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法の暴力 ~ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論』~


暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)暴力批判論 他十篇 (岩波文庫―ベンヤミンの仕事)
(1994/03/16)
ヴァルター ベンヤミン

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  子どものころ、友達と殴り合いのケンカをしていたら、先生や親に「やめなさい!」とひどく叱られた、そんな思い出のある方も多いかと思います。「ひとに暴力を振るうのは良くないこと」。わたしたちは幼い頃からそう言い聞かされて育ってきました。大人になって街を見渡しますと、たとえば役所や警察署などに「暴力追放の街宣言」などの垂れ幕が下がっているのを目にします。そしてわたしたちは再び確認するのです。ああ、やっぱり暴力って、なくすべきものなんだよね、と。
 けれど、少しばかり視線を移しますと暴力の影がいたるところで見られます。金を脅し取ろうとする強盗と、それを力づくで抑えようとする警官。政府を転覆させようと息巻く民衆と、それを鎮圧しようと銃を向ける軍隊――。
 世界には暴力が満ちあふれています。そしてそれを眺める私たちは、「暴力ハイケナイ」と言いながら、しかし「良い暴力」と「悪い暴力」とを分けています。けれど、はたして暴力に「イイ」も「ワルイ」もあるのでしょうか?そもそも、暴力はいかに語ることができるのでしょうか。今回はヴァルター・ベンヤミンの『暴力批判論』をひもときながら、これらの疑問について考えていきたいと思います。


1.暴力の倫理性への問い

 「暴力批判論の課題は、暴力と、法および正義との関係をえがくこと」(p.29)とベンヤミンは言います。かれの目的は法や正義といった領域でふるわれる暴力の倫理性を吟味することにあるのです。そこでまず、かれは法の領域における暴力から説き始めます。
 法のふるう暴力というのは、ある目的を達成するための手段に過ぎない、一般的にはそう捉えているものと思います。この捉え方からすれば、法のふるう暴力の問題というのは、それが正しい目的のものかどうか、という批評基準についてのみとなりますし、法において現実的に問題となっているのはこのテーマのみと言ってよいでしょう。
 しかし、ベンヤミンはこのように暴力を批評の基準に、つまり目的いかんによって正当化されうるものとする見方を斥けます。かれが問題とするのは、暴力そのものの倫理性についてなのです。
 上に述べましたような、正しい目的による暴力を自明とする法哲学の源流を、ベンヤミンは自然法思想に見出します。自然法は人間ならびに人間集団の自然的状態から法の正当性を引き出します。この考え方に拠れば、いかなる暴力であれ、それが「自然な暴力」であれば何の問題もない、ということになるのです。
 一方、法哲学にはもうひとつの潮流があります。実定法思想です。こちらは暴力を自然的なものとしてではなく、歴史的な、あるいは人為的なものとして見なします。また法の目的が自然法的な神聖化を施されていないため、実定法の観点からなら、暴力という手段への批判が開かれうるのです。
 ところが、ベンヤミンはこの二つの潮流は結局ひとつのドグマにおいて一致すると言います。「正しい目的は適法の手段によって達成されうるし、適法の手段は正しい目的へ向けて適用されうる」(p.31)。つまりどちらにせよ、それが法の範囲内であれば正義に適うかどうかのみが問題とされ、そこから先の暴力の倫理性そのものが問われることはないのです。
 そこでベンヤミンは法の外に立って、別の独立した批判基準からこの問題にアプローチしていくことを宣言します。そして目的の領域、すなわち正義をさしあたり除いて「暴力を構成するいくつかの手段の正当性についての問い」(p.32)を中心に置くのです。
 

2.法措定的暴力

 さて、ベンヤミンは論を進めるにあたってひとまず実定法理論における暴力の区別を利用します。すなわち「法定の暴力/法定のものではない暴力」という区別です。もちろん、このように区別したからといって、かれが暴力の正当性を法の有無によって決定しようとしているわけではありません。「そのような尺度ないし区別がそもそも可能だとすれば、暴力の本質はいったいどういうものになるのか――いいかえれば、そのような区別の意味は何なのか――これが問題」(p.32)なのです。
 この区別は法そのものからは導き出せません。というのも「法か不法かを分ける区別が適法か否かは法内部からでは設定しえない」というシステム論的限界があるからです。そのため、実定法は自身の外部にこの区別の条件を探さなければならない。つまり、法は自身が暴力を発動するその根拠を、己以外の承認に求めなければなりません。ここでベンヤミンは、法の目的をこの承認の有無でもって「法的目的/自然目的」と区別します。
 この区別を用い、ベンヤミンはヨーロッパの法関係を「権利主体としての個人についていえば、場合によっては暴力をもって合目的的に追求されうる個人の自然目的を、どんな場合にも許容しないことを、特徴的な傾向としている」と分析します(p.34)。つまりヨーロッパの、ひいては近代社会の法秩序は個々人の暴力の自然目的を排し、すべてを自身の暴力によってのみ設定しうる法的目的で埋め尽くそうとする。この暴力の独占は「法の目的をまもろうとする意図からではなく、むしろ、法そのものをまもろうとする意図から説明される」(p.35)。というのも、法がもっとも恐れているのは、現行法の暴力が否認され、新たに承認された法が現れることなのです。「法の手中にない暴力は、それが追求するかもしれぬ目的によってではなく、それが法の枠外に存在すること自体によって、いつでも法をおびやかす」(p.35)。
 先にも述べました通り、実定法の概念からですと自身の暴力の「適法性」は自身そのものの法体系からは導き出せません。そのため、実定法は暴力の正当性を歴史的・普遍的な何らかの理由と結び合わせることで保たなければならない。しかし、この結びつきは新たな暴力の登場によって断絶され、取って代わられる危険をつねに抱えているのです。
 ここに、ベンヤミンは暴力の本質的機能を見出し、暴力批判の基礎とします。つまり「法関係を確定したり修正したりすることができる」機能がそれです(p.38)。
 この暴力の機能は戦争においてより顕著にあらわれます。戦争における勝利こそ、法を「法」の外部から承認するものだからです。すなわち戦争の暴力は「法を措定する性格が付随している」のです(p.39)。このことは、先の大戦で敗北を喫したわが国の歴史を鑑みれば明らかでしょう。国家が、そして法が、自身の支配している人々の暴力を取り上げようとするのは、ひとえにこの暴力の機能、つまり新たに法を措定する能力を恐れてのことなのです。これを、ベンヤミンは「法措定的暴力」と名付けます。


3.法維持的暴力と死刑

 この「法措定的暴力」の他に、ベンヤミンはもうひとつの暴力の機能をあげます。それが「法維持的暴力」です。その名の通り、法の下にある市民を服従させるための脅迫的な暴力です。
 ベンヤミンは法維持的暴力の脅迫性が、法の運命的性質と出会うとき、その不自然性を露わにすることを指摘します。法が運命的というのは、人は常に法から逃れられる可能性を持っており、処罰されるかされないか、どの程度処罰されるかどうかは運次第だからです。しかし法は己からは何人たりとも逃れられないということを、その暴力でもって知らしめようとします。そうして自身に抵抗する者の意気を削ごうとするのです。この法的目的において死刑とは、法がその目論見を暴力の最高形態によって実体化したものです。「死刑の意味は、違法を罰することではなく、新たな法を確定することなのだ。というのも、生死を左右する暴力を振るえば、ほかのどんな法を執行するよりも以上に、法そのものは強化されるのだから」(p.43)。しかし、法には確定性が欠けている以上、この法の暴力による死には「繊細な感受性にはとくに、法における何か腐ったものが感じ取られる」ものなのです(p.43)。


4.警察暴力の二重性

 ベンヤミンは先の死刑の事例において、法の暴力が法措定的な機能と法維持的な機能の両者を併せもつことを示唆しています。わたしたちは、法ならびに法が発動する暴力はあくまで法に定められている範囲において、いわばわれわれに飼い慣らされている限りで振るわれていると思いがちです。しかしベンヤミンは、法の暴力が常に法をはみだし、その暴力それ自体が新たに法を形成していると指摘します。これを最も常態的に行っている機関、それが警察であるとベンヤミンは言います。

「その非道さは、この官庁のなかでは法措定的暴力と法維持的暴力との分離がなくされている、というところから来る。前者の暴力が勝利することによって自己の資格を証明することを、もとめられるとすれば、後者の暴力は、新たな目的を設定しないという、制約のもとに置かれている。警察暴力は、この二つの条件を免除されている」(p。44)。

 警察のふるう暴力は法の制約に置かれていない、と言うと反発する方も多いかと思います。なるほど、刑法はたしかに取り締まるべき犯罪行為の定義を詳細に書き連ねております。しかし、それらは市民が行為をした「あとに」適用されるものであり、またそれを起こさないようにするための事前予防、つまり治安維持についてはこれといった法的規定はなく、また具体的にどのような実際的行為が犯罪にあたるのかについてまでは法は定めていません。実際に犯罪者を指名し、その者を拘束するのは法ではなく、法の庇護を受けている警察権力そのものなのです。「民主制における警察の精神のほうが、より有害であることは、誤認されるべくもない」(p.45)。


5.暴力という法
 
 「手段としての暴力はすべて、法を措定するか、あるいは法を維持する。二つの客語のいずれをも要求しないような暴力は、みずから効力を抛棄しているのだ」(p.45)。これは重要な定義です。というのも、この定義によって、法は暴力をコントロールするための箍(たが)などではなく、法そのものが暴力であることが示されるのです。「紛争の完全に非暴力的な調停はけっして、なんらかの法的協定には至らない……。つまり法的協定は、当事者たちによってどんなに平穏に結ばれようと、けっきょくは暴力の可能性につながっている」(p.45)。暴力なき法はありえず、法は常に暴力を要請する。このことはあらゆる法的協定が、それを保証するための暴力を必要とすることからも明らかです。これは、いかに成熟した市民社会においても変わりありません。たとえ議会が話し合いによって「平和的に」物事を決めたところで、その決定は新たな法=暴力を形成するものなのです。
 紛争の調停は、何もすべて法=暴力によらねばならないというわけではありません。私人相互の話し合いによる和解は、嘘や違反が特段罰せられるということはないにも関わらず、それでも日常的に見られるからです。しかし、現在の法=暴力はこの私人の領域にも割りこんでくるようになります。このことを、ベンヤミンは「法の没落過程」という言葉で表しています。かれが言うには、古代の法は自身の暴力を無敵と信じ、まつろわぬ者どもをその力で圧倒してきた。だが現在の法は自信を喪失しており、自分以外の他者が振るう暴力、暴力の発現そのものを恐れるようになった。そのため法=暴力は、これまで非暴力的な話し合いによる和解で済まされてきた案件にまで介入し、その「純粋な手段」の使用を制約するに至ったのです。
 もはやすべてが法=暴力に包摂されてしまいそうな世界のなかで、では法・不法を越えた、その外部にある暴力、そのようなものがありえるだろうか?もしあるのだとしたら「いっさいの法的問題の最終的な決定の不可能性という、異様な、さしあたってはひとを意気阻喪させる経験へも、一条の光がおちてくることになるかもしれない」(p.54)。この発言には、後にデリダが『法の力』に受け継いでいくアイデアが込められておりますが、それはまた別の機会に。


6.神話的暴力

 「手法の適法性と目的の正しさについて決定をくだすものは、けっして理性ではないのだ。前者については運命的な暴力であり、後者については――しかし――神である」(p.54)。暴力はもとより人間の手に負えるものではない。それは暴力の先にあるものを損なうにとどまらず、暴力がふるわれたという事実そのものが周囲を恫喝し、驚異を波及させていく。法=暴力は何も媒介しない。それはいきなり宣告され、ただ噴き上がるのです。
 ベンヤミンは、法=暴力のこの特徴をもっとも表しているものとして神話を題材にあげます。「神話的な暴力は、その原型的な形態においては、神々のたんなる宣言である。その目的の手段ではなく、その意志の表明でもほとんどなくて、まず第一に、その存在の宣言である」(p.55)。神々の前には法はない。神々が発した直接的暴力の宣言は、いつしか己を法たらしめんと欲しはじめるのだが、法を目的としていたはずの暴力は、しかし法を打ち立てたあとも暴力を手放そうとしない。より厳密に言うならば、暴力は法に変化することで権力そのものと同化し、自身が過去にふるってきた暴力を正当化するのです。「法の措定は権力の措定であり、そのかぎりで、暴力の直接的宣言の一幕にほかならない。正義が、あらゆる神的な目的設定の原理であり、権力が、あらゆる神話的な法措定の原理である」(p.57)。
 権力は法=暴力を神話としてもち、暴力は法となって権力と密接な関係を形づくる。この神話的暴力を滅ぼすこと、これがベンヤミンの次なる課題となります。
 

7.神的暴力

 ベンヤミンは神話的暴力に対峙するものとして「神的暴力」を置きます。「いっさいの領域で神話に神が対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない。前者が罪をつくり、あがなわせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である」(p.59)。
 神的暴力は神話的な暴力、すなわち法=暴力の対極に位置する非暴力の暴力として設定されています。この多分に理念的で、一見するとただ単純に神話的暴力の対概念として打ち立てられたかのように見えるこの暴力ならぬ暴力は、いったいいかなる内容をもつものなのか。
 もうひとつ、神話的暴力と神的暴力の対比を引用しましょう。「神話的暴力はたんなる生命にたいする、暴力それ自体のための、血の匂いのする暴力であり、神的暴力はすべての生命にたいする、生活者のための、純粋な暴力である。前者は犠牲を要求し、後者は犠牲を受けいれる」(p.60)。神的暴力は、まさに生活者のための暴力であるとベンヤミンは言います。それはあらゆる法措定――他者を強制しようとする暴力の欲望を排し、そして人の負った罪を取り去る、そのような形態の暴力として定義されます。
 当然ながら、このような「夢物語」をあまりに現実世界へと適用してしまうのは危険である、という意見が上がります。それに対してベンヤミンはこう返します。「この反論は認められない。なぜなら、『殺してもいいか?』という問いにたいしては、確かな答えがあるからだ――『殺してはならない』という戒律として」(p.60)。
 この「戒律」が神的暴力のキー概念となります。戒律とは「神が行為の生起『以前にある』ように、行為の以前にある。とはいえそれは、遵守をうながすものが処罰への恐怖であってはならないものとひとしく、実行された行為にたいしては適用できないものにとどまる。それは行為の物差しではない。戒律からは、行為への判決は出てこないのだ」(p.61)。先ほど、法=暴力は事後的にわれわれを裁くと述べました。しかし戒律は行為を裁くこともなければ、また裁くための基準でもないのです。「人間による人間の暴力的な殺害の断罪を、戒律から根拠づけるひとびとは、正しくない。戒律は行為する個人や共同体にとっての判決の基準でもなければ、行為の規範でもない。個人や共同体は、それと孤独に対決せねばならず、非常の折りには、それを度外視する責任をも引き受けねばならぬ」(p.61)。 戒律とは、法=暴力が禁ずる諸々の行為規範の外にある、ある種の「つまずき」のことです。たとえば目の前に1億円を持っている人がいるとしましょう。あなたはその人を殺して1億円を奪い取っても良い。殺したとしても、法によって裁かれることは絶対にない。さて、あなたは殺人に手を染めるでしょうか?法=暴力から逃れられると保証されているのですから、合理的に考えれば殺すのが「利口」です。しかし、だからといって殺そうとする人は少ないでしょう。なぜなら、わたしたちは「つまずき」を覚えるから。法=暴力の脅迫が及んでおらずとも、わたしたちは殺人という行為を為そうとするその瞬間に、言いようのないためらいを覚えてしまうのです。「殺してはならぬ」という掛け値なき自戒。理性に拠らない禁忌の念。これが「戒律」です。
 この「戒律」は法=暴力によって基礎付けてしまえば、その戒律たる性格を失うことになります。というのも、戒律は不言の密命であらねばならず、またあくまで個々人のなかに宿り、個々人がそれぞれに向き合うもの、命令なき命令、一般化しえない根拠なき「つまずき」の源なのです。


8.いまの課題としての暴力批判

 1920年に書かれたこの論文には、法=暴力の分析以外にもうひとつの目的がありました。それは、はたして人間はこれからの革命を神的暴力によって遂行し、法=暴力によって人民を支配している国家暴力を非暴力によって廃せるかいなかの検証です。現代のわたしたちには馴染みのない課題でも、革命の機運にあふれていた当時のヨーロッパでは危急の問いでありました(そして少なからず当時の日本でも)。
 現代日本では法=暴力の猛威はそれほど感じられません。警察も自衛隊も「日本国民のためにある」と、私たちは心底信じ切っています。だから、法と暴力とは互いに依拠してひとつの圧政的支配体制を構成している、と言われてもピンときませんし、別にどうでもいいだろう、と思ってしまいます。しかし、昨今のリビアの情勢を見ましてもわかる通り、政府のもつ公安機関はたとえ自国民に対してでも、それが神話的暴力への徴候を見せれば、法維持的暴力の目的にそって銃弾を放つものなのです。国家の「治安」が国民の「安全」と重複している限りは気にならないですが、ひとたび双方にズレが生じるや、途端に法=暴力どうしの衝突が巻き起こるのです。
 暴力とは法であり、法は暴力によって己を修正し、確立する。法と暴力とのこの密接なつながりは、約1世紀経った今でも変わっていません。ですから、法=暴力への批判は今なお有効だといえます。それに何より、わたしたちの心の奥底には暴力をおそれる気持ちが、あの戒律が宿っています。この内側より響く「生の充足」を求める声は、法=暴力に対し、常に批判的な構えを崩さないでいること、そして神的暴力への道を模索することを、わたしたちに呼びかけています。




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