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宇宙の始まりと人間実存の根源

我々が生きるこの宇宙は、百数十億年前の「ビックバン」によって誕生した。

この説は、科学隆盛の今世において常識となっている。我々現代人は、時間は過去から未来に向かって滔々と流れており、そしてあらゆる物事には「始まり」と「終わり」がある、と考えている。となれば、この宇宙にだって「始まり」と「終わり」があるに違いない、と思い至るのが自然である。

一見、もっともに思われるこの宇宙誕生の説は、しかし非常に厄介な矛盾を抱えている。

ビックバンにより宇宙は「始まった」のだとするならば、当然、ビックバンより前には宇宙は「無かった」ということになる。言うまでもなく、宇宙は我々を取り巻くこの空間全域のことであり、あらゆる物質を内包している。ときに我々は、ある物体が、その素となる物質なしに生じる(有る)ことはない(「無」から「有」が生じることはない)と感覚的に知っている。とすれば、宇宙という「有るもの」の全域が、何も「無い」状態から「生じる」ことなどあり得るのだろうか。

なるほど、宇宙物理学者は、ビックバンは我々には想像もつかないような高密度の「何か」が弾けたのだと説くけれど、するとその「何か」は『何から』生じたのだろうか。こうして宇宙の「始まりの始まり」を追求していくと、その突き当りで「『有』はどこからどうやって生じたのか」という大問題に遭遇してしまうのだ。

宇宙にも始まりと終わりがあるに違いない、という素朴な直感は、しかし「無から有は生じない」というもうひとつの現実的感覚と衝突してしまう。始まりがあるはずなのに、その始まりがどうやって始まったのかがわからない。我々が普段何気なく目にしている諸々の物体、それを構成する素となる物質は「どこから」「どうやって」生じたのか。何も無いところから、何に因ることもなしに、突如として沸と湧いて出たとても言うのだろうか。

宇宙の「始まり」と「終わり」の考察は、近代科学の専売特許ではない。およそ人類がことばを覚え、概念を取得し、理性を行使するようになってこの方、我々や我々を取り巻く世界がどこから来てどこへ行くのか、という難問に対し何らかの回答をせずにはいられなかった。

宇宙の「始まりの始まり」、すなわち「無から有が生じる」ことの、最もポピュラーな解答は、人智を超越した神なる「創造主」を立てることであった。

素となる物質もなしに物体は生じない、というのはあくまで人間の、ないし人間が生きるこの世界の法則である。その法則の枠の中においては、宇宙の始まりは謎に包まれているけれど、そもそもこのような法則を創造した者がいるのだ、と考えれば合点がいく。

宇宙の始まりを巡る問題への回答は、この「宇宙創造論」以外にもある。「宇宙無始論」である。

我々は、時間が過去から未来に向かって流れている、という経験的実感から、宇宙にも始まりと終わりがあるはず、と推測するのだが、するとどうしても「無から有が生じた」という無理な出来事に説明をつけなくてはならなくなってしまう。では、ここで発想を転換させて、宇宙は「始まりもなければ終わりもない、永遠的なもの」なのだと考えてはどうか。

どの一神教の教義も、神が宇宙を創造したのだという点では共通しているが、しかしその「創造」の性格は大きく異なる。キリスト教やユダヤ教では、神は最初に宇宙を創ってから、その後何度か世界に介入(洪水を起したり、自身の息子を地上に遣わせたり)するものの、基本的には終末のそのときまで「放置プレー」だが、イスラム教では、神は宇宙を始めたのではなく、一瞬一瞬ごとに世界を創造しているのだ、と考える(もちろん、異説もあるが)。

「世界五分前仮説」といえば聞いたことのある方もいるかもしれないが、イスラム教の神は、五分前どころではなく、人間がおよそ知覚できないほどの瞬間瞬間ごとに、世界を滅ぼしまた創るというプロセスを繰り返している。我々はふつう、五分前の自分と今の自分は同じ自分だ、つまり自分という存在は時間的に連続していると考えるが、それは錯覚に過ぎない。世界は瞬時に断絶しており、非連続的なのだ。すると、過去・現在・未来という区分は無意味となる。我々も、物事も、出来事も、時間的な継続性も同質性もなくなる。すなわち始まりもなければ終わりもない、ということになる(捕捉すると、この理論において認められないのはあくまで時間的な同質性であって、人間の魂を含めた世界の同質性はイデア界等のより高次な次元で永遠に保たれている、と考えられている。イスラム教がギリシャ哲学の、特に流出論を熱心に研究した主な動機は、この永遠的な存在の何たるかを突き止めることにあった)。

宇宙とは永遠的なもので、我々や我々を取り巻く世界は一瞬ごとに生滅しており、過去も現在も未来も繋がりを持っていない。過去や現在や未来といった時間に関わる概念は人間が社会生活を送るための方便に過ぎない。時間が成立しないのだから、当然、この世界に始まりや終わりなどなく、虚無から有が生じた等と荒唐無稽な説を打ち出す必要などない。これが宇宙無始論の出した回答であった。

ときにビックバン説が広まったのはここ半世紀ほどのことで、それまではむしろ宇宙無始論の方が主流だったらしい。宇宙無始論は宇宙創造論に比べて論理的な誤謬が少なく、論駁するのが非常に難しい理論ではあるのだが、頭ではそれが正しいと理解できても、我々は瞬時瞬時に生滅する世界のありさまを知覚できない。人々の経験的実感からすれば、やはり時間は過去から未来に向かって流れていて、人も物事もその中で連続性を保っている、と考える方が馴染がよい。宇宙無始論の最大の弱点は、それの説く世界観が我々の経験的実感とあまりにかけ離れており、人々の共感を得られなかったところにあった。

ビックバン説はいわば「民主的な勝利」を収めた格好であり、その支持された理由は、我々の経験的実感、つまり時間や空間は連続的・等質的・絶対的である(時空間は過去から未来にかけて常に一定の方向・速度で途切れなく流れている)という感覚と親和性が高かったからだが、しかしビックバン説を生み出した当の宇宙物理学は、時間や空間の等質性や絶対性を否定している。

SF作品で度々ネタにされるが、物体は光の速度に近い速度で移動すると、その物体の時間の流れは遅くなるのだという。また空間も、ブラックホール等の強大な重力場にあっては歪んでしまうのだという。現代の科学は時間や空間を相対的なものとして捉えているのだ。

時間は早くなったり遅くなったりするし、空間は縮んだり膨らんだりする。それがどういうことなのか、体感的に想像しようにもあまりに難しい。イマニュエル・カントは時間と空間は人間の直感の形式、つまり人間が物事を認識する際に用いる最低限の基準と考えた。それは目の前の「リンゴ」のように物体として実在するのではなく、物体をそのように認識するために人間が勝手に設けた「枠組み」であって、その枠組み自体を、人間が認識することはできない。宇宙物理学はカントのs主観的な時空間論を採用していないけれども、人間の認識能力は「歪んだ時空間」を認識できるのか、また「歪んだ時空間」内で物事を認識することは可能なのか、いずれもよくわかっていない。人間の経験的実感とそぐわないという点においては、宇宙創造論も宇宙無始論もどっこいどっこいと言えよう。
※なお、宇宙無始論における時空間はリンゴと同様の現象体であって、絶対的な性質を持たない。

カントの研究の目的は、人間の認識能力の限界を突き止めることにあったが、宇宙の始まりを巡る議論は、宇宙創造論にせよ宇宙無始論にせよ、時空間という人間の認識能力の限界から大きく逸脱するものであるのだから、もはや語るも愚かなことなのかもしれない。しかし、そもそも宇宙はどうして始まったのかという問いは、事実としてどうであるかとか、人間がそれを知りうるのかとか、そんな疑問から発せられたのではなかった。人間はいかに生きるべきかと言う実存の問いかけからそれは始まったのだ。

宇宙の始まりについての考察は、まず宗教と神学が先鞭をつけたのは先述したとおりだ。では宇宙は創造主たる神が創ったのだとして、ではどうして神は宇宙など創ったのか。神は何らかの意図と目的を以てこの宇宙を創造したはずだ。であれば、人間はこの宇宙に遍く浸透している神の御業や意志を読み解き、それに則って行動しなければならない――神なるものが本当に何か宣ったのかは置いとくとしても、人間が道徳律に従うべきとする強力な根拠がここに提供される。宇宙に包摂されている我々人間の位置づけがここで示される。

宇宙の始まりについての科学理論は発展を続けていくだろうが、現状のところ、始まりの始まりを追っていくと、その始点にあらゆる物理法則や人間の認識能力に納まらない、超越的な存在である創造主を置いた方がよほど合理的だ。科学は神を殺すにはまだ非力であり、宇宙は人間実存の真空状態となるには至っていない。そうである限り、宇宙は科学的探究の場としてばかりでなく、人間存在を基礎づける根源としても、果てしなく議論の的となっていくであろう。
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