東京教育事情――教育格差の是正も一考

 小学校6年生の男の子が、机に向かって「ううん」と唸っている。机の上には、とある私立の中高一貫校の入試問題。ときは1月中旬。かれは2月に行われる中学入試の追い込みにかかっているのだ。その向かいには塾の講師が、男の子よりも渋い顔つきで座っている。男の子の成績が芳しくない――だけではない。その私立校の過去問は、とうに義務教育を終えているはずのその講師にも、ひどく難解なものだったからだ。無論プロとして、つまり受講料をもらって仕事をしている者として、その問題を教えるための予習も授業のシミュレーションも万全にしてあるが、しかしもし備えなしに授業に臨んだならば、教えられたかどうかは怪しい、いや、おそらく無理だっただろう。大人でも難しい問題を小6の子どもに教えるのだから、並大抵の苦労ではない。もちろん、最も大変なのは受験を戦わなければならない当の生徒なのだが――。



 東京の塾に勤めていると、地方とは教育事情がだいぶ異なるのがよくわかる。そのなかでも私にとって最も印象的なのが「中学受験戦争」の存在だ。

 おそらく多くの地方出身者にとって「中学受験」はあまり聞き慣れない言葉なのではなかろうか。義務教育は学区内の県立か市立の、いわゆる公立校に通うのがふつうであり、また中学校に進学する際に入試などしない、あるいは、入試を課す中学校はあるにはあるが、それはよほど勉強のできる「エリート」だけがするのであって、あくまで例外である――と、このように認識しているのではなかろうか。

 しかし、東京では違う。東京においては「私立中学を受験するのがふつう」なのであり、「公立中学に進学すれば負け」なのである。ここで、地方出身者はちょっと首をかしげるかもしれないので補足しておくが、東京では私立と公立の評価が地方とは逆である。地方における私立は公立のすべり止め程度にしか思われていない。無論、私立であってもその学校にしかないカリキュラムがある場合などは積極的に選択されるが、普通科の学校であればまず公立の方が格上であり、私立はそこで落第した者の流れていく場所と見られている。

 東京の私立もピンからキリまであるものの、しかし基本的には私立の方が格上だと見なされている。親御さんの間で「私立に行かねば大学に行けない」と囁かれるほどである。小学校から高校まで公立だった私も一応大学には行けたのだから、少々大げさだな、とは思うものの、おそらくその裏には「大学の名に値する大学」という含意があるのだろう。つまり早稲田・慶応、あるいは旧帝大レベルの大学に行くには私立でなければ、という思いがあるのだ。

 東京に暮らす家庭は、ゆえに子どもが小学校5年生になるとだいたい塾に通わせる。目指すは「私立の中高一貫校」である。中高一貫校という学校の存在も、入試という名のつくものに高校進学ではじめて挑むような地方の人間のなかには、きっと知らないという人もいることだろう(私も東京に来てはじめて知った)。その名の通り、中学から高校までエスカレーター式に進学できる学校である。一度入ってしまえば高校入試を受ける必要はなくなり、また、高校卒業までの6年間でカリキュラムが一貫しているため、中学から高校に上がる際の学習難度のギャップが少なくなる、等々の利点がある。

 なにより大きな特徴は、学習進度の早さとその内容であろう。たとえば、公立中学校1学年の英語がようやく過去形を終えた頃に、片や私立中高一貫校1学年の英語は不定詞や比較を教えている。その教科書の中身も、公立中学校のものは会話文やイラスト中心の、生徒に何とかして興味を持ってもらうようにとの、涙ぐましい工夫の跡が見えるポップな内容だが、私立中高一貫校はイラストなどを極力廃し、情報を圧縮すべく文字も小さいので、小学校を卒業したばかりの子ども向けにしては硬い、高校の参考書を思わせる作りになっている。

 この違いは、まず私立中高一貫校の場合、国や教育委員会が定めているカリキュラムを厳密に守る必要がないことに起因しよう。ここでは中学の段階でも高校で習うはずの内容を授業しても問題にならない。私立中高一貫校の多くは中学2年生の終わりまでに中学で習う内容をすべて授業で完了させているようだ。そして中学の3学年(という括りは中高一貫校では存在しないが)の1年間は、高校1年生の内容の先取りをするのである。すると高校3学年がまるまる空くので、そこを大学受験対策に費やすことができる。

 また、私立中高一貫校は己の求められている役割を十分に承知している。つまり、このタイプの学校に通う生徒(あるいは通わせている家庭)は大学受験を、しかもAランク以上と評されている大学を狙っているのだと、わかっている。だから授業の内容は、来るべき大学受験戦争に備えるべく、容赦なく難しい。公立キャリアの人間からすると「授業に追いつけない生徒が出てくるじゃないか」と非難したくなるし、実際追いつけない生徒はいくらもいるのだが、難関狙いが暗黙の大前提であるから、追いつけないのは学校のせいではなく、生徒の能力や努力の不足に帰すことができるし、それが正当とされている。

 いずれにせよ、私立中高一貫校が大学受験(難関レベルの)において公立よりも有利である、と判断されるのは無理からぬことと言えよう。公立はあくまでカリキュラム通りにしか授業しないし、内容も――これもカリキュラム通りではあるのだが、私立に比べると薄っぺらく見える。また教師の質についても、公立より競争が働く私立の方が優秀という評も多い。というより、公立の教師は何かと評判がよろしくない。東京の夫婦は公立校の教師よりも学歴が高いことがままあるため、社会的地位において下位と見られがちだ。そのため、親からのプレッシャーが凄まじく、また公立は教育委員会の強い制約下にあることも相まって「事なかれ主義」が蔓延している、と思われている。その点、私立は教育基本法や区の教育指導方針に準拠しているとはいえ、学校独自の教育理念を確立しているため、公立よりかのびのびとした教育環境にある、と思われている。このように、教育環境においても、またその後のキャリア形成においても、公立よりも私立の方が評価されているのである。私立のレベルが教育のスタンダードよりもはるかに上で、もしかすると「やりすぎ」なのかもしれなくとも、私立と公立とで教育の質に天と地ほどの差があるのだとすれば、親としては私立校、それも中高一貫校に我が子を何としても入学させたい、と考えて当然だろう。

 そういうわけで、地方では馴染みの薄い「中学受験」が東京では白熱するのである。我が子が将来、裕福で幸せな人生を歩めるかどうかは、ひとえに私立中学に入学できるかどうかにかかっている、とほとんどの親御さんは考えている。入学先が私立か公立か、それがその後の人生を決める大きな分岐点になっているのだ。この分岐点の、より上等な方に行くチャンスを手にするための大前提が「塾に通うこと」なのである。

 ところで、私は塾と名の付く場所に通ったことが一度もない。家庭教師がいたわけでもない。すべて自学自勉であった。それでも、高校はいちおう県下一と言われる進学校に進み、地方国立大学をパスしたから、「塾なんぞ行かずとも大学には行ける、俺がその証拠だ」と思っていた。それどころか――塾に勤めておきながらこう言うのも何だが、塾なんて不要だとすら、思っていた。だが東京で、中学受験に挑む生徒を受けもってから、この考えは100数十度変わった。

 公立キャリアの人間にとって、入試を含めたテストと名の付くものは「授業で習った内容」の確認に過ぎない。もし教科書に載っていない内容を訊く問題があれば、それは明確な「ルール違反」であり、テストとして失格であった。しかし、この原則は私立中学受験にはまったく通用しない。その入試問題は一見して明らかに、また生徒本人に訊いても、小学校の授業ではけして扱わない、それどころか、中学や高校に上がっても習うか習わないかといった問題がほとんどなのである。

 「塾に通うこと」が中学入試の大前提である、と私が言ったのはこのためだ。小学校では習わないのだから、その他の教育機関で習わなければ挑んだところで負けは確実である。中学入試用のテキストは豊富に存在するので、自学自勉もできなくはないものの、とてもではないが、小学生が自力で習得するのは酷な難易度である。親御さんでも教えるのは難しかろうし、何より子どもに勉強を教える時間などない、という方が圧倒的多数なので、やはり受講料を払ってでもプロの講師の教えを請うというのが妥当な、というよりほぼ唯一の選択肢となる。

 「問題」はここだ。

 高ランクの大学に入学するためには私立の、特に中高一貫校に通った方が断然有利、そのためにはまず中学入試に合格しなければならない、しかし中学入試の内容は小学校では習わないようなものばかりなので、塾に通わせなければならない、すると、そもそも受講料を支払う余裕のない家庭はこの「私立キャリア」のスタートラインにすら立てない、ということになる。

 経済力の格差が教育の格差につながっている、と近頃の教育学者はしばしば警鐘を鳴らす。公立キャリアの、しかも塾などに通っていなかった私にはあまりピンと来なかったのだが、しかし中学入試が塾通い前提だとわかった今となっては、なるほどと頷かざるをえない。中学入試に挑むためには週に複数回の塾通いが必要条件になる、と考えるならば、授業の形態が個人指導か講義形式かにも寄るし、塾を掛け持ちしているかどうか(これが意外に多い)も見なければならないが、どれだけ少なく見積もっても月10万円ほどの出費は覚悟せねばならない。サラリーマンの平均年収は400万円ちょっとだから、そのおよそ3から4分の1が塾の受講料に消える計算となる。それにそもそも、私立は公立に比べて授業料が高いのだ。もしかすると、年収すべてを教育費につぎ込んでも足らないかもしれない。平均を相当程度上回る経済力がなければ、私立校に子どもを通わせるなど夢のまた夢なのである。

 そのため、シングルマザーなど生活費を捻出することも難しい家庭は中学入試を早々に諦めてしまう。ちなみに、そういう家庭も塾に子どもを通わせているが、だいたいは「託児所代わり」にしている程度、あるいは公立レベルの授業の補助が目的で、中学入試に備えているわけではない。また、子沢山の家庭ではすべての子どもに中学入試を受けさせるようなことはしない。それでは家計が破産するので、なかでもよく勉強が出来る子だけに入試を受けさせるか、あるいは全員公立に通わせるなどして対処している。

 「私立に行かねば大学に行けない」という認識が拡がっている東京においては、もはや「塾に通わなくば人ではない」のかもしれない。無論、これはかなり誇張した言い方ではあるものの、だがあながち間違いでもないと思う。「子どもに愛情を注ぎ、その将来を憂うならば私立校に入学させなければいけない」という「親としての責任感」が多くの家庭で見られる(実際に子どもに愛情を注いでいるか否かは、それほど問題ではない。これは世間体の問題であり、また親としてのアイデンティティの問題でもある)。子どもが中学入試に挑んで不合格だった、ならまだしも、その前提である塾にも通わせてあげられない、というのは人の親として恥である、という認識が芽吹いていてもおかしくない。あくまで私の推測なので、正確なところはだれかのアンケート調査を待つよりないのだが、おそらく塾通いにかかる養育費の増大が出生率に多少なりとも関係しているのは確かだろう。「塾通いは子育てにおける特殊事例」と見れば養育費はもっと低く見積もってもいいのだが、「塾通いは子育ての大前提」とするものだから、子どもひとり当たりの費用が「余計に」多くかかる計算になり、それを「水準」として考えれば、収入の少ない夫婦は我が子の不幸を思い、子作りを控えてしまう――。

 現在の東京の教育界は、この「経済格差=教育格差」という「教育の平等」に関わる大きな問題を抱えている。これは、東京の教育界が「私立系」と「公立系」に分裂してしまい、かつ前者の方が力関係の上位に立っていることに原因が求められよう。

 私は「私立」や「公立」の区別があること自体が「教育の不平等」につながっている、と批判するのではない。「教育の不平等」の原因は私立系がスタンダードになりつつある、という点にある。地方では、私立は公立の「従属下」にあった。私立系は公立系のカリキュラムからはみ出すことはなく、教育水準を牽引するのはあくまで公立系だった。だが、東京ではこれが逆になる。教育水準をリードするのは私立系であり、公立系のカリキュラム遵守は律儀というより「愚鈍」なものとなる。私立系は公立系におかまいなしに独自のカリキュラムを進めるが、人々は公立系よりむしろ私立系の方の教育方針を評価し、正当であるとしている。だが、私立中学ないし中高一貫校に入学させるためには小学校のカリキュラム以上の内容を学ぶ必要があるので、子どもは塾通いをすることとなる。この塾通いが不可能な家庭に私立への、すなわち高度な教育を受け、高い社会的評価を受けるキャリアを積む道ははじめから閉ざされている。

 地方においては、経済格差が教育格差にダイレクトに響くことはあまりない。公立系のテストは「教科書に載っているもの」であり、塾に通うことが必要条件になることはないからだ。しかし東京では、中学入試の問題が「教科書に載っていないもの」がほとんどなため、塾は学校教育の補助ではなく、教育の中核すら担うことになる。ゆえに、経済力の有無がそのまま教育格差につながっていくのである。

 ところで、「教育格差は是正しなければならない」というのは多くの人が共通してもっている社会正義の公準であろう。でなければ、経済格差と教育格差の関係など問題にすらなるまい。すると、「教育格差」の対義語たる「教育平等」の内容がひとつ議論の的となろう。ときに、私立校の入試のレベルが難しすぎて塾に通わなければほとんど合格不可能である、という状況に対し、その私立校に入試問題のレベルを下げるように要請するのは、果たして正当だろうか? たしかに、教科書準拠の「公立系入試問題」になれば、塾通いが必要条件ではなくなり、「結果的に」経済格差はそれほど大きな問題とならないだろう。子どもの教育キャリアの差は、経済力よりも子ども本人の資質の問題になるだろう。しかし、現に多くの親御さんや子どもがその難関私立校を目指している、つまり需要があるにもかかわらず、それを「標準に引き下げろ」というのは、あまり好ましいととはいえない、と私は思う。

 重視すべきは「結果の平等」よりも「機会の平等」であろう。

 私が東京の教育界を「問題あり」とするのも、この「機会の平等」が守られていないからに他ならない。塾に通う経済力のある家庭に生まれた子どもと、そうでない子どもとの間に明らかな「機会」の差が生じてしまっていること、これが問題なのである。

 では「機会の平等」を取り戻すためにどうするか。私は小学校において習熟度別教育を徹底すれば良いと考える。

 現在の学級別教育ならびに「半端な」習熟度別教育だと、「結果の平等」も「機会の平等」も果たせない。地方であれば「機会の平等」はそれなりに、少なくとも自己弁護可能な程度には果たせたかもしれないが、私立が台頭している東京ではそれすら怪しい。習熟度別教育の徹底はこの東京において「機会の平等」を達成するための最低条件なのだ。すなわち、成績優秀な生徒には中学入試レベルの授業を、それに付いていけない生徒は公立カリキュラム並の授業を、それでも無理な生徒はもっと簡単な授業を、と振り分ける、それが「機会の平等」につながっていくと私は信じる。

 中学入試の難度も出問傾向は、当然学校によって異なるが、しかし教材販売を手がける業者や進学塾はその内容のレベルを十分に分析しており、そこにはひとつの「民間教育学」ができあがっていると言っても過言ではない。その「民間教育学」の成果を小学校も取り込み、成績優秀な生徒に対しては、たとえ教科書にない、つまりカリキュラム外の内容であっても、中学入試レベルの内容を授業で教えるのだ。民間の参考書はそれを十分にこなせるほど充実している。だから、「国定教科書」の内容はひとつのスタンダードとして残し、成績優秀な生徒の授業では「民定教科書」を使えば事足りよう。

※言うまでもないが、日本の教科書は一から十まで国が作っているのではなく、民間で作った教科書を文科省が認可する形で作成されている。

 中学入試レベルを十分にこなす生徒でも、家庭が経済的に貧しい場合は私立中学入試を断念しなければならないこともあろう。そのような成績優秀だけど経済力がネックになる生徒には奨学金を与え、公立程度の授業料で私立校に通えるようにすればよい。このような選抜と救済措置は、実は学級別教育では不可能だ。なぜなら、中学入試レベルの問題は小学校のカリキュラム外にあるため、小学校での成績が良いからといって、中学入試レベルの問題が解けるとは限らないからだ。現に、よほど成績優秀か、あるいはスポーツ等の特殊技能が優れているなどの条件がなければ、中学入試に推薦枠は存在しない。ゆえに、優秀な生徒を選抜し、また家庭の経済事情を十分に酌量するためには、小学校で中学入試レベルの授業を行い、それが理解できているかどうかを審査できなければならない。

 東京で「機会の平等」を実現するためには、「学校で」中学入試に必要な知識を習得できるようにしなければならない。現状はそれができていないから、塾通いが中学入試の、ひいてはより良い人生を送るための大前提となってしまっているのだ。すると、経済力のない家庭に偶々生まれついてしまった子どもは、いくら潜在能力に優れていても、中学入試のスタートラインにすら立てないことになってしまう。これは不当である。「私立が無駄にハードルをあげているのが悪い」という意見もあろうが、需要すなわち「大義」は私立にある。とはいえ、中学入試レベルはすべての子どもが理解できるほど易しくはないから、国定をスタンダードとしつつ、それ以上の内容を理解できそうな子どもに限り、学校で民定レベルの、すなわち中学入試レベルの授業を行う。これが「教育格差」を是正するための最低限の措置だ。

 東京は、公立すなわち国や自治体や教育委員会が教育のレベルを設定し、牽引できる地方とは事情が違う。東京の教育スタンダードは私立が、すなわち市場が決めるのだ。「教育の市場競争」という、人によっては許し難いような実態が存在している。私立校はこの競争を生き抜くために、教育市場の動向、すなわち各家庭の要望を分析し、受け容れ、自己変革していった。その結果、小学校のカリキュラム外の内容を中学入試で課すに至った。おそらく「ゆとり批判」の風潮も相まって、この方針は非難よりもむしろ称賛と需要を生むこととなった。もはやこの流れは変え難い。ならば学校、特に公立校もこの「教育市場」の需要を受け容れて、それに対応できるサービス供給体制を整えるべきであろう。その一策が習熟度別教育と民定教科書導入である。それができない限り、教育にかかる需要は市場によってのみ満たされることとなり、そこへのアクセス権をもたない経済弱者が取り残されてしまい、経済格差=教育格差はいつまでも解消されないだろう。

※ところで、習熟度別教育にはかなりの批判が集まっている。たとえば、生徒の間に「差別」を持ち込むとは何事か、という意見があるが、東京においては中学入試の時点で(最近では小学校入学の段階ですでに)そのような「差別」はできあがっており、子どもたちは遅くとも中学に上がった段階で自分の「身分」をわきまえるようになる。それに、高校・大学・就職と人生のステージを進むにつれて、遅かれ早かれそのような「階層分化」は経験することになるのだ。今さら成績別にクラス分けしたところで、子どもたちの心情に大きな傷を穿つことはあるまい。仮に何かしらの傷を与えることになろうとも、東京で「機会の平等」を実現するためにはやむをえない、と私は考える。無論、これはどちらをより重視するかの問題であり、白黒はっきりつけられるものではない。

 また、習熟度別教育によってある種の「エリート意識」が生じるのを問題視する向きもあるが、私は別に構わないと思っている。資本制社会においてエリートは自然と生まれてしまうものだ。ならば、そのエリート予備軍にエリートたる矜持を抱かせる方がよほど現実的だと思う。要はノブレス・オブリージュをしっかり植え付けること。自分は自らのためではなく、社会や弱者のために活動すべきであるという倫理を教育すること、こちらの方が「生まれてしまうが生まれてはいけない」と主張するよりよほど建設的だろう。
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