汝、此の林檎の赤を知れるか

「汝、此の林檎の赤を知れるか」

ある男が、机上に林檎を置いて言う。
林檎は、赤い。赤く見える。ならば、この林檎は赤い。
当然のことである。
この男の問いは愚問だ、ほとんどの者はそう断ずるであろう。

敢えて答える。

「此の林檎は『赤い』、ゆえに我は赤を知れる」と。

しかし、男は重ね問う。

「然らば此の林檎の『赤』とは何か」

赤く見える、だからこの林檎は赤い、なれば、その言うところの「赤」とは一体何ものか。

赤いとは、喩えば秋深まった木々の葉の如き、肉体に流れる血潮の如き、夕暮れに沈む陽の如き色のことだ。いずれもわれわれは赤いと言う。だが各々の赤は同位の赤か。いったい何の赤が真正の赤なのか。

1に1を足せば2である。2に種類などない。2は2であり、2でしかない。2は、唯一ひとつの2である。同様に、赤は赤であり、赤でしかないのか。唯一ひとつの赤なるものがあるのか。

此の林檎を「赤い」と言った。「此の林檎」と「赤」とを[=]と見なした。しかし、われわれは「赤」なる色を知っているのか。われわれはかくも種々雑多な物ばらを、無節操に赤と呼んで憚らないのだ。ぼんやりと「赤っぽい」ものならば赤と言ってしまうのだ。

此の林檎を「赤い」と言った。だがわれわれは「真正の赤」を知らない。赤とは何かと問われても、それは紅葉の如き、血潮の如き、夕陽の如きと応ずるよりなく、だがいずれの赤も異なる赤である。いったい赤が何かをわからぬままに、此れを赤と断ずるのは如何か。

また秋過ぎて冬近寄れば葉も枯れて落ちるように、血も肉体を離れれば黒ずむように、夕暮れもいずれ夜に染まるように、そのものの赤は、刻々と相貌を変化させる。では何時の赤がそのものの赤なのか。

そもそも色とは物に反射した光の波長だ。光の当たり具合でいくらでも見え方は変わる。此の林檎も、光度を上げれば白っぽく、鮮やかな赤となろう。逆に下げれば黒ずみ、くすんだ赤となろう。だがどれも赤い、なればどの明るさの赤が此の林檎の赤なのか。

此の林檎を「赤い」と言った。だが、その赤が林檎そのものの色なのかは知れない。時と場合で色は様相を変えていく。常に移り変わっていくそのものの、いったいどれが真の姿なのかわからぬままに、此れを赤と断ずるのは如何か。

即ち。われわれは「真正の赤」を知らなければ、「林檎そのものの赤」も知らない。

何故か。
そのようなものは存在しないからだ。

即ち。色には実体がない。

赤と黄色の境目は曖昧である。赤と橙の境目も曖昧である。赤と赤の境目も曖昧である。

色の境界は茫々として定まらない。赤を赤とだけ区切って切り分けようとて無駄である。いったいどこまでが赤なのか、知れるものなどおらぬのだ。ゆえに、赤は人が「赤い」と判じた時に「赤くなる」。そもそも赤いから、人の目に赤く映るのではない。赤なる色は存在しない。存在しない色を、われわれはその場その時の具合に拠って赤と断ずるだけだ。

思い違いをしてはいけない。われわれは、われわれの前に現れたそれを、あたかも実体があるかのように受け取ってしまっている、まずもって実体があり、実体があるからこそ、それがわれわれの前に現れるのだと思い込んでいる。林檎は林檎そのものが赤いからこそ赤く見えるのだと思っている。

人間の高度な認識能力がかくなる錯覚を生んでいる、

だが、林檎の赤を実体とするのは、概念を実在視するようなものである。イメージを具現化するようなものである。赤なる色は幽霊のような代物である。光の具合、角度、周囲の色彩、見る者の眼球の性質等々、周囲周辺の要素要因が複雑に絡み合って現象するのである。現象するのであって、実際にそれがあるのではない。ゆえに赤がただそれのみで、独立自存で現れるなどということはない。様々な条件の複合によって、その場その時限りに現れるのである。

何色というものがあり、それが現れるのではない。現れたものをわれわれが勝手好みに「何色」と呼んでいるに過ぎぬ。

色は空っぽなのである。

然らば、かの男に対し、われわれは「此の林檎の『赤』は知れない」と返すべきなのか。

だが「此の林檎の赤」である。「此の」というこの一言をよくよく参究せねばならぬ。

色は空っぽである、実体がない、ゆえに赤なる色は存在しない、しかしながら、われわれの目の前の「此の林檎」は、われわれの目には赤く映っている、赤く現象している、この現実が生々しくわれわれに迫ってくる。

「此の林檎の赤は知れない」と答えたとき、此の、いま現れ出ている赤を如何とするか。まさしく赤と認めている我自身を如何とするか。現れを否定してしまえば、それはまさに、この刹那に現れ出ている世界を拒むこととなろう、さすれば、そこには虚無しか残るまい。

空っぽであることと、虚無であることは、しばしば混同されてしまうが、まったく似て非なるものである。真逆であると断じてもよい。空っぽであるからこそ、此の世界が現象するのである。空っぽであることが世界の真相なのである。何かに満たされた世界とは、きっと有限なのだろう、そして満たされた世界では、何ものも身動きが取れまい。空っぽであるからこそ、世界は無量無辺の拡がりをもちえるのである。

虚無に陥ってはならない。此の・いま現れている世界を拒んではならない。「此の林檎の赤」を否定してはならない。此の林檎は赤い、赤く見えている、赤く現れている、その赤を「無」に帰してはならない。

「汝、此の林檎の赤を知れるか」

と男は問うた。

問われればそれに答えようと、試験問題に慣れ親しんだわれわれは真っ先に考える。だが、問いに必ず答えがあるわけではない、答えることが常に正しいとは限らない。導きとしての問答がある、誘いとしての思推がある、目醒めとしての究めがある。

知れると答えるか、知れぬと答えるか――是か非かでは、この問いには応じ切れない。是でも非でもないのだ。是と答えても非と答えても、そこには驕りが紛れ込んでしまう。強いて答えれば「不知非不知」である。「知らず、知らずにあらず」である。二重の否定に潜らせてはじめて実相が垣間見える。

「知らずにあらず」といって、それは「知れる」ということではない。マイナスとマイナスをかけてプラスになるような、慣れ親しんだロジックから離れねばならぬ。明明赫赫とした答えを期待してはならぬ。二重の否定により、知れると知らずの半ばに漂わねばならぬ、白か黒かに偏ってはならぬ、その中ほどの道を往かねばならぬ。世の現れは幽玄の奥底より生じるのである。

さて。

色には実体がない。空っぽである。ゆえに単体で存することはない。諸々の要素が相依り合って現象する。縁によって起こる。

このことを、この世のすべてに敷衍せなばならない。この世のすべてが色の如く現象していると看破せねばならない。「我」なるものもまた例外ではない。我もまた色の如くと思いなさねばならない。

我は我である、I am I である、確固たる我である、それはしかし妄想なのである、フィクションなのである。自我が有り、彼我が有る、それは我なるものを独立自存と見なすことである、だが単体で在るものなど存在しないのである。主客を裁断できる境界線などこの世にはないのである。さらに、心は心臓にあるのでも、脳髄にあるのでも、内にあるのでも、外にあるのでもない、いうなれば遍く心なのである。

すべては渾然一体となって現象する。否。現象してしまう。現象してしまうことを妨げるものはなにもない。そして現象しているということにおいてあらゆる存在は平等である。この現象しているということ、乃至は現象の現れ出でることをば「仏」という。仏とは実在物ではない、空想上のキャラクターではない、現象ですらない。おおよそ語りえるような代物ではない、故に上記の説明も不足である、あるいは言い過ぎである、仏を解する丁度良い塩梅の言葉などないのである。

それでも、敢えて最後に語ろう。

仏の慈悲とは、現世が、乃至われわれがかく現象していることである。悪人ですら、この世に存在している。道徳上の善悪を超えて、現象はかく現象し、存在はかく存在している。だれもがなにもが現象するままに現象し、だれもがかれもが現象することそのことを妨げられることはない。

即ち。不生不滅である。一切衆生悉有仏性である。

即ち。仏とは、此れである。
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