どうして宗教が求められるのか――自己の最悪を見つめること――

是において愚が中の極愚、狂が中の極狂、塵禿の有情、底下の最澄
 ――伝教大師の願文より



 日本では「宗教」というと、何か胡散臭いものだとか、愚かな人間が陥る迷信に過ぎないだとかで、ひどくぞんざいな見方をされているように思います。最近の過激派組織ISによる暴虐非道、少し遡ればオウム真理教によるテロ事件等々、事の動機に宗教が絡む出来事は、日本人の宗教に対する嫌悪感をいっそう掻き立てることとなり、いまや宗教と名のつくものとは距離を置くことがひとつの処世術となっています。そういった宗教蔑視の流れを危惧する人であっても、海外の人々と交流するにあたっては、宗教を「文化」のうちにひっくるめて「多文化共生」の文脈に落とし込む等して、宗教そのものを直視することはほとんどしません。

 私はある特定の宗教・宗派に属する者ではありませんが、しかしかくも宗教が貶められている現状が非常に残念でなりません。現代人の多くは、この科学万能の時代において宗教など無用の長物と考えているのでしょう。だから、宗教に拘泥する者を愚か者と謗るのでしょう。けれど、物質的にはずいぶん豊かになった私たちでも、人の生の何たるかを考えたりと、己の実存について深く探究したりと、そういった「魂」に関する面については、どうもかえって貧しくなっているようにも思われます。数百年に渡って人間存在の何たるかを追求してきた宗教が役に立つとすれば、まさにここなのではないでしょうか。

 そこで、ここでは、日本でも馴染の深い、というより、日本独自に発展していった仏教の浄土門の教えをベースに、「どうして宗教が求められるのか」を主なテーマとして概説したいと思います。

1 宗教心について
 はじめに、一冊の本を取り上げたいと思います。民藝復興運動の泰斗として有名な柳宗悦が記した『南無阿弥陀仏』、こちらは浄土門の教えを簡潔にわかりやすく説いた名著でありますが、本書の「凡夫」章で、柳はこのように述べています。

 実はいつの時代だとて、末世でない時代はない。どの時代にいようが、まさにその時代が末法の世であり、極悪の世である。如何なる時代に住むとしても、これ以上の劣悪な時世があろうはずがない。この意識なくして宗教は成り立たぬ。(p.120)

 宗教心の基礎基盤をずばり言い表した名文であります。キリスト教、イスラム教、仏教等々の隔てなく、この認識こそが宗教あるいは宗教を求める人々の基礎となっているのです。もしこの世が、過去・現在・未来に渡って、一片の苦しみも入り込む余地がなく、完全に幸福で満たされているのであれば、なるほど宗教など無用でしょう。けれど、世に苦しみの要素・要因が残り続ける限り、この苦しみとは何なのか、そして人はそれにどう向かい合うべきなのか、といった問題がどこまでも私たちに付き纏います。宗教は、この問いに応ずることを使命としているのです。

 なかでも仏教は、この世(より正確には「世間」と呼ばれる生領域)は苦しみに溢れているという認識が殊の外強い。たとえば、浄土門が重視する浄土三部経のひとつ、『無量寿経』にはこの世の有様を五悪にまとめています。非常に長いので、そのなかの一文のみを紹介します(中村先生がサンスクリット原文から和訳したもの)。

 世間の人々、父子や兄弟や家族や夫婦がすべて義理を知らず、法律に従わず、贅沢であり、好色であり、高慢であり、放縦であって、各々快楽を求め、思うままに行動し、互いに欺し合い、心と口がうらはらであって言葉に誠実さがなく、へつらいの言葉を口にするばかりで誠実な心はなく、言葉たくみに媚びへつらい、賢者を妬み、善人をそしり、人を陥れようとする。(『浄土三部経(上)』、p.109)

 こういった調子でいかに世間が悪と苦しみに染まっているのかが延々と説かれております。この世間を「穢土」とし、悪も苦しみもない「浄土」へと渡ろうとする「厭離穢土・欣求浄土」こそが浄土門のスローガンであります(なお、説かれ方こそ異なるとはいえ、他の宗派の最終目標も概ね同じと言えます)。

2 自己の悪について
 この世は「極悪の世」である、あるいはそこまで言わなくとも、この世にはまだまだ正さねばならぬ悪がある、そのように考え、義憤に燃える人たちが、社会を変えるべく様々に活動しております。そのこと自体は、まこと素晴らしく、またありがたいことであります。しかし、それと宗教心の間には、少しばかりズレがある。というのも、かれらの憤りは主に自分や人々を取り巻く社会に向けられているのですが、それが「自身に向けられた嫌悪でない限りは、まだ穢土への見方はなまぬるい」のです(p.121)。

 どういうことか。少々長いですが、柳の記述を引用いたします。

 私を囲る社会は、直ちに私自身の事ではない。厭離の想いが、何よりもまず我が心内の穢土に注がれる時にこそ、浄土への切なる欣求が湧き上る。……考えると我が悪、我が愚はいうもおろか、我が善、我が賢そのものが、既に穢土なのではないか。……ただ穢土の住民だというに止まらぬ。実にその主人たるに外ならぬではないか。何より現に今、自他の二を分けて、憎愛のさ中に沈んでいるではないか。日夜生死の巷に彷徨って、苦楽のただ中に迷い続けているではないか。(p.121)
 
 悪の根源を社会に求めている間はまだ気が楽です。悪いのは自分ではなく、自分以外のすべてであるとして、一段の高みから、自己を保護することができるのですから。けれど、この世が苦しみで溢れているのは、誰のせいでもない、他ならぬこの自分にこそ原因があるのではないか、そう考えるに至って、はじめて切々たる宗教心が沸き上ってくる。

 一切の宗教は、……自己内心の穢土、即ち妄執の穢土に嫌悪の念を起すことから発足せねばならぬ。それは何よりも自己の脚下の出来事である。他人の出来事どころではない。自己に巣食う穢濁についてである。この末法の底下にある己れの妄執についてである。(p.121)

 自己こそがあらゆる悪と苦の根源であると自覚した者が、その自己を厭うと同時にこの自己内穢土を浄化したいと切実に想うとき、宗教はこれに応えようとする。心身を清浄にするための修行法や、悪を引き寄せない生活のしかたなどが説かれる。浄土門においては、ただ「南無阿弥陀仏」と称名せよ、という教えになります。

 「自己こそが悪の根源である」と説かれ、「まあ、確かに自分にも悪いところはあるなあ」と反省する程度では、まだ宗教の「ありがたみ」を感じることはできないでしょう。再び柳の文章を引用します。

 罪という観念は、何も抽象的な概念ではない。それ故他人の罪悪を挙げて、詰るがごときなまやさしいことではない。自分自らの現下の罪に、一切の注意を集めることである。罪とは「我が罪」ということに外ならぬ。自分の罪以外に考える余地を残さぬ時が、始めて罪なるものがまともに考えられる時なのである。それ故罪の意識は、自分が誰よりも罪深い者だという懺悔を伴うものでなければならぬ。この世にどんな悪逆な者がいようとも、自分の方がそれにも増して罪深い者だということが気附かれる時、始めて罪の意識が真実なものになるのである。つまり最悪な罪人以外の自分ではないと気附くことである。いわば「天上天下唯我独悪」と考え尽すところまで来なければならぬ。(p.124~p.125)

 「悪いところもある」どころでなく、己の悪を徹底して責め、「自分こそが最悪の存在だ」と覚悟する、この境地に至ったとき、宗教のことばが身に染みて感じられることとなるのです。

 「何もそこまで自分を卑下しなくても」と思う方は多いでしょう。また、現代では「自己肯定感」を得ることこそが精神的に良いとされていますから、この「自己否定」はかえって人のためにならない、と言う意見もあるでしょう。

 「自分が他者から肯定される」ことで立ち直れるのならば、それはそれで良いのです。ただ、それは宗教が扱う問題ではなく、心理療法の領域です。宗教は、自己のはらむ悪にどうにも耐え切れず、絶望の深淵に落ち込んでしまった人々に光明を与えるためにあるのです。浄土門が産声を上げた平安・鎌倉の世は、戦乱と疫病と天災に毎日脅かされながら人々は生きておりました。その中で、略奪に遭って親を殺された者、子を飢え死にさせてしまった者、流行病に伏し、衰弱していく友人をただただ見ているしかなかった者、そういった悲劇に襲われた人々が巷に溢れた。かれらにどうして肯定感など与えられましょう。現世の非情を前に、自らの無力に打ちひしがれる人々を、励ませる言葉などあるのでしょうか。

 かれらに必要なのは、何もできなかった「悪人」であり「罪人」であるこの最悪の自己を如何にせんという喫緊の問いに道筋をつけることであります。これに応じる教えとして、浄土門では、阿弥陀仏はそのような「悪人」をこそ救うと誓われたという「悪人正機」を説くのです。

3 神仏について
 宗教が現代人に受け入れられない大きな理由のひとつとして、神だとか仏だとか、実在しないものを信じるなど馬鹿げている、という合理主義的思考が大勢を形成していることがあると思いますけれど、自己を悪の本源とするこの見方から出発すれば、どうして神や仏なる存在を――想像上のものであっても――考えねばならぬのかを「合理的に」説明できると思います。

 宗教人にとって、自己とは極大の悪であり、善であっても極小の善であります。自己と比べれば、その他の存在はなべていくらか格上の善であり、ましな悪であります。いわゆる聖人と称えられる方の善にあっては、自己とは比べようもないほど大きく、その悪もまた小さい。このように自己よりも高次の存在を段々と追ってみれば、その対極に極大の善・極小の悪を想定しなければなりません。これこそが神であり、仏なのであります。

 現代天体物理学におけるダークマター、電磁気学におけるモノポールは、「発見されていないが、理論上は存在しなければならず、かりに存在しないとすれば理論体系が崩壊する」という代物ですけれど、神や仏もこれと同様、存在しないかもしれない、否、存在しないのだろうけれど、自己の対極にある座標として常に存在するものと考えなければならないのです。だから、神や仏の実在云々などということは、宗教人にとって心底「どうでもいい」問題なのであります。

 神や仏が現れるのは、自己を最悪のものとして徹底して追究した先であります。キルケゴールは「神に近づくには、遠く神から離れなければならない」というパラドクスを提示しましたが、神や仏といった究極善との真の邂逅は、己を最悪の極みだと認めたときに訪れることを見事に言い表しています。また親鸞は「弥陀の五劫思惟、よくよく案ずればひとへに親鸞一人がためなりけり」と語りましたが、すべての衆生を救うとする阿弥陀仏を私物化するようなこの発言は、しかし自己が世界最悪の存在である、あらゆる悪の根源である、と認むるならば、必然的に導き出される結論でありましょう。何より、神や仏は自己の悪が反射反映なのであります。自己に悪心ある限り影の如く自己に寄り添うものであります。自分だけのためでない神や仏がありましょうや。

4 悪を憎み、善を求る心
 神や仏を必要としない人には、まだ宗教心が芽生えていないと言えましょう。これまで述べてきましたとおり、自己を最悪の存在と深く自省すること、これが宗教心の要ではありますが、これだけではまだ不足しているのです。そもそも、宗教人は自己が最悪であることをどうしてかくも嘆くのでしょうか。それはかれが悪を憎むとともに、善を成したいと欲するからであります。

「悲しい」という感情は、自分自身の不幸を嘆くものではありません。それは他者が苦しみを見て我がことの如く心を痛め、それを救いたいと願う気持ちなのであります。善とはすなわち「他者を苦しみから救い出す」ことであります。宗教人は人々がこの世の苦しみに喘ぐ姿を目の当たりにして深く悲しみ、何とかしてその苦痛を除き去ってあげたいと渇望する者であります。けれど、哀しいかな、人間の力は世の苦しみを消し去るには全然及びません。親鸞は言います。

 今生に、いかにいとをし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。

 他人の苦しみをどんなに不憫に思っても、我ら人間の力では、かれを救済することは叶わぬのです。もちろん、修行を積み、徳を重ねて、人々を救済せんと志す、真に立派なお方もおられます。けれど、我ら凡夫には、そのような力はどう頑張っても備わりそうもない。この「救済する力がないこと」こそが悪なのです。凡夫は故に悪の塊なのです。宗教人は力なき己を徹底して責め、憎むのです。

 宗教人にとって、神仏はこの悪しき己をわずかでも善に近づけるための理想・理念としてどうしても必要なのであります。たとえば仏教の最終目標は、自身が「ほとけ」となることであります。どの「ほとけ」も、元はただの人間でございました。けれど、幾世にもわたって徳を積み、ついにその位格を得たのです。その「ほとけ」が「どうしたら自分たちのようになれるのか」を指南するのが仏教なのでございます。「ほとけ」への憧れが人を仏教に近づけるのであります。神仏とは、いわば極悪の自己を離れて極大の善に辿り着くための目標地点、あるいは極大の善の理想的「モデル」なのであります。故に、神
仏を求めない者は、自己を善たる存在にしたいという宗教心の切々たる願望が欠けているのでございます。

 余談ではありますが。浄土門が興って間もない頃、「念仏さえ称えていれば悪人だって浄土に行ける」のだからと、好んで悪事を為すものが大勢居たと言います。阿弥陀仏の大悲はそのような悪人も救わずにはいない、と浄土宗の門徒であれば答えるでしょうが、けれど、自ら悪を為す念仏者は、阿弥陀仏の誓願のありがたさをほとんど感じていないのです。なんとなれば、念仏行者の感激は、阿弥陀仏が「善を為したいと切望しつつも、己の非力、または己の弱さ故にそれができぬ我なる悪人を、それでも救ってくださる」ことから起こるのですから。故に、浄土門の信徒であれば、阿弥陀仏が悪人をこそ浄土に導くとは言っても、自分で悪を為そうとは考えません。なんとなれば、阿弥陀仏の偉大さは、悪を憎み、善を為そうとしてそれを果たせない己に罪の意識を抱く者にこそ響くのですから。

 さて、続けて現代人の宗教心が乏しいことから、いったい人間のこころはどうなってしまっているのかという、かなり大上段な話をしたいと思ったのですが、すでに大枚を費やしてしまっているのでここでいったん稿を閉じようと思います。そもそも宗教心がどうたらと話しましたのは、3.11の日が近づいているからであります。この日をめぐり、我々人間の「悪」について、もう一度考えてみたいと思ったからであります。

 それはまた別稿にてまとめることといたしましょう。
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