どうして技術の進歩は人間に幸福をもたらさないのか

幸福をもってみずからの主要な探究目標とする文明は、挫折し、美辞麗句をならべる定めである。
  ――ル・クレジオ



私たちは今、高度な文明技術(テクノロジー)に支えられた社会に生きている。

地球の裏側にいる人とも人工衛星やインターネットを経由してリアルタイムに会話ができるし、飛行機に乗れば2日とかからず実際に会いに行けてしまう。医療技術の進歩によってたいがいの病気は治せるから、病に怯える心配も少ない。真夏のうだるような昼間も、真冬の凍えるような朝夕も、エアコンさえあれば快適に過ごせる。

産業革命の幕開けから、人類のテクノロジーは格段に、爆発的に進歩していて、私たちは「便利」で「豊かな」生活を享受している。テクノロジーが人類に与えた恩恵はとてつもなく大きく、いまや人間の欲望で満たせないものはないのではないかと思えるほどだ。しかしそうならば、現代ほど幸福な時代もないだろうと思うのだが、しかしみながみな幸せに暮らせているのかというと、どうもそうはなっていないようである。

「豊かな」生活を手に入れたはずの私たちが「幸福」になりきれていないのはどうしてだろうか。

端的にいえば、テクノロジーにとって人間の幸福の向上など興味の埒外だったからだ。テクノロジーが人類に豊かさをもたらしたのだとすれば、それは副作用的な、ついでの効果だ。テクノロジーのエートスはもっと別の、シンプルな指向性をもっていて、それは現在進行形で発展を続けている。

テクノロジーの向かっている方向を理解するにあたって、かつて私が行った山村の調査を参考に付したい。戦後の、高度成長期前あたりまで、その山村は燃料を森林の伐採や製材過程で出た木材を薪とし、水は山の湧水を家まで引き、あるいは当時の高級インフラだった井戸から得ていた。米や魚(乾物)はほとんど村でまかなえなかったので、定期的にやってくる行商から買っていたが、生活は自給自足が基本であった。

そこに、ガスや水道が導入されていく。村人はそれに食いついた。薪を確保するのも水を汲むのも、しんどい仕事であった。特に薪はともすれば半日から1日がかりの作業となり、「薪屋に薪がたくさん積んである家に嫁に行け(家族が働き者か、どこかから薪を斡旋してもらっている可能性があるので、楽ができるかもしれない)」と言われるほどであったから、栓をひねれば火を得られるガスは非常に重宝された。

さて、かくして山村の人々はつらい薪拾いから解放されたのだが、では空いた半日を寝て過ごしていたのかというと、そうではない。村人たちは、空いた時間に「奉公」へ出た。薪拾いをしていた時間を、工場などの賃労働に充てるようになったのだ。

薪は、教師や村の役人のような「俸給取り」でもない限り、お金を払って購入するものではなかった。自らの肉体を用いた労力を対価に手に入れる「無料」の代物だった。だが、ガスは山では手に入らないから、村の外から買ってこなければならない。農民は茶を換金作物として栽培していたから、それで現金は手に入ったが、ガスを利用するためにはもっと収入が必要となる。必然的に、人々はより多くの収入を得るために茶畑の面積を広げたり、工場に勤めて給料をもらったり、街まで出稼ぎに出るようになる。

現金収入が増えるようになるのと歩調を合わせるように、電化製品が次々と登場してくる。人々はガスと同様にそれらを購入していった。掃除も、湯沸しも、洗濯も、ずいぶんと手間が省けるようになった。家電製品が代わりに済ませてくれるからだ。人々は、かくして「苦労仕事」から解放された。しかし、そうして余った時間を家族と一緒に悠々自適に過ごしたのではなく、それらテクノロジーのもたらす生活水準を維持・向上させるために、さらなる現金収入を求めて「金になる仕事」へと割り振った。ときは高度成長期にさしかかっており、生活水準の向上→現金収入の向上→生活水準の向上という循環は自然かつ円滑に進み、かくして人々は格段に「豊か」になっていったのだ。

テクノロジーの進歩と、その産物である様々な製品はとても「便利」であった。だが、どういう意味で「便利」だったのだろうか。それに答えるためには、テクノロジーの企みを把握しなければならない。

先の山村の例では、ガスの登場によって薪拾いにかける時間が減り、その分「余分な時間」が発生した、ここが重要だ。テクノロジーが成そうとしていることとは、つまり「時間の圧縮」である。いままで半日かかっていたことを、栓をひねるだけで可能にすることである。また一方で、それは「時間の製造」でもあった。電灯の登場によって、人間は眠ることしかできなかった夜を自らの活動時間として開発したが、それでも1日は24時間で、これを25時間にすることはどうあってもできない。そのため、時間を確保しようと思えばその限られた時間内でできることを増やすしかないのだ。かくして、ひとつの作業にかかる時間を可能な限り圧縮していく方策が採られることとなる。
 
テクノロジーの創造する文明の利器は、人間が活動に費やす時間を圧縮する。「文明的」なあらゆる製品が、まさにその目的にそって開発・製造されている。携帯電話、パソコン、自動車、冷凍食品etcetc……そして私がいま文章を打っているこのワープロソフトだって、従来であれば数倍かかっていたであろう作業時間を著しく短縮している。しかしそれは、人間の費やさなければならない労力の総量が減少したということなのだろうか。

答えは否である。

先の山村の例のように、人々は圧縮して空いた時間を別の生産労働に充てなければならない。「ならない」といったのは、時間の圧縮はタダではなく、相応のコストがかかるからだ。電気、ガス、水道は料金を支払わなければ利用できない。家電製品は自分で作れる代物ではないから、これも当然買うことになる。テクノロジーによる時間の圧縮コストは利用者が支払うことになるから、文明的な生活を維持するためには収入を得なければならず、そのため人々は時間の圧縮によって余った時間を「金になる仕事」に振り分けなければならなくなったのだ。テクノロジーには、人々をさらなる生産活動に駆り立てるシステムが内蔵されているのである。

「便利になった」とは「労働にかかる苦労が減った」ことを必ずしも意味しない。薪拾いにかかっていた時間や労力はガスによって帳消しになったのだから、「火を手に入れる」ための作業量は大幅に減少した。しかし薪拾いに費やしていた労力は、ガスを購入する資金を手に入れるための別の労働に投入される。また、テクノロジーの進歩により生まれる製品は、その製造に高度な技能を求められるため、労働者はそれに見合う高度な能力を要求される。テクノロジーが進歩すればするほど、人間は労働にのめりこんでいく。だからいかにテクノロジーが発達しても、労働にかかる人間の労苦が減ることはなく、また別の種類の労苦が降りかかるだけなのだ。

かくして、文明の利器を受容していくことで、労働の質も規模もますます増大していくこととなり、ひとりの人間にかかる負担はともすれば「便利」になる以前よりも重くなっていく。いまや時間の圧縮はだれもができて当然の技能となっており、適切な圧縮法を学ばなければ社会活動に困難をきたすほどである。この圧縮法はテクノロジーの発達とともに日進月歩していくのだが、人々はこれになんとしてでも追いついていかねばならない。なぜなら、最先端の圧縮法を駆使する者とは時間をより効果的に、つまり他の生産活動に転用できる者のことであり、かの者は大きなアドバンテージを得るからだ。また、新たな生産は往々にして先端のテクノロジーをもって行われるから、人は絶えず情報を集め、技能や知識を身に着け、「成長」していくことを求められる。

資本主義社会に生きているわれわれにとって、新たな生産の拡大は至上命題である。そのためには限界まで時間を圧縮し、より利益の上げられる分野に時間を投入しなければならない。ところで、新たに生産される製品もまた「文明的」である以上、その製品の実務的効用は「時間を圧縮できる」ことにある。ここに果てなき循環が生じる。われわれは、われわれの時間を圧縮して、余剰分を新たな生産に費やすのだが、そうしてできあがった製品は、さらなる時間の圧縮のために用いられる。生産のための時間の圧縮なのか、時間の圧縮のための生産なのか、それを問うのはもはやナンセンスになりつつある。どちらが手段で目的かという明確な因果関係は存在せず、ただ自己目的的な相乗効果のみが、行くあてもなくただ発生している。

これがテクノロジーの発達の末に文明社会が行き着いた先端の様相である。

テクノロジーはひたすらに時間を圧縮し、人々の時間はますます濃密になっていく。1分1秒の価値は天井知らずに騰貴するから、時間を「有意義に」用いるよう、人々は社会から催促され続ける。ただ、その「有意義」というのも、つまりは時間の価値をひたすら高める方向に作用するから、結果的にストレスもまた大きくなる。では、そこまで時間を濃縮していったい何をしたいのかというと、そのような理念はとうの昔に潰えているのである。

現在、物質的富の増大はそれほど人の興味を引かない。人々の主たる欲望は、時間の圧縮を可能にする「実体のある」製品から、快楽のための記号の消費へと移り変わりつつある。しかしながら、時間を圧縮しようとするテクノロジーのプログラムは依然として機能しており、いまのところ私たちはこれに追随することを余儀なくされている。だが、それはひとりひとりが濃密な、生産性の高い時間を過ごすよう強いられるストレス過大な世の中であり、その社会的病理はうつ病や引きこもり、自殺者の増加というかたちで端的に現象している。

われわれは「豊かさ」のために、あるいは「豊かさ」によって社会的ストレスを増大させてきた。テクノロジーのストレスはこれからも留まるところを知らずに増大するであろう。だがはたしてそれがわれわれの望みなのか、われわれの幸福は豊かさと生産のなかにあるのか、これを常に問わねばならないだろう。
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