内村鑑三『宗教座談』――なぜ奇蹟を信じるのか


宗教座談 (岩波文庫)宗教座談 (岩波文庫)
(2014/04/17)
内村 鑑三

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キリスト教は奇蹟を離れて論ぜられるものではありません、奇蹟を引抜いて後に残ったキリストの教訓がキリスト教であるなればキリスト教とは実に微弱なる宗教であります。
 ――内村鑑三『宗教座談』より

 キリスト教は日本人にとってとかくとっつき難い宗教なのでしょう。世界で広く信仰されているにも関わらず、日本人のキリスト教徒は総人口の1%程度。かくいう私も、聖書は読んだものの、キリスト教にはどうも馴染めないというか、有体に言ってしまいますと「うさんくさい」と思ってしまってどうにも近寄り難く感じておりました。

 私をふくめ、日本人がキリスト教の前に躓く理由のひとつとして、聖書の随所に書き記されているイエス・キリストの奇蹟がなんとも信じ難い、受け入れ難いという心情があるのではないでしょうか。やれ盲人の目を見えるようにしただの、やれ5つのパンと2匹の魚だけで五千人の腹を満たしただの、やれ甕の水を葡萄酒に変えただの、そんなことが本当にできたなど到底信じられない、ありえない、これが非キリスト教徒の日本人が抱いている正直な感想でしょう。

 私もその一人でした。しかし、冒頭に一節をあげました内村鑑三著『宗教座談』を読みまして、少々見方を改めねばならないなと反省しました。と同時に、やはりキリスト教は日本には馴染まないという認識をさらに強くもしました。

では、キリストの奇蹟を信じるとはどういうことか。それは人間が世界を変革する可能性を信じることと同義なのです。
 
 内村は、科学隆盛の時代にキリストの起こした奇蹟が世に受け入れられ難いことは重々承知しながらも「殊に奇蹟があるという事については、私の決して疑わない所でございます」と、あくまで奇蹟は実際にあったのだという立場を堅持します(p.62)。また、奇蹟は奇術やトリックの類ではなく、神の超常の力によって起こったものだとあくまで信じます。

ここで、多くの非キリスト者は「馬鹿馬鹿しい」の一言で一蹴して仕舞いとしてしまう。けれど、キリスト者にとっては、これを「馬鹿馬鹿しい」としてしまうならば、およそ世界が「善き方向」に向かって進歩していく、乃至人は世界や社会を変えられるのだ、といった信念を放棄することとなってしまうのです。

 それはいったいどうしてか。

 「人はすべて罪人なる事」がキリスト教の根本教理ですが、同時に「人の罪を赦し得る者はただ神のみであります」と内村も語るように、その罪は人の手によって贖えるものではないと考えます(p.66)。キリスト者が神の子であるイエス・キリストが十字架上で人類の罪を贖ってくれたことに多大な感謝を覚えるのは、このような理由に由ります。

 実は、これが非常に重要なのです。人間は、人間の問題を、人間自身によっては解決できない、これがキリスト教の大前提なのです。

 これは人間の罪以外にも当て嵌まります。内村はこのように述べています。

「社会全躰が腐敗している時にその一分子たる人が立てこれを救い得ようはずはありません、もし救い得るならば彼は社会の力に依て救うのではありません、社会以上の力、すなわち神の力に依て救うのであります、故に社会を救うに社会その物に頼らなければならぬとならば、社会救済事業などという事は到底出来ないことでございます、今の人が社会の罪を社会に訴えて何らの反応もないのを見て失望に陥るのは全くこれがためであります」(p.28)

 我々の暮らす社会もまた、社会自体の力では救うことができないのです。別に言い換えますと、「システムは、システムそのものの問題を、システム自身によっては解決できない」これがキリスト教の重大なテーゼだと言えましょう。

 完全にクローズなシステムは自身を存続させることができません。これは特に難しい話ではなく、たとえば人体は外部から食料を摂取しなければほどなく機能を停止します。現代に生きる私たちは、食料の獲得をスーパーやコンビニ等に頼っていますから、人体システムは流通システムをその内部に組み込むことで維持できていると言えます。自らでのみ自らを存続させられる、いわば自己完結したシステムなど存在しません。いずれのシステムも他のシステムとコミュニケイトすることで自身を保っているのです。

 さて、再び翻って私たちの社会を眺めてみますに、仮に社会が人間的な、あまりに人間的なもので満たされているのだとすれば、すなわち人間社会の諸システムの外部に他のシステムを持たないのだとすれば、如何でしょうか。もし人間社会が人間諸力の他に外部性を持たないのだとすれば、つまりクローズなシステムなのだとすれば、その発展はおろか維持すらままならないはずです。しかし、人間社会はこれまで発展してきたのだし、まだ自己崩壊には至っていない、ということは人間社会の外部に、人間社会のシステムを発展・維持させるに足る「スーパーシステム」が存在するはずだ。

 このスーパーシステムこそがキリスト教の言う神なのです。

 ここで、自然崇拝の感性が色濃く残る日本人であれば、このように批判する方もいるでしょう。「人間社会にとっての外部性とは、自然環境のことであって、神などという超越的存在を立てる必要はない」と。

 このような批判に対して、内村はこう返します。「自然以上の勢力を信じない人は彼に学問の有る無しに関わらず、終には自然の奴隷となり下がるものではありませんか」と(p.69)。もし自然こそが人間社会にとっての外部性であるとするならば、人間は自然に対してまったくの無力だということになってしまいます。そして結論として、人間や人間社会は自然の成り行きに従っておれば良いのであって、自身の意思でもって社会を良くしていこうだとか、そういった行動は無意味である、ということになりましょう。

 しかし、キリスト者はこのような思想に断固反対します。人間は、自らの意思で、自らの世界や社会をより良き方向に変えられる存在でなければならないのです。しかし、人間や人間社会が、ただ人間的な、人間により発せられた力でのみ満たされているのだとすれば、システムに変革をもたらすことなどできません。

 この問題を、キリスト者は「自身がイエス・キリストとなること」で突破を図ります。ミサでイエス・キリストの肉体と血に見立てたパンとワインを食しますが、これは人でありかつ神でもあるイエス・キリストと一体化するこという、キリスト教が元来有する神秘主義的な傾向を示す象徴的な儀式です。これが何故重要なのかと言えば、これによりスーパーシステムたる神の力をわが身に宿すこととなるからです。

 キリスト教において人間は、ただ人間のみが、自らの意思で自らを外部化できる、あるいは自らの力を外部性として自身に及ぼすことのできる唯一の存在なのです。故に、人間は自身により成り立っている社会を、自身の手で変えることができる。もし人間が、人間の力のみしか有しないのであれば、そして徹底してシステム内部に取り込まれている存在なのであれば、それは不可能なことです。しかし人間が、神の、スーパーシステムの機能をも部分的にでも併せ有しているのだとすれば、人間は社会システムの内部的存在でありながら、同時に外部性とも成り得て、そしてシステムに変革を及ぼすことができる。言うなればキリスト者とは、人間は人間の手で自分たちの世界を変えることができる、この特別な力が備わっていることを確信する者たちの呼び名なのです。

 さて、では振り返って奇蹟のことについて考えてみれば、どうして内村があくまで奇蹟の実在に拘ったかがわかってきます。内村は言います。「奇蹟は天然以上の現象でありまして、また人力以上の威力の発表ともいうべきものでございます」(p.70)。

 先述したとおり、この世のすべてが人間的な、あるいは自然的な諸力によってのみ満たされているのだとすれば、この世に変革はありえません。もし変革が可能なのだとすれば、この世の外から、人間的な、若しくは自然的な力を超えた、何らかの力を及ぼさねばならない、キリスト教においてこれが神の力でした。奇蹟とは、この超常の力を、他ならぬ人間が有していることの証左なのです。

 故に科学が、現にある自然の諸法則を解き明かすものだとすれば、その科学で以てイエス・キリストの奇蹟を証明できないことは、キリスト教にとって何ら痛手ではありません。むしろ、そのことはキリスト者の信仰をより強固なものとするでしょう。なぜなら、それは奇蹟が科学を、自然的な諸力を超越した力により、あるいは、現にあるシステムを超越する力として生じたものであることを意味するからです。
 
 「キリスト教の能力あるゆえんは最も高尚なる道徳を奇蹟を以て強ゆるからであります」と内村は語ります(p.73)。キリスト者は、より良い世界、より良い社会の実現に向けて邁進する者であります。なぜなら、キリストと同様、自分たちも奇蹟を起こす力を秘めているのだと、イエス・キリストの超常的な力を信じることによって、確信しているからです。もちろん、だからといってキリスト者とて、自分が水を葡萄酒に変えられるとは思っていないでしょう。しかし、水を葡萄酒とするのはあくまで奇蹟のバリエーションのひとつに過ぎません。たとえば「がんばれ」の一言で人に元気を与えたり、抱きしめることで不安や恐怖を和らげたり、そういったささやかながら人の魂を活気づける力もまた、人間のもつ奇蹟の力といって差支えないでしょう。あるいはキリスト者にとっての奇蹟とは、人間が周囲を変えていく力を宿していること、このこと自体なのかもしれません。

最後に、内村の締めの一言で以て本稿を閉じさせていただきます。

「もしその(筆者注:キリスト教の)教訓が光でありますならばその奇蹟は実に力であります、力なきの光は個人と社会と国家とを全然改造し得るの光ではありません」(p.73)
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