国語の授業における文学の扱いについて

人が心情倫理の準則の下で行為する――宗教的に言えば「キリスト者は正しきをおこない、結果を神に委ねる」――か、それとも、人は(予見しうる)結果の責任を負うべきだとする責任倫理の準則に従って行為するかは、底知れぬほど深い対立である。

――マックス・ヴェーバー『職業としての政治』より


たぶん、学校で教わる5教科のうち、国語はもっともないがしろにされやすいのではなかろうか。

日本で生まれ育ったものなら、日本語に不自由することはないし、漢字は何度も練習しないと覚えられないけれど、文章問題はどちらかというと「センス」が重要で、鍛えてどうにかなるようなイメージではない。極めつけは古文・漢文で、将来の役に立ちそうもないことをどうして勉強しなきゃいけないんだと、だいたいの人は思っていた(いる)ことだろう。

私は文系の学生だったけれど、国語や現代文の授業はほとんど寝ていたか、内職に励んでいた気がする。それでもテストの点数はけっこう取れていたから、罪悪感なんてこれっぽっちもなかった。だから、国語の授業の印象や記憶はほとんど残っていなくて、それでふと疑問に思ったのだ。

そういえば、国語で「文学」をどう教わっていただろう? と。

夏目漱石の『こころ』、森鴎外の『舞姫』、芥川龍之介の『羅生門』――今はどうかも知らないけれど、このあたりは国語教材の定番だから、国語の授業で読んだという方は多いのではなかろうか。かくいう不真面目学生の私も、これらの作品が国語の教科書に載っていたことは覚えている。

で、こういった文学――特に、人間世界の現実をありのままに表現しようとする「自然主義」文学の扱いがふと気になったのだが、というのも、国語の教材になる物語は、概ね勧善懲悪の図式が固まっていて、問題として出題されるときは、読解云々よりも、一般的な「道徳」をわきまえているかどうかが試される。だから、世間的にどういう感情を抱き、どう行動するのかが正しいのかがわかっていれば、答えを大きくはずすことはあまりない。

けれど、自然主義文学は、そういう善いや悪いで一刀両断できるような作品ではない。むしろ、人生はそんな善悪で割り切れるようなものではないという現実を、もしくは世間的に評価される徳目がはらんでいる矛盾を、白日の下に晒そうとするものだ。だから、自然主義文学は「道徳」的な教材としては不適当だ。

かといって、自然主義文学は国語の教科書に載せるべきではないのかというと、そうではない。自然主義文学は、道徳ではなく、倫理を読むものに喚起させるという点で非常に優れている。つまりは、人間は善ばかりを選んで生きていけるほど完全な存在ではないし、そもそも「最善の選択」なんてものもないのだから、ただ自らの選択とその結果を引き受けていくしかない――そういう「責任倫理」を感覚的につかんでいくには打ってつけだ。

それを、他の物語文と同様に「勧善懲悪」の図式で読んでしまうと、いろいろと台無しだ。『こころ』の先生、『舞姫』の豊太郎、『羅生門』の下人、いずれも読むものに嫌悪を抱かせる登場人物だろうけれど、では彼らや彼らの行動を「悪」と断じて、「こんな大人になっちゃいけませんよ」と先生が教えたならば、その生徒は人の世の残酷さと、それを引き受ける覚悟を養う機会を逸することになるだろう。

そればかりではない。自然主義文学の読み方・教え方を一歩間違えば、その生徒は善悪のモノサシだけですべてを測る、ひどく偏った人間に育ってしまうかもしれない。もしくは、文学が突き付ける人の世の現実に耐えかねて厭世的になり、生きる活力を失ってしまうかもしれない。理科の実験では、火傷の恐れがあるとか、危険が少しでもあれば、先生が口をすっぱくして生徒に注意を促すけれど、文学も先生が慎重に扱わなければならない危険物なのではあるまいか。

……と私は思うのだけれど、いかんせん過去の記憶があまり残っていないので、実際どう教わったのかさっぱり覚えていない。一回朗読しておしまい、そのくらいの扱いだったように思う。けれど、先生の腕次第で、生徒たちに忘れられないようなインパクトを残す教材になるのではないか――取扱いによっては、最悪のかたちで。

ただ、上記のような心配は杞憂かもしれない。ほとんどの生徒は、もしかすると先生も、国語の授業にそこまでの熱情を注いでいないようだから、だれもその潜在的な衝撃力を無視して、表面的に流してしまっているだけだろう。下手な先生に教わるくらいならば、その方が無難なのかもしれないけれど、感受性の強い生徒へのフォローは、それでも必要なのではないかと思う。
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