政治家に求められる資質とは? ~マックス・ヴェーバー『職業としての政治』~


職業としての政治 (岩波文庫)職業としての政治 (岩波文庫)
(1980/03/17)
マックス ヴェーバー

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1.政治家の資質

 ヴェーバーは政治家にとって重要な資質は情熱、責任感、判断力の3つだと言います。情熱とは、自らが追求せんとする事柄(ザッヘ)や正しいと信じる信仰への情熱的献身のことです。これはただの情熱、特にロマンティズムに基づく情熱ではありません。そのような情熱は責任を欠いている。情熱は「それが『仕事』への奉仕として、責任性と結びつき、この仕事に対する責任性が行為の決定的な規準となった時に、はじめて政治家をつくり出す」(p.78)のです。
 そして、そのために必要なのが判断力だとヴェーバーは言います。「すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である」(p.78)。判断力とは、自らの情熱をしばし脇に除けておき、まずは物事の原因や現況を客観的に観察できる能力のことあり、判断とはその先に下されるものなのです。とはいえ、情熱のまったくない政治家もまた政治家たる資質に欠けています。そのため「燃える情熱と冷静な判断力の二つを、どうしたら一つの魂の中でしっかりと結びつけることができるか、これこそが問題」なのです(p.78)。
 この問題にとっての最大の敵が「虚栄心」です。しかし、この虚栄心を政治家の心の内から取り除くのは容易ではありません。なぜなら、政治家はその職業の本質から言って権力を追求せねばならず、この権力は政治家の虚栄心をくすぐる最悪の麻薬だからです。権力の追求がある仕事(ザッヘ)のためでなく、単なる自己陶酔の目的となったとき、政治家は堕落するのです。
 

2.政治家の品位

 「政治家がそのために権力を求め、権力を行使するところの『事柄』がどういうものであるべきかは信仰の問題である」とヴェーバーは言います(p.81)。というのも、どのような当為(……スベキ)が正しいかどうかは、ある基準や理念の合理性や道徳性云々ではけし導き出せるものではないからです。政治家が果たさんとする「事柄」の選択は、そのような確実性や道議性のもとでのみ行われるのではありません。さまざまな立場や利権が相互に入り交り、競り合っている政治的空間においては、いずれの目標を採択するかにおいて「信仰」という情感的な感覚に頼らざるをえないのです。「そこでは、究極的な世界観が衝突し合っていて、われわれとしては結局その中のどれかを選択しなければならないわけである」(p.82)。
 ここで話は「仕事(ザッヘ)」としての政治のエートスという問題に移っていきます。すなわち、政治家に要請される特有の倫理とは何か、という問いです。
 まずヴェーバーは、行為の後になって自分の行為に合理性を見出して正当化するような態度を斥けます。たとえば「イソップのきつね」が食べられないブトウを「どうせまだ酸っぱいや」と言って自分の正しさを主張するようなことは「騎士道精神(リッターリッヒカイト)」に反するのです。そうではなく、たとえば戦争に負けた者が敵に向かって「われわれは戦いに敗れ、君たちは勝った。さあ決着はついた。一方では戦争の原因ともなった実質的な利害のことを考え、他方ではとりわけ戦勝者に負わされた将来に対する責任――これが肝心な点――にもかんがみ、ここでどういう結論を引き出すべきか、いっしょに話し合おうではないか」と言うこと、これこそが品位のある言い方なのだとヴェーバーは言います。戦争責任者をつるし上げて責任追及をしたり、いつまでも過去の憎しみを抱いてねちねちと責め続けるような態度は「政治的な罪」ですらあるのです。「戦争の道義的埋葬は現実に即した態度(ザッハリッヒカイト)と騎士道精神(リッターリッヒカイト)、とりわけ品位によってのみ可能となる」(p.84)。
 「政治家にとって大切なのは将来と将来に対する責任である」とヴェーバーは言います(p.84)。ヴェーバーにとって、過去の責任問題はそもそも解決不可能なものであり、そんなことにいつまでもかかずらっているのは政治的にはまったく不毛なのです。しかもこのような「倫理(自己弁護の倫理)」は政治が善を実現しうると見なしているようですが、政治の場には複雑な利害関心が渦巻いているのであって、そのなかにあっては善なるものは目的というより、むしろ自己の利益を増そうとするにあたって都合良く振るわれる大義名分になっていくのであります。そのため「倫理」は人間心情的には共感を呼ぶとはいえ、政治においては品位の欠如でしかなのです。
 

3.政治と倫理

 そうなりますと、政治と倫理とは相反するものであって、まったく関係のないものなのでしょうか。しかしヴェーバーは国家を「一定の領域の内部で正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体」(p.9)と定義しているのでありまして、この人民にとって、ともすれば危険物たりえる装置の運営を任されている政治家たる人格に、なんら倫理的態度を要請できないというのは社会政治的な失敗であるように思われます。
 ではどうにか政治家にある倫理的態度を要請するとして、それはいかなるものとなるだろうか。
 まず政治家の営為は「絶対倫理」に従わせることができるのか。ここでの絶対倫理とはある掟の、特に福音主義的な絶対善の無条件遵守を要求するものです。いかなる理由・条件・状況であれ、ある行いが絶対善を定めた掟に反するのであれば許されることはないというこの倫理は、しかし政治家にはそぐわないとヴェーバーは言います。
絶対倫理はおよそ「結果」なるものを考慮しません。絶対倫理にとっては掟に則っていたかのみが問題なのです。たとえば「すべての真実を国民に公表する義務がある」という掟が政治に突きつけられたのであれば、その「真実」がもし国民にパニックをもたらし、また諸外国との関係を取り返しのつかないほど悪化させるなど、最終的に国家国民にとてつもない損失をもたらすという予測が事前にあり、そして実際その通りになったとして、しかし絶対倫理はその責任をけして引き受けないのです。政治家に求められる倫理として、これは決定的に問題です。


4.心情倫理と責任倫理

 ここに、ある行為を倫理づけるにあたってふたつの対立する方向があることをヴェーバーは示します。すなわち「心情倫理(Gesinnungsethik)」と「責任倫理(Verantwortungsethik)」です。「人が心情倫理の準則の下で行為する――宗教的に言えば『キリスト者は正しきをおこない、結果を神に委ねる』――か、それとも、人は(予見しうる)結果の責任を負うべきだとする責任倫理の準則に従って行為するかは、底知れぬほど深い対立である」(p.89)。
 心情倫理と責任倫理のちがいをより詳しく説明しますと、まず絶対倫理的な善に準拠する心情倫理家は、ある行為の責任は行為者本人にではなく、他人の愚かさや世間、もしくは神にあると言います。というのも、心情倫理はある行為が正しい、善なる倫理的要請(掟)に適っているかどうかしか関心がなく、また善い行いは必ず正しい結果に結びつくと信じています。しかしながら、ある意図や動機が必ずしもその目標とする結果に達するわけではないのは明らかでありまして、この心情倫理家の信仰はたびたびはずれてしまう。しかしはずれたとて、心情倫理の立場からすれば、その原因は行為者当人ではなく、それを歪めた何かしら他の要因のせいにしてしまえるのです。これに対して責任倫理家は、自分の行為の結果が予測できたのなら、帰結はどうあれ、その責任は自分の行為にあると言います。たとえ人間は完全に世界を制御できないという前提を承知していたとしても、です。


5.悪魔の契約としての政治

 政治における心情倫理の最大の問題は、政治は暴力という手段と切っては切り離せない関係にあるということです。つまり、心情倫理は「暴力は悪である」と定めた時点で、政治そのものを不可能にしてしまうのです。「目的による手段の正当化の問題にいたって、心情倫理も結局は破綻を免れないように思われる。実際、この心情倫理には――論理的につきつめれば――道徳的に危険な手段を用いる一切の行為を拒否するという道しか残されていない。……かりにわれわれが、目的は手段を神聖化するという原理一般をなんらかの形で認めたとしても、具体的にどのような目的がどのような手段を神聖化できるか、を倫理的に決定するのは不可能である」(p.92)。
 ヴェーバーにとって、心情倫理家の素朴で、非倫理的な合理性を認めない態度は、世界の非合理性から目を背けているものに映ります。「この世がデーモンに支配されていること。そして政治にタッチする人間、すなわち手段としての権力と暴力性とに関係をもった者は悪魔の力と契約を結ぶものであること。さらに善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるというのは、人間の行為にとって決して真実ではなく、しばしばその逆が真実であること。……これが見抜けないような人間は、政治のイロハもわきまえない未熟児である」(p.94)。
 かつての偉大な宗教家たちがけっして政治にたずさわらなかったのは、暴力を手段とするのを良しとしなかったからです。「自分の魂と他人の魂の救済を願う者は、これを政治という方法によって求めはしない。政治には、それとはまったく別の課題、つまり暴力によってのみ解決できるような課題がある」(p.100)。ヴェーバーからしてみれば、心情倫理は政治特有の目的・手段と鋭く対立するものなのであり、その倫理は政治家のそれとしてはふさわしくないのです。さらに「魂の救済」を政治に盛り込んでしまえば、政治には「悪魔の力」が潜んでいるということを人々の目から隠蔽することにもなりかねない。そうなれば、当人たちにとって二重に悲惨な結果を招いてしまいます。魂の救済の道が醜く歪んでしまうことと、人民が知らず知らずのうちに政治の悪魔に蹂躙されるということの。そのため、政治家は基本として責任倫理に則り、そして「修練によって生の現実を直視する目をもつこと、生の現実に耐え、これに内面的に打ち勝つ能力をもつこと、これだけは何としても欠かせない条件」なのです(p.102)。


6.政治家たる資質とは

 ヴェーバーにとって、政治家によりふさわしいのは責任倫理の重みを引き受け、「私としてはこうするよりほかない。私はここに踏み止まる」(ルターの言葉)と言える人間のことなのであります。もちろん、心情真理をまったく無視するのではなく、自分は悪魔と契約したのだということに自覚的になった上で、その両面をバランス良く内面に宿した政治家こそ「天職」をもちうる真の政治家なのであります。
 「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である」とヴェーバーは言います(p.105)。心情倫理家が信じるような、善い行いが善い結果をもたらすなどということの保証はどこにもない。しかも暴力という悪魔の手段を、政治家はそれでしか達成できない理想があると信じて行使する。この絶望的な重圧に曝されてなお、己の道を貫かんとする堅い意志、冷静と情熱をともに秘めた英雄的精神、そして政治的行為の責任をあまんじて引き受ける侠気、これこそが政治をなさんとする政治家に必要な資質なのです。「自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が……どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!(デンノッホ)』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への『天職(ベルーフ)』を持つ」(p.106)。



※ちなみに、くれぐれも「ヴェーバーは心情倫理を奉じる人間を嫌悪していた」などとは思わないでください。ここでの話はあくまで「政治家という職業にある人間」に必要な精神的態度と倫理形態を説いたに過ぎないので。一般人民にある倫理を押し付けるほど、ヴェーバーは不粋じゃありません。
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