感情と理性――ぼくたちはわかりあえるのか

ぼくたちはわかりあえるのだろうか――。

人と人との諍いの、その哀しい結末に行き当たる度に、ぼくたちは考える。世界には憎しみや暴力であふれていて、けれどそれは、きっとお互いがわかりあえたなら、解決するはずなんだと、そんな淡い夢を、ぼくたちは抱く。

僕たちはわかりあえるのだろうか。たとえばぼくは、数学にほとんど興味がない。だから、数学が大好きだと言う人から、数学のすばらしさを熱弁されたところで、ああ、その人は数学が好きなんだな、とは「わかる」けれど、その人の数学に向けられた熱情すべてを、その人が感じているままにぼくも感じることは、できない。つまりその人の思いの丈は、どうあれ「わからない」と言うしかない。

たとえばいま、西の海をはさんで国と国、人と人とがいがみ合っていて、日本人は向こう岸の人々が「怒っている」ことは「わかっている」けれど、なんで怒っているのかは「わからない」。いや、原因はわかっているのだけれど、それでなんであんなに怒るのか、それほど怒るようなことなのか、怒ったからと言ってどうしてそんな行動をとるのか、そのあたりがどうしても「わからない」。たぶん、向こう岸の人たちも、日本人が自分たちの行動に対して非難したり、あるいはあたふたと当惑してしまう気持ちは「わからない」だろう。

ある人の【感情】を、その他の人たちが「わかる」ことは、ない。喜怒哀楽の様子は、外見からなんとなく判別できるけれど、その【感情】の強さであったり、その原因であったりは、まったく当人の独特のものだ。

たとえば、「きみ、きれいだね」の一言も、ある人は喜ぶかも知れないけど、ある人はひどく気分を損ねるかも知れない。喜怒哀楽のポイントはその人それぞれだから。それに、人の【感情】は身体の調子とも密接に関わっているから、ちょっとした頭痛でも不機嫌になりがちだ。お腹が減れば元気もなくなる。

【感情】はとてもとても不安定で、その人の性格や状況でころころと変わっていくものなのだ。だから、「わかる」ものではない。小説や映画の登場人物の気持ちに「感情移入」してしまうことはあるけれど、それは「共感」しただけで「わかった」わけではない。他人のケガの「痛さ」を知る方法は自分がかつて感じたことのある「痛さ」と比べるほかないように、自分の感覚や【感情】に置き換えて、こんなものかなと勝手に思っただけだ。他人の感覚や【感情】を、その人が感じたままにそっくり感じることは、できない。もちろん、人と人との関係を築き上げるのに、この「共感する力」は不可欠なのだけど、でも「そっくり感じる力」はなくてもいいし、たぶん、それを身につけるのは不可能だ。

つまり【感情】は人の各々の特殊的なもので、普遍化できるようなものでもなければ、そうするべきものでもない。「きれいだね」の一言に腹を立てる人を「変人」と決めつけても、でもその人は腹が立ってしまうのだから、仕様のないことだろう。また、だからといって人間の劣った性質と決めつけるのも、誤りだ。【感情】はそれぞれのものだからこそ、想いが人の「個性」を彩る。いわば、【感情】が個を個たらしめるのだ。

だから、個にある【感情】を押しつけ、またある【感情】を抱かない者を排除するような傾向は、個を殺すことになる。特定の【感情】が社会のすべての人に強要された状態、あるいはその特定の【感情】のみが正しいとする考えを「全体主義」と言って、これは【感情】に支えられているから気紛れで、どんな行動に出るか予想がつかない。戦前の日本の愚行も、熱狂的な【感情】の奔出が生んだといえるかもしれない。

重ねて言うけれど、だから【感情】は人間社会にとって不要なものだ、なんて考えてはいけない。ある【感情】が、個々の【感情】を踏みにじるようにして社会全体を覆っていく、そんな事態に警戒する必要をぼくたち日本人は歴史から学んだけれど、そうならない限り、個々の【感情】は個々のものとして、個々を形づくるものとして、尊重されるべきではなかろうか。たとえキリスト教のような一神教の信徒でも、他の人が別の神を信じることを妨げてはならないし、またその人が信じる神に敬意を払うべきだろう。

ともあれ。【感情】は世界をその人独特のかたちに分割することで個の輪郭を画しているわけだから、僕の見ている世界をあなたが見ることができないように、けして「わかる」ものではない。もし「わかられて」しまったならば、個は消失するだろう。文学も芸術も、そして愛も、わからないものをわかりたいという欲望と、しかしわかってしまった瞬間にその意味が喪失してしまうという危機とのジレンマにはさまれた、無限に続く人の宿命的な活動だ。

そうすると、「ぼくたちはわかりあえるのだろうか」という問いに対しては、ひとまずこう答えなければならないみたいだ。「ぼくたちが個でありたいと願うかぎり、全体に個が呑まれることを恐れるかぎり、ぼくたちは絶対にわかりあえないだろうし、それに、仮にわかりあえたところで、わかってしまうことが良いとはかぎらない」と。

この結論は、ぼくたちを暗澹たる気持ちにさせる。ぼくたちは同じ時間を過ごしているときでさえ、実は各々の世界は各々ごとに分断されていて、どれほどたくさんの人に囲まれていても、結局はだれも独りなのだろうか、と。あるいは、そうなのかもしれない。「わかりあうこと」が人と人とをつなぐ唯一の回路であるならば。けれど、たしかに、わかりあうことはできなくとも、個としてあるぼくたちがともに交わり―通い合う回路は他に、ある。

ぼくたちはわかりあえない。でも互いに「理解」することは、できる。理解とは理『を』解し、それから理『に』解することだ。「わかる」は直接にそれそのものを・そのままに知ろうとするけれど、「理解」は理(ことわり)を媒介する点が異なる。ぼくたちは人の気持ちや、それに自然界の物や事そのものを・そっくりそのままに知ることは無理だけど、それを理に従って、つまりある型にはてはめて認識することなら、できる。というより、ぼくらは普段そうやって世界と向き合っている。要するに理解とは、理=型を習得して、その理=型で世界を捉えなおすことなのだ。

「理解」は汲み尽くせないもの・捉えきれないものを強引に理に整え・理に押し込むことだから、理解されたものはいずれも欠けたもの・矮小なものとならざるをえない。では、理解は人の認知の、劣った方法なのか。詩人は、理解が取りこぼしてしまう世界の相をあますところなく・一挙に捉えようとする、つまりわかろうとする。その言葉は非常に美しく、神秘的でさえあるけれど、ゆえに、詩人の言葉が、人々が交わり―通い合う際の基礎土台には、成りにくい。理は、欠けたもの・矮小なものであるからこそ、公約数的に人々の間で「共通する」ことができる。

だから、大事なのは理を解し・実践する人の能力、すなわち理性だ。理とは「ものさし」のことで、ぼくたちは共通の「ものさし」をもつことではじめて交わり―通い合う経路を確保できる。人の理性はこの「ものさし」を見出し、実際に物事にあてはめる力のことだから、理性の在り方がそのまま人と人との関係の在り方の基準になる。

ときに。「合理的」という日本語に対応する英単語は「rational」だけれど、その元となった、「理性」という概念に対応するラテン語由来の名詞「ratio」は、英語で「計算」とか「比率」とか「割合」を意味する。となると、どちらがより大きく(多く)、どちらがより小さい(少ない)かを見分けること、それが「rational」という概念がしめす「合理性」であって、すると「rational」は「最適配分」や「利益の最大化」といった、経済学的なタームと強いつながりをもつものと考えられる。

ぼくは「理性」とはとどのつまり「損得勘定」のことだと思う。何が自分の利益になるかを冷静に判断してそれを実行する能力、それが「理性」であって、その行動がその人の利にかなっている場合に、それを「合理的」と評する。言うなれば、「理」とは『利』のことなのだ。この意味での「理性」こそが、人と人とを交わり―通い合わせる有力な、そしてもしかすると唯一の、回路なのだ。

こう言うと、ある種の人々は猛烈に反発するかもしれない。そういう損得勘定が人心を荒廃させ、人と人とのつながりを失わせたのだと、かれらは考えているからだ。かれら反合理主義者は、理性(ratio)を人と人、個と全体との関係性を断絶させている犯人と見なしている。なんとなれば、それは利己主義的な生き方を称賛するから。

しかし、西洋の個人主義という思想は、人々がそれぞれに損得勘定をするからこそ、社会というものが要請・形成され、また人々は社会的規範に従うようになる、と考えた。利己主義というと、他者をないがしろにしてでも自分の利益を増大させようとすることと思われるけれど、でもちょっと考えてみれば、ぼくたち人間は他人に頼らなければ自分の利益を益していくことなどできないと気づく。都市に生きる人たちは、他の誰かが食料を作り、それを買わなければ生きていけない。食料を作る人も、自分が作った作物を誰かが買ってくれなければ、とても生活していかれない。ぼくたちは相互に依存していて、誰かがいることが自分の利益の基礎をなしていて、だから自分の利益を益すには、つまり個人として在るためには、どうしても他人とともに生きることが必要になるのだ。

自分の利益を益すためには、他人とともにあらねばならない。かくして、個人から出発して、社会や、そのルールとしての法が、生まれる。いや、個人や個人の欲求の実現は、社会があってはじめて可能になるのだから、個人の前に社会がある、とさえ言えるのかも知れない。ともあれ、ここでは個人と社会という、一見対立している存在同士が、しかし一方がもう一方の条件となっている、つまり止揚された状態にあることが、発見される。

ぼくたちはひとりでは生きていかれない。このひどく単純な事実が、利己主義を社会性に昇華させる。特に、いまのぼくたちは分業社会のなかに生きている。それぞれの職業がそれぞれの仕事に取り組み、その成果をみんなが分かち合うことで、生活している。その分かち合いのためのコミュニケーション・ツールが、お金だ。

経済学は、いまでは心の冷たい学問と思われがちだけれど、アダム=スミスが『諸国民の富』を『道徳感情論』のあとに、その補強として書いたように、経済とはまず何よりも、個人の集合たる社会がどうあり、またどうあるべきかを示す道徳律だった。その基盤となるのが理性ある人、つまり損得勘定をする人間としての個人だった。さっき言ったように、みんなが損得勘定をするからこそ、みんなで生きていこうという考えが必然的に帰結される。じゃあ、どうすればみんなが得をするのだろうか、それを探り、客観視できるよう整えるのが経済学なのだ。

【感情】はわかりあえないけれど、【理性】は、損得勘定は「理解」できる。損なことはやめよう、得なことをしよう、なぜならぼくらは個として生きていくために、個の生き方をますます充実するために、お互いに協力しなければならないのだから。いや、協力しようと思わずとも、協力せざるをえないのだから。理性が、損得勘定が、ぼくらに共通し、そしてぼくらを共通する、おそらく唯一の経路なのだ。かくして「市民社会」という結合体が観念され、理性にしたがって生きる人を「市民(シトワイアン)」と呼ぶに至る。

でも、そうは言っても、損得の線引きそのものが【感情】的なんじゃないか。人によって、何が損で、何が得かは、別々なんじゃないか。まったくその通りで、特に現代のように、物質的な富の増大が人々に共通した得の方向とは言い難い時代では、損得は【感情】の裁断にまかされている。結局、【理性】は【感情】の下僕にならざるをえないのかもしれない。けれど、そうなのだとしたら、いよいよぼくらは個々に分裂するしかなくなる。ぼくらはそれぞれの【感情】にまかせるまま、それぞれに【感情】を押し付け合い、いがみ合うしかなくなる。そうなれば、ぼくらは社会どころか、個として在る自分までも、見失うだろう。

だけど、ぼくらがこうして息をして、心臓を動かして、血液を巡らして、生命として生きていくためには、食べて、排出して、寝て、そういう動物としての基礎代謝運動が必要だ。ぼくらが生命体である以上、こういった運動の必要はだれにでも共通する。だから、ぼくはこう考える。ぼくらは、たしかにわかりあうことも、もしかすると理解することも、難しいのかもしれないけれど、でもだれもが「生活者」なんだ、というところで、共通できるんじゃないかと。

「生活者」という言葉に、ぼくはそれほど豊かな意味内容を与えようとは、思わない。逆に、そういう余分なものを削ぎ落とした、すべての人間にあてはまる「最小公倍数」として、考えたい。ぼくたちは生きている、そして生きていかねばならない、そして生きていくための条件を、環境を、欲している。「生活者」とは、こうした「生活していく存在」のことで、それ以上でも以下でもない。

ぼくらは生活していくために、何が必要だろうか。きっと様々あるだろうけれど、直截的には、お金だろう。さっきも言ったけれど、現代のような分業社会では、お金は個と個をつなぐ重要なコミュニケーション・ツールとなっている。逆しまにいうと、お金なしにはぼくらはうまくつながることができない。これはお金のない人は友達がいない、というのではなくて、自他の労働の成果をうまく交換することできない、ということだ。それは生活がままならなくなる、という結果を導く。もちろん、生活必需品をすべて自給自足できるのであれば、話は別だけれど、そうでない以上は、お金を使わないとぼくらは生活できない。

「お金がすべてではない」との格言は、ドラマや小説でしばしば語られるところで、まったくその通りだとぼくも思う。お金では、人の【感情】的満足を充足させるのは、難しい。愛や友情は、お金では買えない。お金にできることは、自分が生産した財・サービスを価格化して、他の人が生産した財・サービスと交換しやすくすることだけだ。つまり、あくまで物質的なものとの交換にしか、使えない。だけど、だからといってお金が不要になるわけでもないし、お金を悪者あつかいする理由にも、ならない。人間は外部から物質を取り入れることで生命活動を維持している、と考えれば、むしろお金は生活の基盤となっていて、【感情】の充足はその必要最低限の基盤、つまりお金があってはじめてなせる、といえるだろう。

ゆえにぼくは、経済が大事なのだといいたい。反原発の運動は、人々の生活を守るためという動機に支えられているが、かれらは「生活者」の論理を代弁しているわけではない。原発を新しく建設するのはもう難しいけれど、いまある原発を動かさなければ、電力供給は不十分になり、また燃料の購入費で国富の流出をまねくため、国内経済の衰微は明らかだ。無論、だからといって数世代にわたって毒をまきちらす原発を容認することはできない、というのも一理ある。また、国内経済が振るわないのなら海外に移住すればいい、というならば、これも理にかなっている。けれど、経済の衰退で生活に多大な損失を被るのは、まずもって移住もままならない貧困層だ。その貧困層の「生活者」としての在り方を打ち壊しかねない、そういう懸念に対して無頓着、あるいは仮に原発がなくとも自分たちの「生活者」としての在り方は守られると考えているあたり、反原発運動は「市民(ブルジョワ)の運動」だと言わざるをえない。

ぼくらは理性を、損得勘定を働かせて、生活者として在る自分たちを守らなければならない。たぶん、ぼくらみんなが結びつき合える目標とは、互いの生活を互いのために守る、この生活者の論理だけなんだと思う。ぼくらは「ただ、生きている」という事実からのみ交わり―通い合うことができる。それは、しかし人によっては無味乾燥した、味気ないテーマだけれど、たとえば人生の意味とか、そういう【感情】をひとまず洗い落とした、いわば骨の部分でしか――「しか」と言っても、そこがいちばん大事なのだけれど、共通することはできないんじゃなかろうか。
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2012/10/25 (Thu) 06:15 | REPLY |   

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