『大学』――人と天とが響き合う世界


大学・中庸 (岩波文庫)大学・中庸 (岩波文庫)
(1998/04/16)
金谷 治

商品詳細を見る




「儒教」といっても、ほとんどの日本人にとっては中学高校の漢文の時間で「朋、遠方より来る有り」などと読まされたことがある程度で、あまり馴染みのないものと思います。お隣の中国や韓国であれば孔子廟が道ばたに建っていたりと、多少は身近な存在なようですが、日本ではどうも人気がありません。

かくいう私もあまり儒家の思想は好きではありませんでした。中学生のころに『論語』を読んで「なんとも堅苦しいことを言うヤツだなあ」と感想を抱いて以来、むしろ老荘を好むところがあったのですけど、最近『論語』を読み返してみると昔は気付かなかった新鮮な驚きがあり、それと小倉紀蔵さんの『入門 朱子学と陽明学』が以外におもしろくて、儒教もなかなか学び甲斐のあるのかもしれないと見直すところもあり、ここは無碍に嫌わず、ともかくも四書五経の四書くらいは読んでみようかと思ったのです。

そこでまずは『大学』から。『大学』は儒教のテキストのなかでも入門書として親しまれている、比較的短い文章です。しかし、これはただの入門書ではありません。このなかには儒教の宇宙観の真髄がぎゅっと濃縮されていて、儒学を修めるに必読とされているのにも十分合点がいきます。『大学』を大きく取り上げたのは朱子学の開祖・朱熹ですが、かれの慧眼には感服せざるをえません。

ときに、私たち日本人は儒教を自分たちとは関わりの薄い思想だと考えがちです。学校の漢文の授業で『論語』の一節を唱えることはあっても、それが自身の生活や人生観に密着している、という実感はありません。しかし、荻生徂徠を持ち出すまでもなく、日本にも高名な儒学者はおりますし、ほんの数百年前までは、武士の子弟が朱子学を学んでいたのです。なれば、儒教的な思考法は日本文化の根底部分の、私たちの意識しないところで密かに活きているのではないか、すると儒教を学ぶことで、そういう日本文化の根っこを理解する助けとなるのではないか、そう考えるのも妥当ではないでしょうか。

ともあれ。まずは『大学』の重要論点を整理することといたしましょう。

はじめに『大学』のなかでも儒教の宇宙観が端的かつ鮮明に現れている一節を紹介します。


 古えの明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は先ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は先ずその心を正す。その心を正さんと欲する者は先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は先ずその知を致(きわ)む。知を致うるは物に格(いた)るに在り。
 物格りて后(のち)知至(きわ)まる。知至まりて后意誠なり。意誠にして后心正し。心正しくして后身修まる。身修まりて后家斉う。家斉いて后国治まる。国治まりて后天下平らかなり。(『大学』第1章第2節)



 前段では「AをするためにはBを、BをするためにはCをせよ」といった具合に、目的とそれを達成するための条件が順々に述べられている。後段は「CができればBもできる、BができるならAもできる」と前段を逆しまにして、条件をひとつひとつクリアしていけば、最終目的に到達しうることを説いています。儒教の最終目的とは、ずばり「天下太平」です。ここではそれに至までのフローチャートが記されているのです。すなわち、

【格物→知致→誠意→正心→人→家→国→天下】

 と、こうなっている。このままですと解りづらいですし、後の解説の便宜を図る意味でも、ここは「人」を境にふたつに割って見ていこうと思います。

 まずは【人→家→国→天下】の流れから。平和な世界をだれもが望んでいることと思いますが、しかしいきなり世の中をどうこうしようとしても、スケールが途方もなく大きすぎて、いったいどうすれば平和になるのか、まったく見当がつきません。では、天下(世界)に平穏をもたらすためにはどうするか。いきなり世界をどうこうするより、まずは自分たちの国をしっかり治めることだ、と『大学』は説きます。けれど、たしかに国は天下に比べればスケールは小さいでしょうが、それでも国の中ではたくさんの人々が各々の意志と利害で動いていて一筋縄ではいかず、やはりなかなか私たちの手に負えるものではありません。では、国がしっかり治まるにはどうするか。家庭が壊れていては国が治めまるわけもなし。ゆえに家庭を円満に保つことが大事なのです。しかし家族といってもやはり他人。常に仲良く睦まじくというのも難しい。でもあなたが立派な人格者(君子)であれば、夫婦喧嘩もない健やかな家庭が築けるはずです。

 君子であれば家庭は自ずと円満になり、円満な家庭は周りの家庭をも教化していっていずれ国全体も平穏となり、ひいては世の中全体が良くなっていく。『大学』では、このような世界改善の経路を説いているのです。すなわち天下太平の秘訣とは、人々が徳のある人物である「君子」になることであり、儒学とは、君子になるための要件を整理し、その実践法を学ぶ学問なのです。

 他の思想と照らし合わせてみれば、その思想的特徴がより明らかになります。たとえば道教では「道(タオ)」という、あらゆる存在を超越する世界の根本原理を説いています。「道」は人間が統御できるような代物ではなく、人間や世界をかくあらしめている高度に形而上的な存在で、その性たるやどこまでも混沌としていて、もはや人間の知能や認識で捉えられるものではない。だから、道教は理知的な思弁を行使することなく、「道」のおもむくまま、自然無為に生きることを目指します。人間が「道」に対してどうこうしようなどとは考えない。「道」が人間存在を規定しているのであって、その逆はありえないのです。

 「道」のはたらきかけに対して徹底して受動的となり、自然の流れに身をまかせた人間。それが道教の説く人間の理想像です。対して儒教では天下の在りようは人間の在りよう如何で変化する、と説く。この、世界と人間との関係の考え方に、明確なちがいがあります。道教では人間の能動性は世界に何ら影響を与えない。世界の原理・法則たる「道」は人間とは別次元の領域からあらゆる存在にはたらきかけているためです。しかし、儒教は人々が君子であれば世の中は良くなるのだと力説している。人間の能動性こそが世界の原理だと言い切っている。

 儒教は「人間中心主義」の立場に立っているのだといえるでしょう。人間の在り方がそのまま世界へと響いていく、この人間と世界とが隔絶されることなく、ダイナミックな共鳴関係にあるという宇宙観こそが儒教思想の最大の特徴であり、また魅力なのです。

 さて。「天子より以て庶人に至るまで、壱に是れ皆身を修むるを以て本と為す」(『大学』第1章第3節)と説かれるように、儒教において世界の根本原理とはまさに「人」そのものです。人が正しければ世界も正しくなる、ゆえに人が己を道徳的たらしめんとする努力、すなわち身を修めること(修身)こそが天下太平のキモとなるのです。

 では、先ほど示したフローチャートの残りの部分、【格物→知致→誠意→正心→人】に移っていきましょう。【人→家→国→天下】が人の外部へと展開していく「外への流れ」だとすれば、こちらは人の内部での徳の高まりを示す「内なる流れ」だと言えましょう。この「内なる流れ」に、修身に必要な基礎的条件が示されています。

 「外への流れ」に比べると「内なる流れ」には聞き慣れない用語が多いので、まずはひとつずつ解説していくことにしましょう。

 はじめに「正心」から。『大学』では次のように説明されています。

 謂わゆる身を修むるはその心を正す〔正心〕に在りとは、身に忿嚏(ふんち)するところ有るときは、則ちその正を得ず、恐懼するところ有るときは、則ちその正を得ず、好楽するところ有るときは、則ちその正を得ず、憂慮するところ有るときは、則ちその正を得ず。(『大学』第3章)

 要するに、喜怒哀楽が激しいと人間は物事に集中できなくなり、また正しい判断ができなくなる、これでは身の修めようがないから、まずは平常心を保つことが大切なのだということです。

では次に「誠意」に関する一節を見てみましょう。

謂わゆるその意を誠にす〔誠意〕とは、自ら欺く毋(な)きなり。悪臭を悪むが如く、好色を好むが如くする、此れを自ら謙(こころよく)すと謂う。故に君子は必ずその独を慎むなり。(『大学』第3章第1節)
 
 正心に比べると、誠意の説明に割かれた稿はずいぶん多いのですが、ここではこれのみ取り上げたいと思います。

 誠意とは何か、一言でいってしまうと「自分をごまかさないこと」です。悪いと思ったことは避け、善いと思ったことを実践する、そうすれば自分の心は満たされていきます。言うまでもありませんが、ここで説かれているのは好きなことをして嫌いなことをするな、ということではありません。むしろそのような好き嫌いの基準で行動せず、人の見ていないところでも己の行いを常に道徳と照らし合わせて慎み、勧善懲悪を徹底する姿勢のことを「誠意」と言うのです。そうすることで内面の徳が豊かになっていき、また周囲の人からも称賛され、その影響は一身に留まらず世にも広まっていくのです。

 さて。正心、誠意はなんとなく字面からイメージが湧きますが、次の格物・知致は少々わかりづらいところがある。けれど、言っていることは意外に簡単です。

 そもそも、道徳的に生きるといっても、その道徳のなんたるかがわからなければ為しようがありません。そこで誠意を実践するために、まずは物事の善悪についての正しい知識を獲得する必要がある。これが知に致る、すなわち知致です。

 善悪の正しい基準を確かめる手段、それが物に格る〔格物〕こと、つまり日常の現場で試してみて、その基準が正しいかどうか判定することです。現実に対応できない知識など意味がありません。実際に適合した活き活きとした知識こそ、儒者の求める知なのです。

 格物・知致とは、実際の経験を理論化して方法論を編み出し、それを現場で実践して、そこで欠点が発見されればそれを反省して理論へフィードバックし、方法論をより精緻にしていくという、つまりは試行錯誤の重要性を説いているのです。

 学問には理論と実践の両輪が必要なのだ、という姿勢は『論語』にも見えます。おそらく、この一節をみなさんも中学時代に耳にしたことがあるのではないでしょうか。

 子曰く、学んで時に之を習う。亦た悦ばしからずや。(『論語』学而第1第1句)

 一般的には、これは「先生に教えてもらって、自分で復習すれば、理解がより深まる」という意味で取られていますし、おそらくそれがスタンダードな読みなのでしょうが、私は「実際に経験のなかで学び、時にそれを理論的に捉え直すこと、これが学習するということであり、知るということの楽しさなのだ」という趣旨だと考えています。というのも、孔子は座学よりも実践を愛していた節が見られるからです。

 子貢、君子を問う。子曰く、先ず行え。其の言は而る後にこれに従う。(『論語』為政第2第29句)

 孔子の弟子の子貢が「君子とは何か」と説いたとき、孔子は「ごちゃごちゃ言わずに、まずは現場に当たってみろ」と言いました。孔子にとって学習のはじまりには経験が不可欠なのであり、座学はその経験を核にしてこそ活きるものだったのです。

 以上をまとめると、修身とは、現場に臨んでみることで現実と理論との整合性を確かめ、以て明確な善悪の知識を獲得し、それを基に善と悪とをはっきりと峻別して行動することを常に心掛け、喜怒哀楽に惑わされない正しい判断力を身につけること、このようになるでしょう。かくして「内なる流れ」のなかで高められた徳はやがて「外への流れ」となって周囲に波及し、やがて天下万民をも潤していくのです。

 ここにおいて、儒教の描く「人間存在(Human Being)」の像が浮かび上がってくる。人間とは、世界に調和をもたらすエネルギーである「徳」を世界に対して供給する存在、すなわち「徳」の発生源であると同時に「徳」と「天」とを結びつける媒介項なのです。ここで「徳」は、人格の高潔さを示す概念に留まらず、この世界が秩序を保って存在しつづけるために必要な宇宙的パワーにまで高められている。極端な話、儒教的宇宙観においては、人間の「徳」なしに世界は存続できないのです。この徳と天との密接な関係性を学び、以て己の使命(天下に平安をもたらすために君子となること)に目覚めた者が、真の儒者なのだといえるでしょう。

 ところで、正心・誠意と異なり、『大学』の文中には格物・知致を個別に説明をしている節がありません。儒教の経典はただでさえ文章量が少なめで、至る所に解釈の余地を残しているのですが、格物・知致の部分はその余地が格段に広い。ここに朱子は注目し、『大学』本文に抜けている格物・知致の説明を補筆しました。しかし、それは過去に喪失した文章を再現したのではなく、あえて自らの解釈を盛り込み、かくして儒教に新たな思想的展開を呼び込んだのです。

 少々長いので、まずは冒頭の部分のみ引用します。

 謂わゆる知を致すは物に格るに在りとは、吾れの知を致さんと欲すれば、物に即きてその理を窮むるに在るを言うなり。(『大学章句』伝 第5章補伝)

 先ほど解説した意味での格物・知致は、文面通りの、伝統的な解釈に従ったもので、実践と反省の試行錯誤のなかで善悪の知識を鮮明にしてくことを言いました。しかし朱子は、十分に一般化された知識を身につける(知致)ためには「理を窮むる」必要がある、と説いた。格物とは実践することではなく、物すなわち現実世界の森羅万象の根本原理をあますところなく窮めることだと解釈したのです。

 ここで、朱子哲学の特徴的概念のひとつである【理】について、多少の説明が必要でしょう。

 朱子はこの世に存在する万物にはすべて【理】が備わっていると考えました。この【理】とは、万物すべてに内在し、万物をふさわしくあらしめることでこの宇宙に完全な調和をもたらしている原理・法則です。ここで注意したいのですが、理は複数形で表されるものではありません。【理】は唯一無二の絶対的原理なのであり、これが万物の根底を貫くことで世界は紡がれています。当然ながら、人間にもこの万物に共通する【理】が天賦のものとして宿っており(天命の性)、秩序の根源であるこの【理】こそが絶対的善の指標となるのです。そして、人はみな生まれながらにして自らの内に宿る【理】を解し、そして善のなんたるかを知り、実践していこうとする性向を、すなわち仁・義・礼・智の徳目を尊び実現せんとする本性(本然の性)をもっていると考えたのです(いわゆる性善説)。

 ここで当然「ならばどうして、人々は悪事に手を染めるのか」という疑問が出てくる。それに対し、朱子は人の心は「気質」によって曇らされており、これが原因で本性が発揮できないのだ、と答えます。ゆえに朱子学における修身の、そして教育(ここではあまり取り上げていませんが、『大学』はそもそも大学教育の理念をまとめた書です)の目的とは、この気質を晴らし、人の純然たる本性に立ち戻らせることなのです。

 朱子学における格物とは、この【理】のはたらきを究明し、万物の秩序(善悪)を掌握することを言うのです。ここで、万事万物の正しい在り方(善)の原理である【理】が、人間存在のなかにも内在している、という点が注目される。【理】という万物を貫通する超越的・絶対的法則が人間の内にも潜んでいる。それを理解し、また従う性質も、人間には備わっている。とすれば、人は己の内側を奥へ奥へと突き詰めていくことで、いずれ【理】に至って天そのものと一体化できるようになるはずです。

 力を用うることの久しくして、一旦豁然として貫通するに至りては、則ち衆物の表裏精粗、到らざる事なく、而して吾が心の全体大用も明らかならざること無し。此れを物格ると謂い、此れを知の至ると謂うなり。(『大学章句』伝 第5章補伝)

 【理】を窮めようと研究しているうちに、いつしかすとんと突き抜ける瞬間がある。そうしてひとたび純然たる【理】に至ったならば、一挙にこの世界の本質を明々白々のうちに捉えることができ、そして自らの為すべき使命をも完全に理解するのです。そもそもからして儒教では人と世界との距離が非常に近くに置かれているのですが、伝統的な考えでは人は「内なる流れ」から「外への流れ」へと、一歩ずつステップアップしていくことで天へと影響を与えるものとされたものが、朱子学に至るや【理】を介して人は世界と結びついているとすることで、内面を窮めに窮め尽くしていけば、いずれ極が反転して、家や国を介さずとも己自身がそのまま天へとダイレクトにつながれるようになった。言うなれば朱子は先ほどのフローチャートの外側に、格物・知致と天とを相互に繋ぐ円環を築いたのです。

 朱子の論は、かくのごとく儒教に革新的な変化をもたらしたのですが、しかし儒教思想の根本的な部分、つまり人と天との共鳴関係は変わらない。朱子はただ、それをより押し進めただけだ、とも言えるでしょう。解説が長くなってしまったので、『大学』に関する私見はまた稿を改めようと思いますが、この儒教的宇宙観は、おそらく日本人の世界・国家認識とも無縁ではないように、私には思えるのです。
スポンサーサイト

0 Comments

Post a comment