死刑制度に関する私見――免疫的社会防衛への警鐘も兼ねて

 死刑制度の賛否についていまなお議論が絶えない。裁判員制度に移行してのち、死刑の宣告は市民の選択の問題となり、はたして自分は他人に死を与えることができるのかという穏やかではないテーマが突きつけられることとなった。

 日本国民の多くは、どうやら「自分が死を宣告するのは、被害者感情に考慮すれば死刑もやむなし」とか「凶悪犯は排除しなければ社会生活の安寧を保てない」という意見を妥当とするようで、死刑制度存続論が優勢といえる。死刑制度廃止論が「なんぴとたりとも、人の命を奪う権利などない」と声をあげたところで非現実的としてあまり受け容れられないし、ヨーロッパなどでは死刑制度を廃止しているじゃないか、と言ったところでウチはウチ、ヨソはヨソで片付けられてしまう。せいぜい「冤罪の可能性は捨てきれない」と指摘して死刑廃止の妥当性を維持するのが精一杯だ。

 ところで、被害者感情あるいは国民感情に配慮して死刑制度の存続を唱える人々は、日本の法は古代バビロニア的「復讐法」なのだと見ていることとなろう。つまり刑罰とは、他人に与えた苦しみと同等か、あるいはそれ以上の苦しみを与えるためにある、というわけだ。多くの人はこれに加えて、己の「罪」を反省させ更正させるという役割をも刑罰に期待している。
 
 さて、もしこのように「苦しみに対して苦しみを」もしくは「苦しみを通して反省を」与えるための刑罰という観点に立つならば、死刑制度は刑罰の役目を十分に果たしていない。なるほど、死もまた人間が味わいうる最大級の「苦しみ」ではある。しかし、死は一回切りな上、わたしたちは死刑に付された者が本当に苦しんだのかを知ることができない。下手をすれば、生きる希望をなくしてしまった者にとって死は救いにすらなるかもしれない。

 もし刑罰を感情的報復の代理執行とみなすなら、死刑では不足なのである。死刑を上回る「罰」を与えねば、復讐法の理念は叶えられない。よって、死に勝る苦しみを与え続ける罰を考案しなければならない。これを仮に「地獄刑」とでも呼ぼうか。地獄に堕ちた人間は死ぬことなど許されない(そもそも死んでいるからでもあるが)。生きたまま永遠に火に焼かれ、身を引き裂かれ、苦行を強要されるのである。それと同様に、簡単に死など与えず、その者の成した悪行に適うほどの拷問的な苦しみを科し続けるのだ。そうやってはじめて、感情的報復を目的とする刑罰の理念は叶えられよう。

 この「地獄刑」に対しては様々な批判が寄せられるだろう。とはいえ、その批判の内容はひとつに収束できるかと思われる。すなわち、そのような人権を無視した刑罰は認められない、と。しかし、これは奇妙な反論である。「地獄刑」が人権侵害だというのなら、死刑はそうではないというのだろうか。もちろん、受刑者の苦しみがなるべく緩和されるよう死刑の執行には様々な工夫が凝らされていることを私も知らないわけではない。しかし、どんなに慈悲深い措置がされていようと、それは結局「人間に死を与える」という、生命の尊厳の否定に行き着くのである。どれほど死刑囚に配慮しようと、この最終結果が変わらない限り、生命を絶つという行為への弁明はむなしいものとなる。要は人権侵害など程度の問題なのだから、「地獄刑」があってもいいではないか。

 「地獄刑」制定の請求は、しかし法律に対する無茶降りもいいところである。なんとなれば、いみじくも法治国家たる日本の法律とそれに則った刑罰に、復讐法的意味合いは含まれていないからだ。自由主義的な近代国家の法律は、そうではなく、国民の「自由な活動」を維持するためにあるという機能的側面から制定されていると考えるべきだろう。つまり、他の主体の自由な活動を、身体を傷つけたり、公正性を欠く要求を押しつけたりして損ねた者は、その主体的な自由の行使を一定期間制限される、という事実を示すことが重要なのだ。つまり、互いが互いの自由を侵害しないだろうという想定を「もし侵害すれば侵害した側の自由が失われる」という事実によって補強し、各人がより自由に活動できるような状況を演出するのが、法律の機能なのである。

 ゆえに、感情的報復を求める復讐法的発想で死刑制度の是非を問うのは的はずれだと言いたい。「被害者感情に考慮して、死刑制度の存続を」と言うならば、むしろ主張すべきは「死刑より過酷な刑罰の制定を」であるべきだろう。しかしこれは近代国家の法律の目的に適っておらず、死刑制度の論点からは著しくはずれてしまう。感情的報復を近代の法律に求めるのは筋違いなのである(それでもあくまで感情的報復にこだわるのなら『デットマン・ワンダーランド』でも開園してみてはいかがだろうか)。

死刑制度は、基本的人権など人間の尊厳が定められているはずのこの近代社会の直中に存在している、という状況をふまえて論じるべきだと私は考える。人間の基本的な権利である自由を侵害した者にはその自由が奪われる、という、一見するとあまりに自明で当然の摂理。けれどここには、法律の不気味さ、そして私たちが死刑制度に人間の何を賭けられているのかを示唆する事実が含まれている。

 人間の自由や生命活動の保持を、生きとし生けるすべての人間に保証されるべき普遍的権利とする考えを、市民による革命を経て近代の民主主義思想は育んできた。基本的人権を尊重すべきという価値観を、いまや世界のほとんどの人間が支持し、民主主義的な原理は人々の行動の規準となっている。基本的人権はすべての人々に平等に保障されているべきだ、という立場からすれば、法律が執行する諸々の刑罰は、この神聖不可侵たるべき権利への「例外的侵犯」となろう。つまり法律の力とは、人間の基礎的な属性を剥奪することにあるのだ。

 基本的人権の保障は、実質上、それぞれの国家の憲法によってでしか保障されえない。しかし、憲法はあくまで、ある人間が国家の「国民」という範疇に在る限りで、その人権を守るよう国家に要請するのである。だから言い換えれば、法律は国民の「国民」という人格(ペルソナ)を奪い、一個の「ホモ」に変換するための装置だともいえよう。

「ホモ」となった者は、もはや「人間」というカテゴリーに容れられることはない。仮に、法律によって刑罰を処せられた者も「人間」だというならば、これは人間であれば誰もが有するはず普遍的権利たる自由権への紛う事なき侵害である。だから法律は、「人間」を「ホモ」に変えることで、人間の天賦の権利と決定的に対立する事態を回避しているのだ。法律が人間の普遍的権利と併存しえるのは、囚人が人間ではないからという論理が構築されているからなのである。

法律は絶えず、民主主義社会に生きる人間を守る「普遍法」にとっての「例外状態」を創り出す。法律とは、この「普遍法」をうち崩すための攻城槌(カタパルト)なのであり、ゆえに法律は、人間から人間の仮面(ペルソナ)をはぎ取るための「暴力」に依拠することとなる。ここで、ヴァルター・ベンヤミンに倣って「警察」を文明社会における「化けもの」と形容するのは間違いではあるまい。「例外者」の査定と捕縛を担うのは、他ならぬ警察なのだから。警察は外見上「普遍法」の守護者としてふるまうが、しかし「普遍法」は人間から人間の尊厳を奪う儀礼的方法を定めていないのである。結局、警察は国家の法律に従って「普遍法」を、たとえ一時的にせよ侵害しないことにはその職務を達成できない。だから警察は、民主主義社会における非民主主義的要素として存在しているのである。

早めに訂正しておくが、私はアナーキストではない。先述した通り、法律は自由の補強する機能を果たしているのであり、その限りで近代社会には不可欠なシステムなのだ。ここで問題となっているのは、「何を/どこまで賭けるのか」ということだ。人間の基本的な権利のうちどれだけを法律と刑罰に譲り渡すのか、人間の生存を守る城壁のどこまでを割譲するのか、それこそが問われているのだ。私たちは私たちの自由を保障する権利を守るために、その自由の一部を譲り渡さなければならない、というジレンマと葛藤を抱えている。この二律背反を止揚し、解消する術をいまの私たちはもっていない。そのため、この鍔迫り合いのような法律と普遍法の間の国境紛争に、(たとえ暫定的であっても)どのような妥協点を示しうるのか、それが死刑制度の是非において問われている真のテーマなのである。

われわれはわれわれの自由のために、自由をどれほど犠牲に捧げられるのか――そうなれば、死刑制度の争点はその予防法的効果の評価に絞られると考える者もいよう。自由権の永久停止が目的であれば、終身刑であっても構わないからだ。終身刑と死刑の差はその恫喝の衝撃性にある。だから、いきおいデモンストレーションとしての死刑の優秀さが議論の焦点となってくるだろう。しかし、死刑は人間社会のより本源的な――そしてだからこそ、非常に厄介な――ある欲望が先鋭化して表出した形態であり、他の刑罰とはその性格を大きく異にしているのである。だから、法律の予防的機能という点でのみ死刑を争点化するのは、より重大な、隠れた問題を見過ごすことになりかねない。

 ここで、死刑制度賛成派がとりわけ掲げる「社会にとって危険な人物を排除する」という死刑の「効能」を取り上げたい。連続殺人犯、テロリスト、更生する見込みのない犯罪者など、凶悪な存在をこの世から抹消すること。この「社会の防衛機能」を死刑は果たしており、ゆえに死刑は安全な社会の創造と維持に必要なのだ、というわけだ。

死刑においても、法律の非-国民化、非-人間化のメカニズムが働いている。「死刑」は、死刑囚の人間性を完全に剥奪し、ただの「ホモ」とした上で死を与える。その実行の場面で、執行者が死刑囚の苦しみを軽減させるよう配慮するのは、人間の尊厳を守るためではない。そんなものはとっくの昔に無効とされているのだ――そうでなければ、死刑執行人はただの「殺人者」になってしまう。むしろ、工場で牛や豚を屠るときの心情に似ていると言うべきだろう。つまり苦痛を感じさせることなく一瞬にして死に至らしめるのは、多分に「効率化」が理由なのだ。それはある生命の死に「意味」を与えることなく処分するための方法なのである。

 ここで死刑は新たな権能を付与されている。死刑は、自由権の永久停止の示威というだけでなく、社会の「免疫学的機能」をも果たしているのである。死刑は社会にとって有害な存在を、さながら白血球のように体外に排除するための一器官なのだ。死刑執行までの、おぞましいまでの無感情さは、この免疫機能の無機質的プロセスを忠実になぞっているかのようである。ここに至って死刑は、近代法の範疇を超えて、新たな法の形成へと向かっている。ベンヤミンは言う。

「死刑の意味は、違法を罰することではなく、新たな法を確定することなのだ。というのも、生死を左右する暴力を振るえば、ほかのどんな法を執行するよりも以上に、法そのものは強化されるのだから」(p.43)。

 死刑の「法措定的」な力が構築する新たな法とは、この免疫的メカニズムに他ならない。危険な存在や不要な存在を社会という身体の外へ排出する、種の健康と生存のための法。この「免疫-法」は社会という身体の存続と純化を指向するがゆえに、より機敏に、よりより熱狂的に、よりストイックに、異物の排除に邁進する。というのも、この排除=死を通してのみ、社会は生存の安全性を高めることができるからだ。

 「免役-法」は「生きるに値する生」と「死に値する生」とを選り分ける。しかし「生きるに値する生」の基準は死の輪郭でもってしか測りえない。生は自身のあるべき姿を自身のカテゴリーのなかで積極的に提示することが出来ないのだ。死をも「値する」と記したのは、まさしく死こそが、死を与えることこそが、生の内実を規定し、豊かにすると考えられるからだ。死すべき者の同定と死の実践によって、その骸で編んだ外縁でもって輝かしい生のあり方は示される。存在してはならない者の徹底的否定を通して、集団のアイデンティティの境界線が浮かび上がるのである。

 どうして終身刑ではなく死刑なのか、ここにも免疫学的な概念からのメタファーが潜んでいる。死刑の効能を主張する人々がもっとも恐れているのは「パンデミック」の発生なのである。つまり、危険なウイルスが他の善良な身体に感染すること、それが連鎖反応的に広がっていくこと、これが最大の脅威なのだ。かれらは凶悪な危険人物が息をしているだけでも我慢がならない。そのような者が存在してしまっているということそれ自体が、次の世代に悪しき先行例を示してしまうことになりかねない、とかれらは考えているからだ。だからこそ、感染が拡がる前にいちはやく「除染」しなければならないのである。

 わたしたちはこれに類似した発想を、前世紀最大の帝王の自伝から伺うことができる。

「不治の病人に、絶えず他の健康な人々に感染する可能性を許しているのは中途半端である。これは、一人に苦痛を与えないために、百の他人を破滅させるような人道主義と一致する。欠陥のある人間が、他の同じように欠陥のある子孫を生殖することを不可能にしてしまおうという欲求は、もっとも明せきな理性の要求であり、その要求が計画的に遂行されるならば、それこそ、人類のもっとも人間的な行為を意味する。その要求は幾百万の不幸な人々に不当な苦悩を免れさせるだろうし、そして結果として、一般的な健康増進をもたらすだろう。……不幸にもそれにかかったものに対する野蛮な措置も、しかし、同時代および後世の人々にとっては祝福である。百年の一時的な苦痛は数千年を苦悩から救いうるし、救うだろう」(「わが闘争 (上)」p.351)

 ナチズムは社会の徹底した免疫化と民族の純血化を図った。しかしそれは、前世紀のはじめから半ばにかけて偶然に発生した「異常現象」などではない。異物の死によって他の生の健康を保持しようする免疫学的社会防衛。その具現形たるアウシュビッツの廃墟は、わたしたちの立つ地面の下に暗渠として埋もれているのである。

 死刑こそ、ロベルト・エスポジオのいう「死政治(タナト・ポリティコ)」のもっとも明確に、そしてあまりに堂々と現前した姿なのだ。ここでの「死の欲動(タナトス)」は初期のフロイトが用いた意味に解すべきだろう。すなわち、人間をふくむ生命体は、外的刺激を感じることのない原初の状態に戻ろうとする欲動をもっている。というのも、外界からの刺激は、生命体にとっては基本的に苦痛でしかないからだ。ゆえに、生命体は無機質的・無感覚的存在への回帰を欲し、外界との関係の完全な遮断――言い換えれば自己の純化――すなわち死に向かう傾向を有しているのである(詳しくは「快感原則の彼岸」を参照いただきたい)。

 「免疫―法」は社会の純化を図ろうとする。それは己にとっての不純物を排出することで内側と外側を厳然と分割し、その相互浸透の一切を遮断することで達成される。「免疫―法」にとって外界の存在は脅威であり、健全なる生に対する挑戦なのである。しかしこれは、白血病的な拒絶反応へと発展する危険性がある。白血球の異常な増幅は自己以外の存在への過剰な排撃作用を生み、結果として生命体の衰退を招いてしまう。これこそ、免疫反応によるタナトス的帰趨に他ならない。生命体は外界の拒絶を指向するが、しかし同時に外界からエネルギーを摂取しなければその活動を維持しえないのだ。「死政治(タナト・ポリティコ)」という概念は、「免疫―法」のこうした自己防衛のための純化指向が裏返り、次第に免疫的反応が己自身へと向けられるようになって、最終的に生命活動の停止へと繋がっていくプロセスを暗示しているのである。

私が危惧するのは、死刑のこうした「免疫―法」的理解が社会に「死」をもたらすことにならないだろうか、ということだ。死刑に表象される免疫学的社会防衛の機運が拒絶反応の連鎖を生み、社会の衰退につながってしまうのを私はおそれる。「価値のない者」、「危険な者」の排除や「死すべき者」の同定が社会の課題となったとき、ナチズムが未来の栄光とともに語った人種主義(レイシズム)の現代への召還がはじまるかもしれない。

以上の理由から、私は「社会にとって危険な人物を排除する」ための制度として死刑を評価する傾向に危機感を覚えるし、社会の免疫化を死刑の正当化に用いる言説には断固として批判の声を向けたい。フロイトは外界との経路を開こうとする生命のエネルギーを「エロス」と呼んだ。外界の拒絶に向かうタナトスと、外界との接触に向かうエロスの力学的緊張関係こそ、生命体の歴史なのである。社会を生命体のメタファーで捉える、100年以上も前の社会モデルの援用が許されるなら、わたしはタナトスよりむしろエロスの力に人類社会の将来を賭けたいと思うのだ。
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2012/07/15 (Sun) 16:21 | REPLY |   

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