民本主義――憲法の根底に流れる精神


吉野作造評論集 (岩波文庫)吉野作造評論集 (岩波文庫)
(1975/07/16)
岡 義武

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「民主主義を守れ」というスローガンは現代においてしばしば掲げられる。われわれにとって「民主主義」とは至高の価値を有する「なにか」であり、このことにもはや疑問の余地はないように思われる。

 しかし、いざ「民主主義とはなにか?」と面と向かって問われると、大概の人は言葉に詰まることだろう。実に民主主義ほど、普遍的な価値基準として認められながら肝心の中身はあやふやでとらえ所のない概念も珍しい。そこで今回は民主主義の輪郭をつかむ一助として、吉野作造が論じた「民本主義」の概念について簡単に整理してみたい。

 吉野作造と民本主義は義務教育の歴史の教科書でセットになって記載されているから、用語自体はある程度人口に膾炙していることと思う。ご存知、民本主義の概念は大正デモクラシーの隆興に一役買ったわけだが、しかし、その民本主義について述べられた論文の名称が「憲政の本義を説いてその有終の美を済すの途を論ず」ということを知る人はほとんどいないだろう。

 さて。論文のタイトルにもあるように、吉野は「憲政」のさらなる発展を期してこの論文を執筆した。ときに「憲政」とはなにかと問われれば「憲法を根拠に執り行われる政治」という答えがまず浮かぶかと思う。もちろん、この答えは間違ってはいないのだが、吉野曰く、憲政は「この外に他の要素をも加味して居るものでなければならぬ」(p.21)。

 憲法を法律の上位に立つ最高法規とするだけでは、憲政の健全な発展は見込めないのだ。「立憲政治は憲法の条文に拠って行うところの政治なると共に、またその精神に拠って行うところの政治でなければならぬ」(p.33-34)。制度上の取り決めを定めただけでは満足せず「憲法の精神」を理解してこそ真に憲政が行われる、これが吉野の主張である。

 では「憲法の精神」とは何か。憲法にも各国それぞれのお国柄が反映されているだろうが、しかしその根底に共通する精神がある。「しかして予はこの各国憲法に通有する精神的根拠を以て、民本主義なりと認むるものである」(p.35-36)。

 民本主義とはこの「憲法の精神の根本法則」なのである。すなわち「憲政の根底となすところのものは、政治上一般民衆を重んじ、その間に貴賤上下の別を立てず、しかも国体の君主制たると共和制たるとを問わず、普ねく通用するところの主義」なのだ。

 ちなみに、民本主義は「デモクラシー(Democracy)」の訳語である。現代では「民主主義」と普通訳するところで、当時もこちらの方が一般的であったようだ。もちろん、吉野もこれを知らないわけではなかった。知っていてあえて「民本主義」という訳語を充てたのである。

 どうしてか。吉野は言う。「予輩の考えうるところによれば、この言葉(デモクラシー)は今日の政治法律等の学問上においては、少なくとも二つの異なった意味に用いられて居るように思う。一つは『国家の主権は法律上人民に在り』という意味に、またモ一つは『国家の主権の活動の基本的の目標は政治上人民に在るべし』という意味に用いらるる」(p.37-38)。そして前者に「民主主義」の訳語を、後者に「民本主義」の訳語をそれぞれ充てたのだ。

 吉野の用法上、民主主義は人民が支配者であり、かつ被支配者となっている政体のことを言う。ここで真っ先に想像されるのは、古代ギリシャ的な直接民主政体である。とはいえ当時においても、古代ギリシャ的な民主主義が復古しうるし、またそうすべきだという論者は、ほとんどいなかった。吉野も「古代の国家に通用する観念を、直ちに今日の国家に当て嵌めることはできない」(p.37)と考えていたし、人民すべてが統治に関わるべし、という社会主義的な、いわば主権在民を額面どおりに受け取ったような民主主義思想を「絶対的または哲学的民主主義」と名付けて、これを「我が国などで容れられることの出来ない危険思想」とした(p.39-40)。

一方、吉野は主権の在処を「法律上の解釈の問題」として人民に帰しているだけの「解釈的民主主義」であれば、これを特段問題視しなかった。もちろん、当時の大日本帝国憲法第1条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるから「一天万乗の陛下を国権の総覧者として戴く国家においては、全然通用せぬ考え」であった(p.39)。だが、君主国であろうと民主国であろうと、「民本主義」という大原則に則って政治がなされていれば、法律上の主権の解釈など形式上の些事にすぎないと吉野は考えていたのだ。

 もちろん、だからといって吉野は絶対君主制や独裁制を是としたのではなかった。「今日は高度の文明を有って居る国においてはもちろんの事、それ程でもない国においても、専制的貴族政治は到底引き続き行わるることを得ない」というのが吉野の認識であった(p.13)。国民の知徳が発展していれば、もはや立憲政治に向かう流れを押し留めることはできない。つまるところ、主権在君でも主権在民でも、憲政の精神(民本主義)を遵守していれば、自ずと民選議院と責任内閣による代議政治へと行き着くというのが吉野の持論であった。

 主権が君主にあろうが人民にあろうが関係なく、近代各国が必ず守らねばならない政治原則、それが民本主義である。「民本主義とは、法律の理論上主権の何人に在りやということは措いてこれを問わず、ただその主権を行使するに当って、主権者は須らく一般民衆の利福並びに意向を重んずるを方針とす可しという主義である」(p.45)。だから、君主国だが民本主義的な政治を行っている国もあれば、民主国なのに非民本主義的な政治を行っている国もある、という事態は当然考えられる。主権在民は民本主義を必ずしも約束しない。民本主義的政治が行われる条件は、主権の在処云々にはないのだ。

 ゆえに、天皇主権の日本においても、民本主義は十分に適用されうる。あるいは吉野は日本の国体にも適合するように苦心した末に民本主義なるアイディアを築いたのかもしれないが、結果として民本主義は国体に関係なくあらゆる国家の「品格」を測る普遍的基準となったのである。

 民本主義は一般民衆の利福と意向を重んじよ、という政治運営上の大方針である。それは「政治の目的」を「一般民衆の利福」に置き、そして「政治の決定」を「一般民衆の意向」に拠らしめる。これが「民本主義の要求する二大要綱」である(p.51)。憲法とは、この精神を具現化するために国家に課された枷なのであり、憲政とは民本主義の実現を目的とする政治のことをいう。ゆえに民本主義の立場で見れば、憲法をただの「最高法規」という無機質な決まり事として見るのでなく、民本主義の精神の発揚として見なければならないのだ。

 昨今、憲法の改正が盛んに叫ばれている。憲法の改正は条文の書き直しに留まる場合もあるが、ときとして「憲政の精神」にまで変化が及ぶこともある。無論、時代に合わせて憲法もその精神も柔軟に変わっていかねばならないのかもしれないが、その根幹にある「民本主義」の大原則にまで手を出すべきではないと私は思う。ひとつの提案として、憲法の云々を語る場合、なによりまずは民本主義を確固たる軸として如何と測るべきではなかろうか。
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