祈るということ――この世の悲劇と向き合うために【前編】

 この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。
   ――「新約聖書 ルカによる福音書」より


1.震災と道徳感情
東北沖で発生した大地震から明日でちょど2年になる。2011年3月11日、東京では公共交通機関が軒並み運転を見合わせ、都内は徒歩で数時間かけて家路につく人々であふれた。だれもが「異常事態」を感じていた。あのとてつもない震動が私たちの日常を打ち壊してしまったかのようだった。人々はあたりに漂う興奮と緊張の空気のなか、互いに身を寄せ合いながら事の次第を見守っていた。

都民がその日の身の振り方に難儀していた、その頃。大津波が東北地方の太平洋沿岸を襲っていた。

東北地方ほどではないものの、東京も棚のものが落ちてくる程度の揺れはあった。けが人も、死人も出た。体感として、地震は他人事ではなかった。だからそのときの津波は、都民がその身で感じた体験と共振しており、不気味なリアリティを帯びていた。さらにその被害のあまりの大きさと凄まじさ、そしてそこで巻き起こったであろう惨劇の渦を想像し、都民の日常感覚――日本に生きる人々はだれもが平穏な日々を送っているのだ、という淡く、そしてひどく楽観的な情景は大いに狂い、先進技術の恩恵をふんだんに受けている日本国民でさえも、自然の猛威を前にしては一瞬にしてその土台を奪われるのだという真実に衝撃を覚えた。

「自分にできる何かをしよう」という、衝動にも似た感情が東京のあちこちで溢れた。未曾有の事態に対して何事かをせねばならぬという思いが、多くの人々を突き動かした。震災直後から、募金や献血、支援物資の調達や分類といった後方支援活動が都内各地で活発に行われた。人々はそれを歓迎し、協力した。まさに東京が、日本が、一致団結して被災地域を守ろうという、共同と助け合いの精神が一挙に凝集して発現したかのようであった。

ときに、これら震災に対する人々の反応は、しかしあるノンフィクションの悲しい物語を鑑賞した際に湧き上がる感情に近いものがあったように思われる。人々が負っているところの、人間としてなすべきことをなさねばならぬと命ずる【道徳感情】は、目の前に突きつけられた不幸に対して何らかのリアクションをとるよう迫る。「あってはならぬ不幸」が存在しているのだ、という現実を見せられたのならば、われわれの【道徳感情】は「自分はその存在を憎んでいる」ことを示す、何らかの実践的・表現的行為をせよと命じずにはいない。

先に断っておくが、私はこう言って、募金や献血に真摯に取り組んだ人々をけなそうとしているのではない。これらの支援活動は確実に被災地を助けている。それは事実であり、何ら疑うべきことでも、非難すべきことでもない。私が話題にしたいのは支援活動そのものの成果ではなく、その支援活動を通して表明された人々の【道徳感情】についてなのだ。すなわち「あなたが被災地のために行ったことは、はたして十分だったと思いますか?」と、人々に尋ねてみたいのだ。


2.道徳的行為の蕩尽可能性
コンビニ、スーパー、役場、街頭、いたるところに募金箱が設置された。日本人のほとんどは、一度はこの箱に小銭を落としたことであろう。その多くは「被災地のために」という真摯な想いでもって、己の私財を投じたことと思う。ところで、あなたはそこにいくら投じただろうか? そしてその金額は、被災地のためにあなたができたこととして、はたして十分だったと言えるだろうか? こう質問してもいいかもしれない。「あなたは私財のすべてを、そこに投じることもできたのではないか」と。

「そんな愚かしいことするわけがないだろう」と、私たちの正常な現実的平衡感覚は訴える。この内なる理性の声が生きていればこそ、人々は自分の生活に支障をきたさない程度の額を寄付金に回すにとどまる。おそらく、常識的な判断能力をもった人ならば、仮にだれかが募金に10円を投じただけだったとしても、その人を非難することはしないだろう。だが、そのような合理的な精神と併存する、人間のなかのもうひとつの心理、つまり「善を成せ」と訴える【道徳感情】は、この投ぜられた「10円」に対して疑問符を投げかける。その金は家族を、家財を、未来を瞬く間に圧し流れてしまった人々の不幸におまえが成しうることとして、十分だったと言えるのだろうか、と。

結婚式の祝儀もそうだが、自身の気持ちを金銭で表すのはとても難しい。どれだけの金額であれば親愛の情を遜色なく相手に伝えられるのか、という疑問は何度となく私たちを悩ませるものだ。祝儀であれば、幸いなことに慣習がその基準を示してくれる。だが、今回の震災ではどうだろうか。人が、それも同じ日本人が文字通り死ぬほどの苦境にあるという事実を知れば、【道徳感情】は当然、その人たちを助けよと命じる。そして【道徳感情】は私たちに震災に対して何らかのアクションを取るように促す。都民であれば、募金や献血がもっとも「手軽な」アクションだった。直接被災地に行くことはできなくとも、金や血といった具体的な物なら、どのように役に立つのかも予測できるから、「自分が被災者のために何かできた」という実感も得られた。しかし、ひとりの人間が投ずべき支援の量はいったいどれほどがふさわしいのか、その基準を私たちは知らない。たぶん、そのような一定の基準は存在しないのだろう。金は寄付しようと思えばいくらでも、それこそ自身の日常生活に支障が出るほどにでも、寄付できる。血も、己の健康を顧みなければいくらでも献じられる――もっとも、日本では制度上不可能だが。

募金や献血といった支援の方法は、まったく「果てがない」。【道徳感情】は、震災の起こした不幸に対するリアクションを求めるが、数十万人の不幸に見合うリアクションとなれば、それこそ己一身が献じうるあらゆるものを費やしたところで、賄えるものではない。私たちは「被災地の不幸のためにできることをしよう」と言いつつ、どこかで不安を抱えている。自分の成した支援、たとえば募金箱に10円を入れたという行動は、はたして被災地の不幸に対するリアクションとして十分だったのだろうかと。

どんな道徳的リアクションであっても、数十万人の不幸を前にしてはどれもお粗末なものである、と言わざるをえない。【道徳感情】の命ずるままにそのミッションを果たそうとすれば、待っているのは身の破滅であり、しかもそこまでしたとしても、それで十分かというとそうとも断言できない。この性質から、【道徳感情】は私たちを「蕩尽」へと誘導しているといえるだろう。【道徳感情】を突き詰めていけば、己の限りある身を、膨大な不幸の穴埋めに饗することこそ、道徳的人間としての正しさを示す方法ということになる。そうでなければ、そうしなければ、「被災地のため」を謳うあらゆる活動は、どこか偽善の臭気が漂うことになる。もちろん、常識的な理性は、全身全霊をなげうって復興活動に携わる愚をはっきりと認識するし、他人にそれを強要するのは間違いだと判断する。多くの人は、自分の道徳的リアクションは不十分なのではないかという不安を「私は私の生活がある」の一言で封じ込めている。だが、ある不幸の解決を目標とするならば、どこまでも身を費やすことができるという、この「蕩尽可能性」がある限り、あらゆる慈善的活動はいつまで経っても、何をやっても、どこまでやっても、どこかしら漂う胡散臭さと後ろめたさから抜け出せないのである。

震災直後、大学生のなかには「自分は何もできない」ことに気を病んで心理カウンセラーに相談した者が少なからずいたそうだ。おそらく、かれらは募金もしたし、献血もしたのだろう。だが、かれらはそれで自身が成すべき責務を十分に果たせたとは思えなかったのだ。一見、あまりにナイーブに思われるかれらの心理状態は、たしかに【道徳感情】をなあなあで手なずけることに慣れた人間からすれば馬鹿らしくも見えるが、それはあまりに敏感な感受性が道徳的リアクションの「蕩尽可能性」を突きつけられ、受けとめきれなくなった結果と見るべきであろう。かれらは、自分が何をしたところで、このあまりに大きな不幸に対しては十分ではないと感じていた。そして【道徳感情】の声に従うべきとする義務感と、しかし従ってしまえば「蕩尽可能性」に引き込まれ、己の社会的・生物的生存が脅かされてしまう、この二律背反の緊張状態が、かれらの純真ともいえる精神をおびやかしたのである。


3.グローバル化にともなう道徳感情の過剰化
このような【道徳感情】と「現実的平衡感覚」との間に生じる軋轢は、何も今回の東日本大震災で初めて生じたものではない。とくにグローバル化の進んだ現代において、【道徳感情】が提示する道徳的責務の「蕩尽可能性」は重大な倫理問題へと発展しているように思われる。

グローバル化というと、モノと人とが世界規模で行き来するようになったという、目に見える事象のみを注目しがちだが、人々の【道徳感情】への影響で言うならば、より重要なのは「情報」が世界のあちこちへ瞬時に飛び交うようになったということである。情報のグローバル化は、地球の裏側のできごとをも「自分事」として捉えうる状況を生みだした。ときとして、マンションの隣人が被った不幸よりも、テレビに流れるアフリカの子どもの不幸の方が近しく感じられるようになったのだ。東日本大震災が起こる前は、リビアの内戦が悲劇的ニュースの代表格であったことを思い出してほしい。あのとき、日本人の多くは国内の失業者や自殺者よりも、政府から弾圧を受ける、どこにあるのかもよくわかっていない国の国民の方に同情を寄せていたであろう。

グローバル化によって生みだされた世界規模での情報の流通は「悲劇の世界化」をもたらした。いまやわれわれは、国境を越えた地球上のあらゆる悲劇と隣接しているのである。リビアの内戦も、アフリカの飢餓も、アメリカの人種差別も、私たちは共通の悲劇として認識しうるようになった。言ってしまえば、東日本大震災ですら、この世界中に連なっている悲劇のひとつに過ぎないのである。情報のグローバル化はますます【道徳感情】の請求を量的にも質的にも肥大化させていく。私たちは世界中のあらゆる場所で際限なく噴き出している不幸に日々直面しているが、【道徳感情】はそれに何らかのアクションを取るよう人々に求める。だが、もしかすると、この世界中の不幸の総計はたとえ地球上のすべての人々をその解決に動員せしめてさえも埋めることのできない、「蕩尽可能性」の底なし沼であり、そこに人々を関わらせるのは、途方もない自殺行為を強いるものなのかもしれない。

情報化社会という概念が生まれて久しいが、いまや世界中の情報が一個の人間に対して怒濤のごとくおしよせるようになった。グローバル化と情報技術の進歩は世界中に生きる他者の痛みをまざまざとひとりの人間の目の前に突きつける。その痛みに反応しようとする人間の【道徳感情】は、だがその途方もない悲惨の巨壁を前にして、ほとんど立ち竦むしかない。もしくは、その壁面の一部を削り取って、ひとまず責務は果たしたと自己弁護することで許しを請うほか方法を知らない。

情報化が進むにつれて、人は生活共同体(コミュニティ)内での濃密な人間関係から脱していき、自身の依拠する生活世界は地域や具体的・対面的人間関係を飛び出て一挙に「地球世界」へと拡大していった。近代的生活を送りたいならば、私たちは「閉じた」コミュニティに籠もることはできず、「地球世界」に向き合って生きるのを余儀なくされる。個が直に世界とつながり、地球の裏側のひとりが成した行為が自分に影響を与えうるし、そしてその逆もまた然りと実感しうる、そんな時代に生きるわたしたちにとって、世界のあちこちで巻き起こる不幸を完全に「他人事」として捨て置くことは、それらを事実起こっていることとして知覚できてしまうグローバル化した世においては、倫理的に許諾できるものではない。すでにコミュニティの伝統的秩序から乖離し、より多くの人々と協同できる規範を、すなわち高度に抽象化された人権意識と博愛精神を身につけた私たちはこれらの悲劇を完全に無視することはできないし、とはいえ仮になんらかの対応をしたのなら、その責任は基本的に個人で負わねばならない。真に道徳的でありたいならば、人はその代償にとてつもない重荷を背負わねばならなくなったのだ。


4.「不感症」という作法
このような世にあっては「不感症」こそが世渡りのコツとなり、【道徳感情】の欲求を「ほどほどに満たす」態度を良しとする風潮が社会の暗黙の習わしとなる。たとえば、土に還るプラスチックを使った商品を買うことは他の人々の称賛を集めるし、またそれを購入したということは環境問題に向き合っているという証明にもなり、購入者は【道徳感情】をいくばくか満たすことができる。だが、もし縁日で買った焼きそばの容器が土に還らないタイプだったとしても、その人は文句を言わないだろう。かりに、焼きそば屋台の店主にクレームなどつけようものなら、「空気の読めない人」として周囲から白眼視されるであろう。【道徳感情】の赴くがままに行動すれば、その追求は徹底的で果てしなく、往々にして日常生活に支障をきたすレベルにまで達してしまう。ゆえに、どこかでブレーキがかけられることとなる。人々は問題に深入りすることを避けるし、誰かが深入りしそうになると、ときとして社会的制裁を発動してでも引き留める。人々はその「深入り」が道徳的に正しいことを知っている。それをやるべきか否かと質問されれば、やるべきと答える。だが、やるべきだからこそ、その質問が発せられるのを恐れるし、誰かが現に実行しているという事実を煙たがる。同じクラスの優等生がまじめに宿題をこなしているのを面白く思わないのと似た心理が、ここに働いている。人々が望んでいるのは、みなが満場一致で「正しい」とすることは、なべて「ほどほどに済ませる」ことなのである。そうでなければ、不幸の「蕩尽可能性」はすべての人々を巻き込んで「一億火の玉」とせしめて、破滅の坂道へと突き落としかねない。だから、【道徳感情】が突き上げる不満と矛盾をなんとかおさえられている程度に、不幸への責務がとりあえず達せられているとお互いに暗々裏に認め合える状況が醸されていること、それが人々の社会心理的安心感を保っているのである。

私が発した「あなたの募金した額は震災の不幸に対して十分といえますか?」という問いは、この社会心理的安心感を妨げるものである。「十分だ」と胸を張って言える人はほとんどおるまい。どれだけ募金しても「もっと募金できる」という「蕩尽可能性」がある以上、【道徳感情】がその者を完全に赦すことはない。だが、これはある意味「当然のこと」なのであって、ことさら表立って問うのは「大人げないこと」でさえある。しかし、「大人げない」と叱責する者であっても、そう断じるとあっては、やはりどこかで後ろめたさを感じているのではなかろうか。


5.倫理の過大請求に抗するために
以上の話から、私たちは「道徳的な後ろめたさ」とともに生きよ、と結論すべきなのだろうか。たしかに、不幸を感知する心的感受器官はグローバル化に伴ってその受容領域を世界規模にまで広げており、もはや一個の人間がある不幸に真正面から向き合うのを、まったく非現実的にしてしまっている。あらゆる慈善活動は、ある不幸の他にも不幸があるということ、そして不幸の解決のためにどこまでも身を削ることができるという「蕩尽可能性」によって、結局その人の「自己満足」なのではないかという疑いを拭いさることを難しくしている。そんな世の中にあっては、不幸の大群から一定の距離を取ること――ただ関心があるということを示すに止まるのが、社会的に賢い生き方に見えてしまう。

【道徳感情】が発する倫理的強迫の突き上げは、あのカウンセラーにかかった学生のように、ときとして人々の心を不安定にさせる。「なすべきことをなせていない」という思いは、自身の社会的承認に揺さぶりをかける。それは他者とともに生きる人間としてのアイデンティティが驚異にさらされるということである。この驚異は悲劇の世界的氾濫によってますます人々の安心感を脅かしていく。これに「蕩尽可能な」行為によって応ずるのは、もちろんまったく無駄というわけではないが、【道徳感情】がそれで治まってくれることはない。いま私たちに必要なのは、いまこの一刻一秒の間にも生まれている人間世界の悲劇に向き合いながらも、他者とともに生きる人間存在としての自己意識に動揺をきたさないような「態勢」を作り上げておくことである。この「態勢」が整っていてはじめて、私たちは世界に吹き荒れる悲劇の嵐の直中にあって、個別具体的な問題に挑むことができる。

そこで、私たちに決定的に欠けているのは「表現の手法」なのではないかと私は考える。すなわち、世界の不幸を前にしての「身構え」ができていないのだ。【道徳感情】の果てしない欲求を前に、それを人々同士で相互に表立てないようにすることでしか心理的安心感を保てないのは、世界に充満する不幸に対峙してどう対応すべきなのかがわからないからではないだろうか。

日本人は特に、ある不幸への「正しい対応」は、募金などの物質的・実証的支援をすることである、と考えがちである。不幸に対して目に見える成果で応じなければ、妥当な表現行為として承認されないのだ。しかし、「成果主義」にこだわる限り、「蕩尽可能性」はどこまでも付いて回る。そうなると、私たちは「道徳的な後ろめたさ」をどこまでも引きずらねばならない。

募金は一般の人々がもっとも多く参加した物理的・実証的支援だが、しかし「表現として貧しい」のだとも言える。募金の表現力は、不幸を目の前にした人間が求める表現の質からすると不満が残る。少々悪意のある言い方になってしまうが、募金は満たされることのない表現欲をくすぐることで成り立っているといえるのかもしれない。募金もふくめた物質的・実証的支援を通した表現は、結果的に苦しんでいる人々への具体的な助けとなっているが、しかし心情的にはいずれも「これでは足りないのではないか」、「もっとできるのではないか」と人を焦燥に駆るばかりで、けして心理的充足に導くことはない。だが、多くの日本人は、どうやらこれら「蕩尽可能な」行為でしか、不幸を前にしての表現方法を知らないのである
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