因とするのは、いたずらに世界を矮小化することではないでしょうか。アリストテレスが筋を重視したのは、個々の人間の性質にすべての出来事の原因を帰着させることを良しとしなかったからだと思います。かれは世界の複雑さを人間がそのまま受容できる、などとは考えていなかったのではないでしょうか。
 人間の行為は、行為した本人の統制下から離れて、途方もない悲劇へとその者を導くことがある。このことへの「気付き」、すなわち世界の複雑さに直面しての人間の無力さこそが、悲劇を観る者に「おそれ」や「あわれみ」を引き起こすのではないでしょうか。悲劇は、これを「ありそうな仕方」でまざまざと見せつけます。つまり人間の認識の統合作用そのものが、人間によっては統合されえない世界の臨界地点を示すのです。悲劇を前にしてしまえば、人間はもはや世界を統べる実存的存在として立ってはいられません。人はどうしようもない世界の諸力――もちろん、そこには人間の諸行為によって出来た「流れ」も合流している――を前にして、まさにそれによって己が在ることを知るのです。
 悲劇の筋は「ありそうな仕方(エイコス)」で「必然的に(アナンカイオン)」組み立てられていなければならない、というのもこのことから理解できます。悲劇は出来事を織り合わせた「出来事」であり、観る者にも出来事として体感されなければならない。すなわち、悲劇はその効果によって、観る者に過去と未来とを一挙に開闢(かいびゃく)させ、怒濤のように現在の一点に流れ込んでくるような、そういう経験をもたらさなければならない。そのためには、劇の筋が荒唐無稽で観る者のイメージの一貫性や劇への共振を損なうようであってはならない。劇のはじめからおわりまでを一望した観客が、まさにその悲劇の時間の流れのなかに淀みなく身を置くことで、目の前の人物の、ひいては自分自身の過去や未来をも無意識にそこへ現象してしまう。筋とは、そしてそこで再現されなければならない出来事とは、そういうものでなければならないのです。
 あまりに巨大で、あまりに複雑な世界の流れのなかに浮かぶ小さな点、それが現在であり、人間は世界の主であるどころか、この現在という心許ない一点において、己の存在を確立する地盤もなく、ただただこの無限に広がる世界のなかで一本の葦のように儚くたたずんでいるだけです。それを覚った人間、つまり人間の力の及ばない世界への「おそれ」と、その世界のなかにぽつりとたたずむ非力な人間への「あわれみ」に開かれること、それこそがカタルシスなのではないでしょうか。


11.カタルシスと他者への愛

 このように「人間の限界」を語りますと、以下のような反論が予想されるかと思います。すなわち「あなたの言い分は人間に世界を変革する力を認めず、いたずらに人間の可能性を狭め、人々に支配への隷従を説くものだ」と。私は誓って、人間は世界を変えられないなどとは申し上げません。人間は世界を変えられます。いえ、変えてしまうのです。
 世界は人々の行為を呑み込んで不断に変貌していきます。世界に何ら影響をおよぼさない人間の行為などありません。しかしながら、その変化は行為者たる人間の性質、すなわち、当人の願望や意図などまったくおかまいなしなのです。世界の変化は人間なんぞに予期できるものではなく、人間の諸行為の複合体たる出来事は、常に人間を裏切るのです。アリストテレスのいう悲劇が示すのは、まさにこのような現実的な事態なのです。
 このような現実は人間を絶望に追いやり、無気力と怠惰の淵へと誘ってしまうだろう、と危惧される方もいらっしゃるでしょう。現に巷では、人間の進歩を鼓舞する言説に充ち満ちており、まるでこれらの勇壮なフレーズこそが人間を無気力から救い、そして人々と社会の繋がりを保たせているかのようです。けれど、私はカタルシスの経験は、けして人間の活力や共同精神の衰退につながるとは思っていません。むしろ、悲劇から得られるカタルシスは、人間と人間との関係に要請される、ある倫理的感覚を呼び起こすものなのです。
 「人間は世界を自分の望むように変えられる」という前提に立ってみましょう。そうしますと、ある人間の現状は、すべてその人間の主体的意思の結果ということになります。つまり、金持ちであろうが貧乏であろうが、驕奢な生活を送っていようが今にも死にそうであろうが、すべてはその人の能力の結果なのであり、何があろうとその人の責任、というわけです。このような極端な利己主義に立ちますと、他者を救済しようという動機は、あくまで他者の救済が自分の利益になる範囲に限られてしまいます。親切は人のためならず、というわけです。ここでは「そこに在る他者」への配慮はまったくありません。自分が今ここに、かれが今そこに在るのは当然の、疑いようもないことなのであって、それ以外の在り方など想像だにできないのです。なぜというに、今のこの世界の在り方は、すべて各人の意思によるものと見られるからです。
 このような人間中心主義的な見方では、自身の今と他者の今とを重ねる、つまり他者へ配慮することなど望めません。世界がくまなく人間の制御下にあるならば、どうして自分と他者とが同一の地平に立ちえましょうか。というのも、世界ははじめから個別断片的であって、彼我に共通するものなどありはしないのです。かれと我とは別個の人間、すなわち「個人」なのであって、個々人の責任はあくまでその個々人のものなのです。
 この人間たちの驕りに対し、悲劇は人間存在の逃れられぬ普遍的命題を突きつけます。それが「おそれ」と、それに続く「あわれみ」の感情です。悲劇はいかに優れた人間の行為であっても、ときにそれが当人の意思のおよばぬところで逆転し、当初の意図とは真逆の結果を招いてしまうことを表現します。それは人間の主体的意思のむなしさを、そして世界に対峙する人間のやむなき限界を教示するのです。人間存在をこのように理解するならば、わたしたちは己と他者とが在る今を、奇跡的な、そして瞬間的な出来事として受け取ることができるでしょう。そしてわたしたちが今在ることは、それぞれの人間の意思の結果というよりも、それらを超越した「何ものか」――近代人が捨ててしまった「神」なるものの概念――によるものと見ざるをえないのです。
 そうなりますと、今目の前にいる誰かの苦しみの「不当性」が浮き彫りになっていきます。人間中心主義であれば、かれの苦しみは因果応報なのであって、かれの苦しみはあくまでかれのもの。基本的に他者が介入すべき問題ではありません。ですが、カタルシスに至った人ならば、かれのその苦しみはかれ自身の力ではどうしようもなく、またどうしようもなかった、何か「おそろしい力」のひとつの帰結であること、そして自分もまた、そのような「おそろしい力」にさらされていることを知っています。人間存在に普遍的な無力さと儚さの共感、そこからあふれ出す「あわれみ」の情。そこに至ってはじめて、人は他者の苦しみを己の苦しみとして受け取る姿勢に開かれることができます。かれの苦しみは己が享受するかもしれなかった苦しみであり、己の苦しみは他者も味わうことになるかもしれない苦しみなのです。
 ここからカタルシスは「愛」の感覚へと繋がっていきます。かれと我とがまったく共通項のない異種の存在であるならば、他者への配慮は無駄なものになるでしょう。たしかに、人間と人間とが心の奥底まですっかりわかり合うことなどないでしょうし、全世界の人間が合意するひとつの正義を打ち立てるなど夢物語だと私は思います。人間は基本的に孤独な生き物です。しかし、カタルシスはこの孤独な者たちが根底で、すなわちその存在の在り方――人為によっては左右しえない、不安定で一回的な自己――において共通していることを示すのです。人間存在の普遍性への開かれ。お互いがそこにそうして在り、またそう在らなかったかもしれない、その瞬間的な遭遇を尊重するとともに、己と他者の同一性(アイデンティティ)を常に更新していき、そして互いに許容していく。この寛容の精神こそが悲劇のカタルシスが導く愛の姿勢なのであり、この愛が、己が他者とともに今あることの「よろこび」をもたらすのです。
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5 Comments

月子  

No title

素晴らしいです。読みの深さに感極まり、最後号泣してしまいました。目指している解釈を、何歩も先の目線で上手に説明くださりました。川端康成の「神います」をはじめて呼んだときの感動を思い出します。 このように知見を公開くださりありがたく思います。これからも楽しみにしています。赤の色、のとブッダに関するのにも、腑に落ちました。ありがとうございます。普通コメントかかないのですが、あまりの感動に、思わず書き込んでしまいました。

2014/09/03 (Wed) 08:29 | REPLY |   

renqing  

TBさせて頂きました

既にコメントがされてますように、見事な論説だと思います。

ただ、アリストテレスが(隠れた)「神」を想定しているかのように読めた部分がありましたが、管見ではアリストテレス大先生の無神論は徹底しているかに考えております。これに関しましては、TBさせて頂いた弊記事の(2)の、≪理論分析篇≫にて数日中に書かせて頂く予定です。恐縮ですが、その際もTBさせて頂きたく思います。

2015/05/06 (Wed) 00:52 | REPLY |   

syaosu  

駄文、お目汚し失礼いたしました。

昔に書いた文章なので、改めて読み返してみますと、所々拙さが滲み出ていて、なんとも恥ずかしい限りです。

さて、アリストテレスと「神」の関係についてですが、あえて議論を醸すためにも、私は「想定しているのでは」とご返事したいと思います。

直接の根拠としましては、アリストテレスの代表的著作、『形而上学』において、かれは「或る永遠的で不動なそして感覚的事物から離れて独立な実体が存在するということは、明白である」と語っており、この万物の究極原因(或いは最高の善・美)をば「神」と呼んでいるからです。

なお、ギリシャ哲学を継承した後代のイスラーム世界で大問題となる「永遠的で究極的な存在がいるならば、人間の自由意思が残る余地はあるのか」という問題に対し、アリストテレスがどう応えているのかは、恥ずかしながらわかりません。もしかすると、古代ギリシャでは何ら問題にならなかったのかもしれず、それはそれで興味深いテーマでもあります(詩劇のキャラクターの扱い・見方にも関わってきましょうし)。

2015/05/13 (Wed) 21:36 | REPLY |   

renqing  

「劇の外」

ブログ主様

「『形而上学』においてかれは・・・万物の究極原因(或いは最高の善・美)をば「神」と呼んでいる」

 とのご指摘は当然あると思います。訳者の一人、岡道男氏も同じ指摘をされています。
 しかし、これは、アリストテレス『詩学』という作品にとって、「劇の外」のことではありますまいか。『詩学』という“悲劇”を論じるのに「劇の外」を持ち込むのはちと解せない。そのうえ、

「人間とは気紛れな生き物でありまして、昨日の発言を今日になったらコロっと覆す、なんてことはまったく日常茶飯事なのであります。」

つまり、アリストテレスほどの大天才学者であったとしても、人間的弱点は免れず、彼が『形而上学』で書いたことと、『詩学』で言い放ったことが異なっていても当然かと。そして、

「人間の行為は、たしかに人間なしにはなされませんが、いったん為された行為は、その行為をした当人から離れて出来事として結晶します。」

したがって、アリストテレスの脳漿から生み出された『詩学』は、他者の眼に触れた瞬間から、当人の手を離れ、彼の他の作品『形而上学』とは別の価値、読みを許す作品とならざるを得ない。私はその作品世界(の可能性)において論じたい、と考えます。アリストテレスを論じる“筋”と彼の『詩学』を論じる“筋”は別事である。これが私の暫定的応答です。

2015/05/14 (Thu) 12:16 | REPLY |   

renqing  

強力な援軍

ブログ主 様

貴論の強力なevidenceがありましたので、補遺を載せました。TBをご参照ください。

2015/05/18 (Mon) 01:00 | REPLY |   

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