リスクとは何か ~土方透、アルミン・ナセヒ(編)『リスク 制御のパラドクス』~


リスク―制御のパラドクスリスク―制御のパラドクス
(2002/01)
土方 透、アルミン ナセヒ 他

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 福島第一原発がますますのっぴきならない事態に発展していっています。今さらになって私たちは、この原子力発電のもっていた危険性を最悪な形で実感してしまったわけですが、私は原子力の専門家でも、いわゆる理系でもないので、自衛隊や東電職員のみなさんの冷却作業が成功するかどうかとか、どれくらい避難すれば被曝しないかとか、そういうことはわかりませんので、そのことについては専門家の方にお譲りいたします。

 ここでは、原発をはじめ、私たちの社会には様々な「リスク」が散りばめられているんじゃないか、という認識を多くの方が持ち始めているように思いまして、そこで今後私たちが嫌がおうにも向き合わねばならず、そして考慮の内に入れておかねばならない「リスク」という概念について、土方透、アルミン・ナセヒ(編)『リスク 制御のパラドクス』をもとに、簡単にまとめていこうかと思います。

※そこはウルリヒ・ベックだろ、というツッコミもあると思いますが、そっちはけっこう有名ですし、そしてなにより文献が手元にないので(汗)

 では、本書における序文(著者・土方透)より、リスク概念の簡単な定義について。

 土方は人類の歴史を「制御不能なものを制御可能なものへと変換」してきたものだと言います(p.11)。これは歴史的・経験的にも納得できる話でしょう。自然災害、疫病、飢餓。これらは根絶されたわけではないにしろ、その危険性は近代以降劇的に減りました。近代とは、われわれの周囲に漂う死の恐怖をその科学技術や福祉制度によって克服していった時代でもあるのです。
 
 このエートスは、人間にとっての「危険」は制御可能なものである、とする観点を生み出します。ここに「危険」に代わって「リスク」という概念が出現する。この「リスク」とは、私たちが征服すべき対象であります。「それ(危険」は外部的な力として受け入れる対象ではなく、われわれに課せられた『リスク』として、人類の知恵をもって対峙・対決すべきものとされるのである。天災は予見能力の不足、対処能力の不足から人災として、社会的な事件は不備として、運命は人間の怠慢として理解される。このような意味で、まさに社会はリスクに満ち溢れているのだ。そして、すべては解決されなければならない」(p.12)。
 
 土方は「危険」とはわたしたちに認知されるものでも、予期できるものでもなく、突然私たちに降りかかってくるものとします。これに対して「リスク」は解決されるべきものとして、私たちにすでに認知されてる「危険」のことを言います。私たちは目前にあるリスクに対してどう対処すべきかの「決定」を迫られるわけですが、この現時点での「決定」が、将来的なリスクの解消にとって最善の選択であるかどうかはわかりません。あるリスクに対して下された最も合理的な、あるいは最も民意を得た対処が、はたして将来のリスクを実際に軽減ないし消滅せしめるか、それは人間に未来予知の能力がない以上、けっしてわかりえません。「リスクは時間の問題であり、未来の問題である。現在の決定が未来を拘束するからである。このように現在の決定のなかに未来の損害可能性を見定めることが不可能である以上、リスクに対する決定はいつもリスクをはらむこととなる」(p.13)。

 リスクに対する決定はいつもリスクをはらむ。リスクという概念を用いるにあたって、これはとても大事なポイントです。「リスクは決定をもって処理される。決定そのものがリスクを生みだす。リスクに対処するあらゆる企てが、あらたなリスクの原因となるのである。パラドキシカルにいうならば、『安全』こそリスクである。確実なるものを目指すことによる不確実性の導出である」(p.13)。いわばリスクは人間の決定によって自己増殖するのです。

 ここで、私たちのもつ近代合理的態度――ある運命に抵抗し、自ら運命を切り開く主体というあり方に疑義が浮かび上がります。というのも、先にも述べましたとおり、リスクに対していかに合理的な決定で応じたところで、それは新たなリスクの発生に繋がってしまうからです。そして新たなリスクへの対処がさらに新たなリスクへ接続される。そのため、いかなる決定もリスクを解消するには至らず、またある決定によるリスクは、他の決定可能性が示唆されうる以上、その決定のリスクを問い返される可能性に曝されることとなります(このあたりはデリダの正義の概念につながるものがあります)。「決定不可能性が決定の根拠となる。それを承知でリスクを処理しなければならない」(p.15)。リスクを語るにあたっては、このようなリスクの特徴を把握しておく必要があると思います。

 さて、読書ノートと言いつつ申し訳ないのですが、以下はリスク概念に対する私の考察でございます。

 決定そのものがリスクなのではないか、と見るのは可能でしょう。そうしますと、では私たちはあるリスクを認知した際、それをいかに処理するかの合意や了解を得ることは可能なのかという問いがあらわれます。なんとなれば、わたしたちはリスクを解消できる確実な方法など持っていない、と気付いてしまっているからです。つまり、理性という基準が当てにならない以上、ある決定の正当性はどうしたら計れるのか、ということです。この決定困難さもさることながら、このリスクの特性が示しているもうひとつの厄介さは、わたしたちはわたしたちの決定の「責任」は、確実な外部的理論や技術にではなく、自分たち自身に直接フィードバックされるということです。このことを社会学では「再帰性(flexibility)」と呼びます。合理性が確実性に結びつかない以上、私たちが下した決定は理性を初めとする外部的基準に責任を押し付けられないまま「今」に結集する。つまり、私たちに直に跳ね返る。「正解」がないのですから、現在時制に起こった出来事は私たちの――それこそ、地球規模におよぶ「われわれ」の「責任」となってしまうのです。

 リスク概念は、人間があらゆる出来事に対して「無関心」でいることの不可能性を残酷なまでにわたしたちに突きつけます。人間が、社会が、ある一本の正しい階段を上っていける、という幻想はとうの昔にかき消えましたが、その先に拡がっていたのはグローバルなコミュニケーションの発達により、自分と自分の行為が世界へと直接接続されるようになった、そういう世界でした。悲しみに泣き暮れる子どもの声が私たちの鼓膜を打つ世界。飢えで生気をなくした人の眼が私たちの心を貫く世界。故郷を追われ、生活の場を失った人々の孤独と絶望が胸に響く世界。それも直接的に、わたしたちに向けられたものとして。この「責任の高負荷」状態のなかで、わたしたちはいかに生き、いかに世界へ向き合うべきなのか。この困難な問いに私たちは挑まねばなりません。
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