祈るということ――この世の悲劇と向き合うために【後編】

 今生に、いかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば念仏ますのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらうべき
   ――「歎異抄 第四章」より

 菩薩は法においてまさに往する所無くして布施を行ずべし
   ――「金剛般若経」より


6.祈りの作法
物質的・実証的支援を通しての表現は「個別的なもの」である。ここで向き合う不幸は、世界中にはびこる不幸のほんの一部に過ぎず、「後ろめたさの感覚」は依然残ったままである。個別的なものをどれだけ積み重ねても、「蕩尽可能性」を前にしては底なしの穴を埋めるようなもので、「普遍的なもの」の次元にはいたらない。だが、この「普遍的なもの」に接することではじめて、「道徳的な後ろめたさ」は己の内でふさわしい位置に収められ、解消される。なぜなら「普遍的なもの」に接すると言うことは、あらゆる不幸に「一斉に・漏れなく」関わるからで、個別的なものに付きものの「偏りと不公平」もなければ、「蕩尽可能性」に嘖まれることもないからである。この「普遍的なもの」に接する経路を開く表現手法が、「祈り」なのである。

「祈り」と私が言い出したことで、軽く失望を覚える方もおられるかもしれない。特に世界の不幸を等閑視することができず、何らかの方法で解消したいと心のどこかで願っている人にとっては、あまりに抽象的でものの役にも立たない話だと思われることだろう。ここで再度確認しておくが、私は募金などの具体的な支援を無駄だと断じたいのではない。ただ、世界中の悲劇を前にしてはあまりに脆弱な一個の人間が、巨大化していく世界の闇に比例してますます過剰になる【道徳感情】の過大請求に対し、自己の心理的安定をいかにして保つべきかという、グローバル化した時代における心理的防衛手段を講じようとするのみである。これは、世界の不幸に対して真摯な対応を取りたいと願うすべての「世界市民」にとって、いま問われるべき課題なのだと私は考える。他者の痛みにふれるという行いが、人の心理的安心感を脅かすものであってはならない。「個別的なもの」を重視する、一見して現実主義的とみなされる姿勢は、しかしその「蕩尽可能性」につまずき、他者の痛みに対する共感覚を「危険な感触」として斥け、互いに深入りしない程度に抑制し合う不感症的な社会感覚を醸成することにつながってしまう。世界の不条理に向き合いつつ、しかし一個の人間、一個の不幸に相対し、それでいて自らの倫理的な共感感覚を傷つけないような心的態勢を人々の内に形づくることこそが、互いの痛みを分かち合える世に向けて、いま求められているのである。


7.世界に対する応答としての表現活動
人間の定義は星の数ほどあるが、ここでは「人間とは表現をする生き物である」という定義から始めたい。表現するのは人間だけではない、という声もあるだろう。たとえば蝉の雄は腹膜をふるわせることで雌に求愛のアピールをしている。これも表現と言えなくもないが、しかし人間の表現と蝉の表現とで決定的に異なるのは、人間は「己に向けても表現する」という点である。

階段でつまずいたとき、たとえひとりであっても「痛っ!」と思わず言ってしまう。これは、いまさっき起こった出来事に対して、自分がいかに感じたかを自分に対して示すものである。このように、人間は表現をすることで、自己の感覚と世界の出来事との関係を常に更新し続けている。表現とは、いわば世界に対する「応答」なのである。ある現象に出会ったとき、人はそれに対して何らかのリアクションをせずにはいられない。不断に世界のなかにいる私たちは、表現によって自己と世界とが関係していることを――それは世界に対する自己の境界線を確定する作業にもなるが――周囲の人間はもちろんのこと、何より自分に対して示すのだ。この表現が適切になされているとき、つまり「応答」がなされたとき、人は自分が世界内に適切な位置を占めていることを確認する。逆に表現がうまくなされなかったとき、たとえば階段につまずいて「冷たいっ!」と叫んだ場合、人は世界の出来事と己の直感とのズレに当惑する。また、世界の側が人知のおよばない空前絶後の出来事を私たちにもたらしたとき、それに応答する適当な表現を知らない人々は存在論的な不安、つまり世界に対する自己の関係性を見失って言いしれぬ不安に陥ることとなる(芸術家と呼ばれる人々は、いまだ表現されていなかった世界の出来事に「記号(Sign)」をつけていると言えるのかもしれない)。

カウンセラーにかかった学生にしろ、【道徳感情】をなあなあで鎮めようとする社会的不感症にせよ、それらはこの「表現力の貧困」の結果なのではなかろうか。表現は、世界内のある現象に対する自己の応答を、漠然とした内的イメージに留めずに、外的な・物的なものに心象を投射することではじめて達成される。重要なのは、それが必ず身体のふるまいを通して行われるということだ。最もわかりやすいのはダンスや歌といった、身体そのものを使った表現だ。これらは実際に身体と身体機能の一部を使って表現を行う。また絵画や彫刻といった、外的なものを加工することで生まれる作品も、必ず人間の手を介してできる。

内的なイメージを、己の身体を通して外に向けて/対して表出するということ、これが表現にとって不可欠となる。身体の動きは、世界に対して応答ができているということを具体的な形で内外に示すのだが、この「具体化している」ということが何よりも重要だ。日本では「形式的」という言葉はどうやらあまり良い意味では使われないようで、しばしば「かたちよりも中身が大事」という意見が聞かれる。しかし、私は形式こそが大事なのだと言いたい。たとえばコップがなければ水を留めておくことができないように、まず「器」がなければそこに「中身」を盛ることはできない。形式とはその「器」なのである。私たちの認識はまず「器」を定めてから「中身」を特定するという手順を踏むのだ。具体化しているとは、つまりこの「器」ができているということなのである。

仮に内的イメージという「中身」だけあったとしても、私たちはそれを確認することはできない。震災の悲劇にたいする憐れみや憤りがあったとしても、「かたち」が伴わなければ世界に対しての応答は不完全に終わり、ただもやもやとした想いを内に抱えてしまう。このもやもやした想いを他ならぬ自分の身を動かすことで外部に「具象化」して世界と自身の関係を確認し、「世界に対して応答できない」という不安の状態を是正するために、表現するということが求められるのだ。


8.世界の悲劇に対する応答としての「祈り」
人は世界のできごとに対して表現するという方法で「応答」し、世界と自分との関係を確かめる。このとき、適切な表現の形式(型と言っても良いだろう)が準備されていなければ、人は世界の現実に対して何ら「応答」できず、そのため世界が自分にとって過剰であると感じたり、あるいは世界から疎外されていると感じてしまう。ゆえに、表現ができるということこそが、人の心理的安定を保つために必要なのだ。

さて。グローバルな情報化社会に生きる私たちは、常日頃から世界中で止むことなく生じている悲劇に対して、それに相応しい「応答」ができているだろうか。ますます肥大化する【道徳感情】の突き上げを「不感症」に陥ることでやり過ごすか、あるいはその内なる声に従って物質的・実証的な行為にうつしたものの「蕩尽可能性」の底なし沼にはまってしまうか、いずれも健全とはとても呼べないような結末に至ってはいまいか。

世界の悲劇へ「応答」するための表現の作法、それが「祈ること」だ。祈りは具体的な出来事や特定の人物に向けられるものではない。それは世界人類に向けて発せられるものでなければならない。掌を合わせる、指と指を組む、あるいは額を床につけるように跪く。方法はいくらでもあるが、ともかく、人間世界の不幸すべてに対して「幸あれ」と願うこと、慈悲の魂を身体のふるまいを通して表現すること、それによって人は人間存在に普遍的な苦しみに対する全的な「応答」をなしうるのだ。

「祈る」ために特定の宗教・宗派に入門する必要はないし、それに頼らずとも「祈る」ことはできる。ただ、宗教は人が営々と積み重ね、磨き上げてきた世界観と価値観を有しており、各宗教の祈りの作法はそれらに接続するための方法として発達してきた。宗教上のバックグラウンドは祈りにリアリティを付与する人類の貴重な財産だといえる。ゆえに、宗教にこだわることはないにせよ、その力を借りるのは非常に有用ではないかと思う。

「神さまに祈ったところで、それでだれかが救われるわけではない、それならお祈りなんて無意味ではないか」と非難する者もいよう。しかし、まず一言いわせていただければ、祈りとは人間の有限性への自覚からなされるものだ。この世の悲劇はいまや無限にも思えるほど溢れており、これを有限な人間一人がどうこうできようはずがない。ゆえにこそ、人は祈るのだ。自らの無力さへの懺悔として、そしてその無力さから出発せねばならないことの確認として。

もちろん、祈りは募金のように具体的に誰かを助けるわけではない。また、募金が無駄なのではけしてない。ただ、募金のような物質的・実証的な救済活動を、一種の表現として行うのは不適切なのではないか、私はそう言いたいのだ。個別具体的な活動は、なるほど目の前のだれかを実際に助けることにはなるだろう。それはとても有意義なことである。しかし、私たちは目の前の悲劇以外にも、そこらかしこで人々が苦しみに喘いでいることを知っている。【道徳感情】はそれらをも救済すべしと訴えるが、もしこの要求に従えば、我が身を滅ぼすことは自明の理である。したがって、個別具体的な行動は悲劇に対する「応答」としては常に不完全燃焼に終わる。だが、祈りによって「応答」を済ませたあとであれば、人は個別具体的な悲劇に後ろ髪引かれること少なく取り組めよう。なんとなれば、物質的・実証的な活動は祈りの後においてはもはや「表現」ではなくなるからだ。

物質的・実証的活動を悲劇に対する「応答」とするのは間違いなのだ。すなわち「表現」と「行動」は分離すべきなのである。祈りをもってあらゆる悲劇に対する普遍的応答とし、個別の救済はただの純粋な行動となす。つまり救済活動は【道徳感情】の直接の現れではなく――もしそうであれば、「蕩尽可能性」が大きく口を開けて待ちかまえているところにのこのこ出向くことになる――たとえば、石が飛んできたからひょいと避けたかのような、そのような自然なふるまいとしてなされることとなろう。悲劇に対する憤懣の気持ちからでも、不幸な人を助けたいとする慈悲の心でも、道徳的な義務感でもなく、ただそうするべきだからそうするのみ。草木が揺れるのは風が吹くからであって、それ以外の何の理由もないように、そのようになされる救済活動こそが、いまの世に道徳的ジレンマを生じさせない利他の法なのであり、そのための身構えを形作るのが「祈り」という作法なのである。
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