中田孝『イスラーム 生と死と聖戦』――イスラームが描く未来社会

いっとき世間を騒がせたイスラム国(今はイスラミック・ステートと呼ぶべきなんだとか)も、ニュースとしての目新しさが薄れてきたからか、日本のメディアではとんと報道されなくなってしまいました。本書は、イスラム国の動向がまだ世間の耳目を集めていた頃、シリアに渡りたいと相談に来た学生を現地に斡旋した咎で、ニュースに華を添えた中田孝氏がイスラームを紹介する入門書です。

本書の「セールスポイント」は、何と言っても「日本人のムスリム」が、日本人の非ムスリムに向けてイスラームを解説していること、ここにあります。入門書は、非ムスリムのイスラーム研究者が書いた本ならいくらでもありますが、日本人のムスリムでしかも研究者という、この非常に稀有で得難い人物の手によるものはほぼ皆無と言って良いでしょう。

本書の前半は、入門書だけあって多少イスラームについて勉強した人であれば常識に属する内容ではありますが、先述したように、ムスリムが非ムスリムに何を伝えたいと、何を知ってほしいと考えているのか、これを知れることこそが貴重なのです。情報それ自体に新しさはなくとも、それで本書を読む価値が減ずることはありません(特に、ジハードをムスリムがどう捉えている、あるいは捉えるべきかを記した箇所はなかなか興味深かった)。

本稿では、本書前半の入門部分については言及しません。入門書としては出来が良いので、イスラームについての知識がほとんどなく、これから勉強したいとお考えの方は、ぜひ手に取って読んでみてください(なお、「非ムスリム」の日本人研究者が書いた概説書のなかでは、少々古いですが井筒俊彦氏の『イスラーム文化』がオススメです)。

私が注目したいのは本書の後半部分です。イスラームについての解説というよりも、著者の主張が強く前面に出ていて、入門書としてはいかがなものかと眉をしかめる方もいるやもしれません。しかし、イスラームの思想を現代の情勢に適用し、未来社会を描いてみるという試みはほとんどなされていなかったことであり、イスラーム思想のアクティブな展開が垣間見えて、個人的には非常に面白く読ませていただきました。

以降、簡単にではありますが、この後半部分について述べていきたいと思います。

現在、日本はTPPを巡ってアメリカや加盟国と丁々発止の駆け引きの真っ最中です。日本国内でも、賛成派と反対派がTPPのメリット・デメリットを相互に掲げ、口角泡を飛ばして激しい議論を飛ばしています。

TPPについては、本書でも触れているのですが、著者の考えを端的に知るには打ってつけの題材となります。

まず、著者はこう述べます。

「基本的にイスラームは自由の宗教なので、禁じられていないことはすべて許されている。貿易は許されていることですから……TPPで関税をなくす、これはイスラーム的には正しい」(p.178)

すると、気の短い方は「すわ、著者はTPP賛成派か」と早合点してしまうかもしれませんが、著者は手放しでTPPに賛意を表しているわけではない。なぜなら、TPPの謳う自由化は、かれからすると「不徹底」だからです。

「自然権的な意味で認められるべきなのは、まず人間の移動です。人間の無条件の移動が100%許されていない。……人間の移動の自由がないところで物と資本だけを移動させるというのは、富を偏在させることになります。これは不公正でしかありません」(p.178~179)

TPPの圏内で関税障壁をなくす、それだけではダメで、域内の諸地域にどこでもだれでも任意に自由に移動できる、つまり国境をなくしてしまう、ここまでしなくてはならない。

もう少し詳しく言い加えますと、著者は近代の主権国家、つまり国家が領土を持ち、そこで暮らす人々を国民として指定・管理する「領域国民国家」を撤廃すべきと考えている。「大地がすべての人に開放され、完全な自由を保障されるために、領域国民国家の国境は廃止されなければならない」(p.180)。

日本国内の反対派は、安い製品が流入して国内産業が破壊されるとか、保険等の制度が激変して国民生活がめちゃくちゃになる、等々の理由を挙げますけれども、基本的に自分たち日本国民の損得勘定しか頭にない、領域国民国家の枠に縛られた発想だと言えるでしょう。領域国民国家は、放っておくと世界のあちこちを勝手に飛び回る「資本」の首根っこをつかみ、国家と国民が一銭でも多くの富を獲得するための装置です。現在の先進諸国は資本を多く集め、これを独占的に保有することで「豊か」になっている。つまるところ、反対派は日本という領域国民国家が抱えている富が外に流出することが我慢ならないのです。日本さえ豊かであれば、発展途上国の人々が飢餓に苦しんでいようが構いっこないのです。

「ごく限られた先進国の人々が地上の富を享受し、その他の大多数の人々が『先進国』から切り離されて、『発展途上国』のなかで暮らすことを強いられている『領域国民国家』システムが……不正であることは疑う余地がありません」(p.180)

人々がより平等に、より公正に、より自由に生活するためにどうするべきか。その解決策として著者が掲げるのが「カリフ制の再興」です。もっと正確に言いますと、カリフのもと、イスラーム法が遵守された宗教共同体であるダール・アル=イスラーム(イスラームの家=イスラーム共同体)を復元することです。

なお、ここで著者が一般に「イスラーム共同体」を指す用語である「ウンマ」をあえて用いていない点に注意が必要です。「ウンマ」は、血縁や地域といった境界をもつ共同体を言う場合もあるのですが、ダール・アル=イスラームはそれらを包括する、イスラーム法が通用する全地域、それこそ北アフリカから中東、中央アジア、東南アジアに至るまでのイスラーム世界全域を指しているのです。

さて。そもそもムスリムにとって、近代国家は否定すべき存在です。なぜなら、ムスリムが服従するのは神に対してのみ(『イスラーム』とは『服従』の意)だからです。「国家も命令を下すものです。命令を下すものである限り、それはまさに神であるはずなのに、実際の国家は人間が人間を支配する」のだから、「イスラーム的にはこれが最大の悪」となる(p.196)。当然、イスラームにおいてナショナリズムは唾棄すべき偶像崇拝となります。

また、国家は法律を制定してそれを厳守するよう国民に強制しますが、ムスリムからしてみると、これに従う筋合いなどない。なぜなら、ムスリムが従うべきは、神の言葉が記された「クルアーン」と預言者ムハンマドの言行録である「ハディース」によって成形されるイスラーム法のみだからです。ただ神と神の法(これを著者は自然法と呼びますが、ヨーロッパの自然法概念とはだいぶ趣を異にします)のみが人を服従させる正当性を持つ。これは他の宗教・思想にはほとんど見られない、イスラームの顕著な特徴です。

このイスラーム法に従って生活する人々の共同体が、先述したダール・アル=イスラームであり、その指導者がカリフです。こう言うと、あたかもカリフなる者が一種の独裁者となって支配する「非民主的」体制を私たちは思い浮かべますが、カリフやカリフ制はそういうものではない、と著者は言います。

まずもって、民主主義とは言っても「自分たちが決めたことだから守るというのが議会制民主主義の建前ですが、実際には議員は民意を反映などしていません」と著者は批判する(p.186)。これは議員が民意をないがしろにしている、のではなくて、そもそも議員が民意なるものを代表することはできない、の意味に解すべきでしょう。要するに、民主主義もまた人間が人間を支配するための誤魔化しに過ぎない、ということです。

一方、カリフ制においては、唯一の指導者としてカリフを置くけれど、かれの役割はイスラーム法を守る事や共同体の外部と交渉すること、そして共同体の敵が攻撃してきたときにこれを撃退すべくジハードを呼びかけること、これに尽きます。カリフに許されているのは共同体を営んでいくに必要最小限度の統治権のみで、その最大の役割はイスラーム法を守り、施行することにあるのです。預言者ムハンマドによって伝えられた神の法が常に最上位に来なくてはならず、カリフもまたその例に漏れないのです。
※カリフはまた、ダール・アル=イスラームがひとつの共同体としてまとまるための象徴でもあります。カリフの立ち位置は立憲君主制国家の君主に似ていると言えなくもないですが、イスラーム共同体はいわゆる国家ではない、という点に注意が必要です。

「イスラームを成り立たせているのは、あくまでも法なわけです。法があればいいのです。法が支配する。すべての人間が法に従う。人間が人間を支配する統治機構はいらない」(p.189)。

なお、イスラーム法は原則としてムスリムのみが守るべきものとされているため、ダール・アル=イスラーム内の非ムスリムは、たとえば預言者ムハンマドを公衆の面前で貶したり、神のことばそのものが記されている『クルアーン』を燃やしたりなど、極端なイスラーム・ヘイトをしなければ、追加の納税義務を果たしている限り自由な生活を保障されます。それでも「民主主義者」はダール・アル=イスラーム内での生活に不満な人はどうしたらいいのだ、と批判するでしょう。著者の回答は簡潔明瞭です。出ていくか、反乱するか、いずれか好きな方を選べ、と。

元より、ダール・アル=イスラームでは人間が移動するに制約はありません。国家がなく、当然ながら国境もないからです。だから、その土地で暮らすのが嫌なら別の土地に移ればいい。イスラームでは来る者拒まず去る者追わずが原則ですから、ご自由にどうぞというわけです。もっと「民主主義的」な用語に換えますと、「足による投票」を徹底すべきということです。
※なお、TPPに反対している方の少なからずが「地域で暮らしている人々の暮らしを守る」ことを大義に掲げていますけれど、真に自由で平等な共同体を志向する著者はこの点まったく考慮に入れておらず、こういった地域主義(これは必然的に富の偏りをもたらす)とは真っ向から意見が対立しそうです。

「人間が人間を支配するのはいけない。国家も民族も、人間が人間を支配するという不正を隠蔽するヴェールにすぎない。それをはっきり言える一神教はイスラームしかない」(p.196)これが著書の信念です。著者の唱えるダール・アル=イスラームは、グローバル資本主義に対応できなくなりつつある主権国家による世界システムを超える、次なる人類世界を構想するための、ひとつの材料を提供してはくれますが、あまりにアナーキーで非現実的だ、という評は避けられないでしょう。けれど、理念なき「リベラル」がその場その場の勢いだけで口上を述べる(たとえば、人間支配の道具だとして国家を嫌悪しながら、人間性の回復を国家に求めたり)のと異なり、著者の主張はその信仰心を強固な思想的基盤として、揺るぎなき信念に貫徹されている。その語る理想がどれほど現実離れしていても(非現実的でない理想など無いと思いますが)敬意を表しないではいられません。

とはいえ、私は著者の同調者ではなく、批判したいところはいくらもございます。が、それをやり出すとキリがないので、本稿はこれにて閉じたいと思います。
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