2012.3.11の品格

一般意志は、ある特定の個人的な対象だけに向けられた場合には、それが自然のうちにそなえていた正しさを失ってしまうのである。……個別意志が一般意志を代表できないように、一般意志も個別なものを対象とするときには、その性格を変えてしまって、人間についても事実についても、一般意志として判決を下すことはできなくなるのである。    (ルソー『社会契約論』より)



 2012年3月11日。

 3.11と呼ばれるようになった東日本大震災から1年を数える節目、世間は震災記念のイベントに湧いていた。テレビを点ければ震災関連の特番を組んでいない局を探す方が難しく(東京ではテレ東のみが唯一空気を読んでいなかったが)、いずれの番組も震災の悲劇を振り返り、そして日本国民が震災を、そしていまなお苦しむ被災者のことを忘れてはならない、と繰り返し繰り返し訴えていた。

 おそらく、どの番組の制作者も、不運に見舞われた人々への憐れみと、また素知らぬ顔で日常生活を送っている多くの国民への憤りを込めて、番組を作っていたのだろう。「いや、かれら/彼女らに真摯な気持ちなど微塵もない」などと断罪するつもりは私にはないし、誰にもその心裏を伺い知ることなどできないのだから、このような非難は不当であるとさえ言える。

 だが、制作者の想いはどうあれ、すべての番組に品位が欠けていたのは確かだと、私は思う。

 マスメディアは、まるで自分たちこそが国民の代弁者であるという顔をする。自分たちが取り上げるテーマこそが国民が興味を持って知りたいと願うものであり、自分たちの正義の呼びかけこそが国民すべてが従うべき格律なのだと確信する、というより、そのような過剰ともいえる自信がなければ番組など作れない。

 しかし、いくらマスメディアが真摯な気持ちで、真剣な問題意識で番組を作ったところで、それはかれらの個別意志・利益の範囲を超えない。視聴者はいつでもこう考えて視ることができる。

 「なんであれ、マスメディアの目的は多くの人に視てもらうことでしょう?」

 マスメディアはこれを否定できない。どんなテーマで番組を作っても、それはとどのつまりショーに過ぎないでしょう、と言われれば、反論できない。テレビは視聴率を高めるのが至上目的で、たとえある番組が世のため人のためになったところでそれは結果でしかなく、動機でも目的でもない。

 ゆえに、テレビに映る悲劇や、被災者の不幸語りはいずれも滑稽みを帯びてしまう。サーカスが熊の玉乗りやピエロの綱渡りを見せるのと、さして変わらない。人々の数奇な目を集めるためにかれらの不幸を利用していると思われても、仕方ない。

 マスメディアは「マス」とついてはいるものの、けして国民の総意を代表することはない。マスメディアは「マス」の上に成り立っているのではなく、マスを創るのである。ゆえにマスメディアがいう国民は、実は単純な「大衆」でしかない。そこには個別性も、多元性も、複雑性も存在しない。「大衆」はのっぺりとしたひとつの全体でしかなく、実体のない蜃気楼に似ている。

 マスメディアは「大衆」の代表である。「大衆」はマスメディアが創ったものだから、あえていえば、マスメディアはマスメディア自身の代表だ。だから誰の代表でもない。誰の代表でもないのに、まるで誰かの代表のようにふるまうのだから、胡散臭くないわけがない。

 マスメディアの「代表化」作用の悪弊をもっとも被ったのは視聴者ではなく、むしろテーマにされた被災者の方であろう。被災者たちの悲劇体験は、マスメディアに取り上げられたことで劇的に薄っぺらいものとされてしまった。そのひとの個別具体的な体験は無理矢理に一般化され、理論化される。つまり「被災者の体験」というカテゴリーにひとくくりにされる。

 そして二つの不誠実が始まる。まず、その人の、その人だけの悲劇体験は敷衍可能で他のケースにも適用可能な一個のデータ、ありふれた比較対象のひとつとなってしまう。それから、被災者同士の不幸比べがはじまる――2012年3月11日において、これはマスメディア各局間の、まるで代理戦争をしているかのような視聴率争いというかたちで、現実に表れた。

 唯一無比であったはずの悲劇体験が、その人が、その人だからこそ経験した一回限りのできごとが、他者の上にも被せられ、比べられる。何度でも回帰可能なものとして保存される。「被災地を忘れるな」というキャッチフレーズが、ここから発信される。メディアを介して、この回帰可能なものはひたすら増殖し、人々のなかに巣くっていく。そうして、たとえば西日本に住んでいてこの悲劇から遠く隔たっていた人々であっても、個別の不幸と半強制的に関係を持たされる。

 個別具体的な一回性を、経験の真の尊さを犠牲にしてまでマスメディアが成し遂げたのは「過剰な倫理の押しつけ」であった。個別具体的な不幸に対し、われわれがなしえることは、ほんの僅かでしかない。個別具体的である以上、それはどうしても、その本人が解決するよりない。われわれがなしえるのは、より限定された範囲――私が考えるに、食う・寝る・働くという自立環境を整える程度で、それ以上には踏み込めないし、踏みこむべきでもない。被災者への精神的な支援も、この自立環境を得るための補助程度にするべきだ。鬱は人間の自立を難しくするから「鬱病」となる。無論、被災体験を誰かに語りたいというならば、聞きたいという人はいくらでもいるのだから、存分に語っていただきたい。しかし、それは本人たちの能動的な意志があればこその話だ。

 マスメディアは個別具体的な悲劇を一般化する。普遍化する。どうにかしろと国民に訴える。どうにもできないもの、どうにもすべきではないものを、どうにかしろと言う。これが「過剰な倫理」だ。個別具体的なケースに「国民として」できることは、ない。個別具体的なケースに対応できるのは、個別具体的な人間だけだ。その個別具体的な人間であっても、個別具体的な悲劇を、その記憶から湧き上がる悲しみや苦しみを、どうこうできるわけではない。だのに、マスメディアは国民の道徳心をいたずらにかきたてるものだから、というのも、ある不幸を目の前にして等閑視できる人間はそう多くないから、人々はただ後ろめたさを抱えるしかない。それはとても健康的ではないのだけれど、マスメディアとしてはそれが次の高視聴率につながるのだから、かれらの個別利益としては悪くない話なのだ。

 個別具体的なものを一般化するのは無理であり、不誠実なのだ。間違いであり、不健康なのだ。個別具体的なものはそれ自体でしかなく、だからこそ尊い。個別具体的なものの集合から何かしらの共通性を見つけ、抽出しようとすれば、後に残るのは輝きを失った残骸のみだ。ゆえに、個別具体的なものに関わる人間は、それを一般化して、つまりそれをあたかも集合的な経験として、たとえば被災者なる人々を代表するものとして、あたかもそう総称される人々すべてに当てはまる経験であるかのように語るのは、厳に慎むべきであろう。

 そういう意味で、被災者なる人々は実在しない。被災地――なる場所も実在しないのだが――に暮らし、暮らしていた人々は、誰もが異なる「その人自身」たちなのであって、そのそれぞれがあの震災において何かしら特別の、固有の経験をしたのだ。だが、その経験は「被災者の」経験ではない。それは個別具体的な経験の、混じり合うことのない原子の群れのようなものだ。「被災者の経験」とは、この原子を砕き、ぐちゃぐちゃに掻き混ぜてはじめてできあがる、誰のものでもない「まがいもの」だ。

 とはいえ、2012年3月11日が来てしまった以上、私たちは何かしらせずにはいられなかったのだ。私たちの道徳心は、この節目に何かしらのリアクションをせずには落ち着かなかったのだ。マスメディアの震災特集ラッシュも、震災の深刻さを茶化す結果になったとはいえ、この道徳心から起こるリアクションの一種ではあった。

 国家式典や、諸々の追悼行事において、様々な人々が式辞を述べた。これらの式典も、そしてそこで発せられた言葉――それは復興への誓いであったり、苦境の訴えであったり、被災地へのエールであったり、様々だったが――もまた、人間の道徳心をその発端とするものではある。国家的悲劇と位置づけられた災害の、それに対する式典・式辞であるからには、それは国民すべての意志と想いを代表するものでなければならないが、しかしそのどれもが、やはり個別具体的な、つまりその人自身の特有の経験や想い、そして――穿った見方をしてしまえば、本人の損得勘定が絡んでいて、とても国民すべての道徳心に響くものでも、また代表するものでも、なかった。個別具体的な人間の想いと、そこから発せられる声は、いかに魂のこもったものであっても、いかにあれ一般性は持ちえないのだ。

 そのなかにあって唯一、国家国民の代表としての品位を保っていたのは、天皇ただひとりであったように思う。

 天皇の式辞は、ひどく月並みなものであった。議論や批判を受けそうな言葉を極力削り、可もなく不可もないので、中身がないと言えば、そうかもしれない。また、それを読み上げる声にも抑揚がなく、そこから何かしらの感情を読み取るのは難しい。およそ人の心に強く訴えかけるような式辞ではなかったが、しかし、それは大きな問題ではない。むしろ、天皇の式辞はああでなければならなかった、とさえ言える。

 重要なのは、天皇が「個別具体性から遠い」ということだ。つまり天皇は、殊この日本国に関わる事柄においてはもっとも一般性に近いのだ。それは、天皇が象徴的存在であり、人間であって人間ではないゆえの特性である。

 「人間であって人間ではない」というと「天皇は戦後に自分が人間であると宣言したではないか」と反論されるだろう。私はあの宣言を「天皇もホモサピエンスである」という意味で解している。つまり天皇は、天照命を祖とする系譜を持つ神の後胤などではなく、皆と同じく猿から進化したヒトなる生物のひとつに過ぎない、というわけだ。そうして天皇は神聖でも何でもない、合理化された存在となる。

 しかし、天皇は国民ではない。国民に許されているところの諸々の権利を行使できないのだから、国民とは言えまい。国民ではない人間、人間というだけの人間、それはつまり、だれよりも「自然状態」に近い「ホモサピエンス」ということだ。かくして天皇は「社会」の外に出る。国民という人間身分からはずれることで、はじめて天皇の象徴性は成立する。自然という混沌とのつながりが、社会からの離脱が、かえって天皇を「社会的に」一般化させるのである。天皇は社会に直接関わらない。そうしてその社会に生きている人々の個別具体性から超越することで、その社会における一般性を手にするのだ。

 天皇は自身の、そして自身と国民との関わりから個別具体性を除去することで、一般性に達する。天皇は国民ではなく、また国民とカテゴリーされている人々の個別具体性から隔たっているからこそ、あくまで個別具体性から、しかもそれをあるカテゴリーを代表するものとしてしか語り得ないマスメディアや他の国民の声とは異なり、その式辞は国民全員の声を、個々の経験を生きる人間たちの声を代表するものとしての資格と品位、すなわち一般性を獲得していたのである。

 同様の特性をもつ立場の例としてローマ法王を上げることができよう。だが、その象徴性は天皇でなければ、ローマ法王でなければ持ちえない、というわけではない。個別具体性の次元からの隔たり、これが一般性を獲得するための第一条件であり、これが果たされれば「何もが」象徴的存在たりえる。しかし、存在がすべからく個別具体的に考察されるこの時代において、天皇のように一般性を纏った存在は希有ではある。

 ともあれ、天皇とは異なり、「社会内存在」でしかありえない大多数の私たちは何事も個別具体性のレベルから始めなければならず、これを人間存在のひとつの限界として甘受しなければならないのかもしれない。しかし、これはそれほど悲嘆すべき事実でもないように思われる。私たちに課されたこの限界は、無力さの感覚をもたらしもするが、おそらく美はそこから生まれるのである。つまり限界があるからこそ、何物にも犯されない固有の領域が浮かび上がってくるのだ。私たちは個別性を固有のものとして尊重し、それを越えたいという願望をぐっと抑え、限界のただなかに留まらねばならないのだと、私は考える。
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2012/09/04 (Tue) 07:05 | REPLY |   

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