コミュニティは必要に応じて構築される

日本の財政を考える
http://www.zaisei.mof.go.jp/theme/theme5/

以前、塾の講師をしていたとき、小学生の公民の授業でしばしばお世話になった財務省のページ。で、この「一般会計歳出中に占める国債費等の割合の推移」(http://www.zaisei.mof.go.jp/theme/theme5/)はほぼ必ず一度は生徒に見せていたのだけれど、このグラフから「国債費と社会保障関係費の割合が増えている」ことが読み取れればひとまずOK。ではさらにもう一歩。日本の予算は年々増加傾向にあるわけだが、このまま推移したならばどんな事態が起こると考えられるか。

これは答えのない「自由回答」だから、生徒は自分のもっている知識をフルに使っていろいろな意見を出すのだけれど、「社会保障関係費が財政を圧迫しており、国債費の増加によってそれを補っている」ことから「将来的には現状水準の社会保障サービスの維持は困難」であり、「サービスの質・量をコンパクトにしなければ、やがて国家財政そのものが破たんする」と予想するのが模範回答だろう。

子どもに夢や希望のない話をするのは、世間的にはNGらしいが、私はやや大人げなく「君たちが大きくなるころは、今ほど国が手厚く守ってくれることは期待できないよ」と教えていた。年金の支給額は減るだろう。医療費も高くなるかもしれない。学校だって、もしかしたらタダじゃなくなるかも。子どもを大学に行かせるのも、きっと「ふつう」じゃなくなる。

そうした「今後到来するであろう社会情勢」を見据えつつ、それへの備えや心構えを事前に行い、然る後にあるべき社会像を思い描く、それが「社会科」の積極的な役割だと、私は勝手に考えていた。

さて。こちらの方が「社会保障全体主義」ということを仰っているのだが、少々「過激な」用語だなと思うものの、社会保障費を「削る」ことへの抵抗感は国民だれしもが抱いているのではなかろうか。http://blogos.com/article/71758/

社会保障費を削るとは、つまりその分、サービスの質が落ちる可能性があるということであり、それは「国民の生命をないがしろにする」行為だと批難されやすい。だが、先のグラフを見てもわかるとおり、現状のサービス水準は将来世代が享受する行政サービスの質を潰して手に入れているもので、料金(納税額)以上のサービスを提供しろと訴えるのは、俯瞰してみればこれほどの「我儘」はないのだけれど、こと人の生命がかかるとなかなかそうも言い出せない。これを戦中の空気になぞらえて「全体主義」と形容するのもむべなるかな。

で、当の厚労省は「自助・共助・公助それぞれの考え方の整理と役割分担の明確化を図る」ことを今後の目標のひとつにかかげている。要は、「もう国にはお金がないから、基本は民間ベースで、大事なとこだけ国がカバーするよ」という社会保障体制を目指している。「ゆりかごから墓場まで」はもう無理だから、足らない分はみんなそれぞれでなんとかしてねと国が表明しているのだ。

これを「無責任」と断じる図々しさを、残念ながら(?)私は持ち合わせていないのだが、こういった事態を背景として「コミュニティの復権・再興」を図る動きは、全面的に正しい。国が頼りにならない以上、自分たちで助け合って生きていかねばならないと考えるのは至極当然であろう。

とはいえ、コミュニティを「人間同士のあたたかな絆」によって結ばれた「人間性回復の場」のように思い描くのは、結果であって目的ではないと思う。あくまでコミュニティは「生活共同体」であって、各構成員間の濃密な人間関係は相互扶助の担保である。つまり、「あたたかな人間関係のために」コミュニティがあるのではない。「生活の必要に迫られて」できるコミュニティにあって、その体制を支えるために濃密な関係性が求められるのだ。ゆえに、田舎暮らしをした人ならばイメージしやすいと思うが、コミュニティは人間を閉じ込める「檻」にもなるし、人によっては耐え難い苦痛を感じる場となる。

おそらく、コミュニティ(生活共同体)の構築が活発化するのは、今少し先のことになると思う。今のところ、人々の生活はそこそこ「豊か」で、公的サービスもなかなか行き届いているから、コミュニティの必要性を感じている人は少ない。しかし、公的サービスの縮小は目下宿命となりつつある。また、社会保障費の削減が一向に進まないままだと、ギリシア並みの「ハードランディング」が発生する可能性がある。それに備えて、あるべきコミュニティの姿を一考するのも無駄ではなかろう。
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