批判精神と真の学び――荒野に分け入る覚悟として

ほんの少しでも疑いをかけうるものは全部、絶対的に誤りとして廃棄すべきであり、その後で、わたしの信念のなかにまったく疑いえない何かが残るかどうかを見きわめねばらない
――デカルト『方法序説』より


あれは私が小学4年生のころ、学校で社会の授業を受けていたときでした。

その日は、私たちが普段出しているゴミについての授業で、先生は教科書を片手に黒板にチョークを走らせつつ、「日本人が一日に出しているゴミの量は、東京ドーム百数十杯分だ」と仰りました――経産省の子供向けページで約140杯分と紹介されていましたが、当時何杯と教えていたかまでは覚えていません。

私や生徒たちは「へぇ、すごい!」と思わず声を漏らしました。すると、先生のチョークがぴた、と止まりました。そして生徒の方へ振り向くと、いつもより語気を強めてこう仰ったのです。

「おまえたち、いま、東京ドーム百数十杯と聞いておどろいていたが、それがいったいどれくらいの量なのか、わかっているのか?」と。

この先生の一言は、禅の鋭い一喝のごとく私の心に響きました。

私が通っていた小学校は、全校生徒合わせて60人程度の、片田舎の小さな学校でした。東京はそう気軽に行けるところではなかったですし、私は東京に一度も行ったことはありませんでした。他の生徒も、たぶんなかったのではないでしょうか。ですから、実際に東京ドームに行って、見て、その大きさを自分の体感でわかっていたわけではなかった。ただ野球中継で、東京ドームで試合しているところは見ていましたから、とにかく大きな建物なのだ、ということを知っているだけでした。

私や他の生徒は、東京ドーム1杯分の量もろくに知らないのに、ただ自分たちが勝手に作ったイメージだけで、「直感的に」おどろいてしまったのです。教科書の作り手としては、まずおどろいてもらうこと、そして関心をもってもらうことが狙いですから、生徒に「へぇ、すごい!」と言わせた時点で成功なのですけれど、先生はそれで終わることを許さなかった。お前たちの「おどろき」はホンモノなのかと問うた。

かくして私はこの時、一日に出るゴミの量だけでなく、自分が見聞きしたことを鵜呑みにするのでなく、自分でしっかり思考しようとする姿勢、すなわち〈批判精神〉を学んだのでした。今思えば、この授業はその後受けたどの授業・講義よりもその後の私に深い感銘を与えたように感じます。

ときに、世間では「批判」と「文句」はほとんどイコールに捉えられ、批判するよりも素直に受け入れる方が美徳とされる傾向にあるように思われますが、私がここで言う〈批判〉とは、自分の「直感」を疑い、自らの理性でよくよく吟味することで、ただ不満を述べることとはちがいます。

ゴミの例で言うならば、1日に東京ドーム百数十杯分のゴミが出る、と聞いて、まずはおどろいた。けれど、自分が「直感的に」おどろいたこのことについて、一歩立ち止まり、あるいは後ろに引いてよくよく考えてみる。東京ドーム百数十杯分のゴミ。なるほど、それはとてつもない量なのだろうが、けれど自分は、その量を具体的にイメージできるのか、できないのにおどろいたのであれば、それは己の先入観のみに依拠した軽薄な判断だ。それどころか、東京ドーム百数十杯と言えばとりあえずおどろくだろう、という書き手の意図にまんまと踊らされたのだ。さらに、絶対量としては確かに多いのだろうが、相対的に見たらどうか。つまり、海外ではもっと大量のゴミを排出しているのかもしれない。また、量は多くとも、日本では特に難なく処理できるし、環境への悪影響もほとんどない、そういうレベルなのであれば、おどろくに値しないではないか、仮に悪影響があるとすれば、それはどんな影響で、どのような対応が必要なのか等々。

もちろん、人間にとって「直感」は非常に大事です。人の思考や行動は、まず「直感」から始まり、「直感」により促されるのですから。けれど、「直感」にのみ身を任せていては、たとえば理念と行為に矛盾・背反が生じる、などの重大な欠陥に気付かないままになってしまう。ですから人は、自らの「直感」に依拠しつつ、けれどそれを理性の厳しい批判に曝し、耐え抜いたもののみを受け入れる、そう心がけなければならない、と私は思います。

とはいえ、私は自分が「批判精神」をきちんと身に着けている、とは露とも思っておりません。また、私を含め「批判精神」を鍛えようと努めている人々も、実は「無批判に」受け入れてしまっている価値観や前提が多々ありまして、それを自覚するのは相当に難しい。私も、先生からあれほどすばらしい「一喝」をもらいながら、20代に入るまで「民主主義」や「自由」、「平等」といった価値をほとんど無条件に信じていました。けれど、何のきっかけがあったかは覚えていませんが、己のなかにあるそれらの価値観念を理性の審問にかけてみたら、到底これに耐えられるものではなかった。当時の私にとって、それはとてもショッキングな出来事でしたが、それ以上に、今まで自分がすんなり受け入れていた価値観があまりに脆弱であったことに、一種の恐怖すら覚えました。

とはいえ、理性に耐えられない、と判断してそれでおしまいにしてはなりません。むしろ、〈批判精神〉の真骨頂はここからなのです。まず、理性に耐えられなかったとはいえ、それはあくまで「私の理性」ですから、どこかで理性の誤用があったかもしれない。これを確かめるためには、他の人の理性はそれをどう解したかを知らなければならない。文献をあたり、先達に尋ね、異論を持つ人と議論する。その過程は、いわば「自分の理性を批判に曝す」ことであり、「直感を理性の批判に曝す」ことの次に来る、新しい段階の知的鍛錬です。

〈批判精神〉は自らの理性をも批判せねばなりません。そうして己の理性を練り上げ、その理性をもって物事を何度も何度も吟味し、それに耐えたもののみ受け入れる。ただし、理性に完成はない、つまり完璧な理性などありません(少なくとも、私はそう考えています)。理性を通して眺める世の中は、窓の外の風景が、時間や天気、季節によって変わっていくように、常に変化していくものなのです。しかし、理性や理性を介して得られる知識が不定であるとするならば、この世のいかんともしがたい不安定さ(絶対的なもの、特に、善の不在)に、真正面から向き合うこととなりましょう。けれど、この「理性が燃やし尽くした荒野」のなかに足を踏み出す、その勇気と覚悟によって、人は真の学びに開かれるのだ、私はそう信じています――この確信も、未来の私の理性が拒絶するかもしれないにしても。

※なお、理性の批判に耐えらなくとも、それでもなお、ある価値観に立脚して己の生を歩まんと決心したとき、人は「信仰」に生きることになります。なお、信仰は理性の敗北を意味しません。なぜなら、理性は価値観を批判することはできても、価値観を産むことはできないからです。故に、こう言うこともできましょう。批判精神は、荒野のただなかでヤコブが夢見たような天国への階段に、いつか自分も到達することを、その心の底では、切望しているのだと。
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