戦後民主主義の夢

非政治化をめざす統治集団によって構成された政府に対して、全体主義的総政治化をもって対抗する勢力が一種の野党として対立し、両者が一定のバランスをとっている状態を民主主義と呼ぶ。

――山本七平



東日本大震災とその後に発生した原発事故。このときまで、おそらくほとんどの東京都民は「福島の原発で生産された電力が東京に送られている」ことなど知らなかっただろう。その後ろめたさか、あるいは被災地に「無関心な」都民への苛立ちからか、「東京都民の責任論」が湧き上がった。福島の原発で生産された電力は福島でなく東京で使用されているものだ、ならば原発事故は東京都民にとっても無関係ではなく、むしろあの事故の責任を取らなければならない云々。

「東京都民の責任論」は、都民すべてが原発について考えることを請求し、都民は原発について「自己批判」することを求められた。これに無関心を示すことは「無責任」なこととされた。なるほど、道義的には正当であろう。しかし、ここには日本の戦後民主主義が、あるいは市民社会派の知識人や活動家が夢見た「真の民主主義社会」の虚像が映り込んでいる。

この「東京都民の責任論」は一見もっともではある。だが「贖うのできない罪」を押し付けているという点で責任論としては不毛な部類に入ると言わざるをえない。だが、このことはむしろ責任論の発信者の意図するところである。なぜなら、これは都民を「政治化」すること、政治的に「思考・行動する主体」とすることに主眼があるからだ。そのためには、永久的に解消されない負い目――罪の大きさ故にではなく、罪の正体が不明であるが故に――を押し付ける方が効果的である。その間、都民を政治化させ続けることができるのだから。

この責任論のみならず、これはおよそ戦後民主主義および市民社会の確立を目指す活動家諸子が、意図する・しないに関わらず採用してきた手段である。かれらにとっての「理想社会」とは、すべての人民が政治化していること、すなわち世の中の問題について思考・行動している状態のことを指す。またかれらにとり、これこそが民主主義の要件であり、市民社会の礎であるから、この実現なくして日本は真に「民主化」することはないとみなされる。

おそらく戦後世代のほとんどが、この「理想社会」を特に違和感なく「善」とみなし、また「民主的」と感じるのではないだろうか。日本では長らく、「政治化された国民(=市民)で構成される社会」こそが目指すべき目標として掲げられており、日本国民の意識には「民主的な社会」=「人々が政治化された社会」という構図が深く刷り込まれているように思われる(余談だが、政権交代時の民主党が唱えていたのも、この「理想社会」の実現であり、マスコミはこれを大々的に歓迎した)。けれど、はたして人民すべてが「政治的である=思考・活動している」ことが民主主義的なのだろうか。むしろそれは「全体主義」的と言えないだろうか。

「東京都民の責任論」は、都民が原発について思考・行動しないことを、非政治的であることを糾弾するものであった。なおかつ、ここには密かに、原発に反抗しない者への非難が混じっている。往々にして「これこれが問題だ」とある人が糾弾するときは、すでにその人のなかでは「そのため、みながこう考え、こう動かなければならない」という結論が出来上がっているものだ。その場合、かの人にとって「これこれが問題だ」というのは「みなが私の考えるとおりに思考・行動しないことが問題だ」とほぼイコールである。

原発事故で苦しんでいる人たちがおり、その責任の一端を都民が負っている、それでもなお原発を擁護するというのは、道徳的・感情的にはとても了解できるものではない。この責任論は、まさにこの道義的責任をこそ突くものであった。すなわち、最初から「原発の是非」を問うものではなく、「原発の非」を都民が認めないのはけしからんと詰め寄るものだったのだ。要するに、この責任論もはじめから「結論ありき」だったのである。

「政治化」とは、価値中立的ではありえない。むしろその発生したその時から徹頭徹尾イデオロギー的な代物である。戦後民主主義・市民社会が理想としたところも例外ではない。これらが理想とした「政治化した人」とは、つまるところ、自分たちの「正しい」イデオロギーに従う人のことに過ぎない。そして、すべての人々が「正しい道義」に目覚め、すべての人々が正しく思考・行動し、これに反対する声が、さらには、この問題に無関心な不埒者が存在しない社会が誕生すること、これが真の理想なのである。ある問題について考えたり、活動すること自体が良いのではない。その問題について「正しく」考えたり、「正しく」活動すること、すなわち「正当なものに従っていること=主体的であること」を求めるのである。それ以外の思考や活動は「非政治的」あるいは「異端」であり、主体たる資格がないものと見なされる。「東京都民の責任論」はこの延長線上に位置づけられる。

ときに、指摘するまでもないが、この究極は社会主義国家の理想形と同形である。あらゆる人民が、あるいはあらゆる生活領域――経済・音楽・芸術・家族等々の細目に至るまで政治的であること、すべての人民が「主体的に」――正しい道理に従い、またその実現のために活動していること、これらをこそ社会主義は望んだのだった。このなかにあっては、政治的であるとは、すなわち常にすでに「正しいこと」であるから、もはや是非の問題など存在しない。すべてが「正しいこと」に則って秩序化されている、これを「全体主義」と定義するなら、戦後民主主義は戦時中の「全体主義化」――最も、大日本帝国にいわゆるファシズム的全体化はおそらく存在していなかったのだが――を批判しつつ、民主化を指向しながら、その実は別の「全体化」で塗り替えようとしていただけなのかもしれない――かつて日本のマスコミが文化大革命を称賛したのは、まさにあれが、人民総政治化を推し進めることを理念として発動された「真に民主的な試み」と映ったからであろう。

とまれ、人民総政治化を以て完成する「戦後民主主義の理想形」ないし「日本的市民社会」は、民主主義国家であればどこでも陥るジレンマではある。結局、政府を批判するためには、民衆を動員するより他なく、より多くの民衆を「政治化」するという戦略を採らざるをえないからだ。故に、民主主義国家は「全体化への誘惑」を常に抱えていると言えるのかもしれない。

では民主的とはどういうことか――少なくとも、人民の政治化程度でこれを測るのは間違いだろう。それは常に「誰かにとって都合の良い政治化」であって、民主主義の兄弟たる自由の精神に反する。結局、民主主義とは「民衆の利益を第一に統治すべし」という統治原則であり、基本的には統治者の心得以上のものではないのかもしれない。民主政は権威の源泉を国民に置き(主権在民)、それに選ばれた者に権力を授ける政治体制であり、この統治原則の貫徹を要求するものであるが、これ以上のものではない。つまるところ、民主主義は基本として「国民の承認を得ない者には統治を任せず」の体制であって、民主的とはこれが守られているか否かを指すのみであり、それ以上の意味内容を与えるのは蛇足なのかもしれない。
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