〈ことば〉と方言と権力と

〈ことば〉は、声に出してしまえば空気中を伝わる音の振動に過ぎないのだろう。文字に起こしてしまえばただの情報の羅列なのだろう。すると、〈ことば〉は情報伝達のための、無色透明の道具のなのかもしれないが、私たち人間は、そこに、ある力を感じる。たとえば、〈ことば〉は、それがどんなものであれ、人の心を揺り動かさずにはいない。〈ことば〉は、聞く人の心に染み込んで、喜びや哀しみといった感情を喚起させる。

だが、〈ことば〉が帯びているのは、こうした「心」に関わる、情緒的な力のみではない。

〈ことば〉は、権力でもある。

先日、テレビを観ていたら、新入社員の女性アナウンサーが「自分は福岡(だったかな?)出身なので、方言を『なおしたい』です」と言っていた。

「なおしたい」と彼女は言った。なおす。この「なおす」は、「治す」なのか「直す」なのか。前者では、まるで方言が出てしまうのは病気であるかのようだ。後者では、標準語がしゃべれない日本国民は故障しているかのようだ。

すると、気の早い方は「彼女は、地方や地方のことばを劣ったものとして貶め、貶し、そして差別している」と誹謗するだろうが、私にその気はさらさらない。標準語がしゃべれなければアナウンサーとして務まらないのだから、彼女が自分の方言を「邪魔」だと思うのは当然だ。むしろ、一人前になろうとする心構えは立派だと思う。それに、彼女を批難してそれで満足するでは、あまりに底が浅いではないか。

ときに、訛(方言)を「恥ずかしいもの」と感じていたのは、私も同様であった。

私の訛はまだ「マイルド」な方だとは思うし、標準語も支障なく話せているとは思うものの、やはり端々で訛の影響が出る――福島も地域によって方言は異なるが、全般的な傾向として、同音異義語を抑揚で言い分けることはしない。たとえば、〈雲〉と〈蜘蛛〉は、標準語だとアクセントの位置で区別するが、福島ではまったく考慮しない。どちらも同じアクセント、というより、アクセント無しのズーズー弁で話す。私も意識しないと分けられない。標準語の「ネイティブスピーカー」なら無意識に使い分けられるのに。

今、日本で流通している標準語は、明治の初期に作られた「新しい言語」だ。それまでの、地域ごとに話されていた言語は、ある程度は日本語と括れる程度の共通要素があったにせよ、今に比べればてんでばらばらで、異なる地域間で会話ができないことなど珍しくもなかった。一方、武士などの支配階級は幼いころから共通の教養を仕込まれていたので、同階級同士でのコミュニケーションに支障はなかったが、一方で被支配民の〈ことば〉を話したり聞いたりすることは、ときに困難であった。

日本が近代化するにあたって、まずは国民が同じ言語を解する能力を身に着ける必要があった。近代国家の要件とは、国家の命令が国民の隅々まで届くことだ。特に軍隊で、兵隊が将校の指示や命令を聞き取ることができなかったら、戦争どころではない。

ここで重要なのは、必ずしも国民全員が標準語を話せる必要はない、ということだ。標準語が話せるのは、将校等の、指示を出し、命令を発する者だけでよい。兵隊は、将校からの指令の内容を正確に理解し、忠実にこなすことのできる程度のリスニング能力があれば用は足る。すなわち標準語は、社会構造上は支配階級の言語であり、それを「話せること」が支配階級であるための条件なのだ。非標準語である方言は、被支配階級のことばとならざるをえない。

標準語を解するだけでなく、それを、すべての国民が聞き取れる程度に話せること、これが社会において自らの地位を上昇させるための要件となる。逆に、標準語が身についていない者の社会的上昇は覚束ない。非標準語話者の〈ことば〉を、国民は聞き取ることができないからだ。標準語を話せるかどうか、これがその人の社会における「配置」の分岐点となる。

標準語の「ネイティブスピーカー」にはなかなか想像し難いかもしれないが、地方では特に高齢者層に、さらに若年層にも、標準語が満足に話せない人はそれなりにいる。かれらに対して、「ネイティブスピーカー」が、その地方の方言を、片言で話すとき、そこでは〈ことば〉による権力構造が上演されている。

「ネイティブスピーカー」、すなわち支配階層の〈ことば〉を、生れてこの方不自由なく話せていた者が、その支配言語を話せない、すなわち国民に呼びかける〈ことば〉を持たない者に、その被支配者層の〈ことば〉でもって語りかける。そのとき、「ネイティブスピーカー」は、地方の、標準語を話せない人に対し、「あなたたちの〈ことば〉は、社会の上部階層の〈ことば〉ではない」と、その発話(パロール)のなかに示してしまう。仮にそれが真愛の表現なのだとしても。

標準語の権力的優位性は、発話(パロール)においてのみ見られるのではない。書きことば(エクリチュール)のなかにも、表れる。

私は、〈ことば〉に纏わる権力性についてのこの文章を書くにあたって、標準語を用いている。どうして、私が生まれ育ち、私の口舌に染みついている方言で書かないのか。ひとつは、方言で書いた文章は、読み手に伝わらないからだ。もうひとつは、方言は、はじめから「書くこと」を念頭において作られた標準語と異なり、記述に向かないからだ。そのため、方言話者は、おのれの〈ことば〉を標準語に「翻訳」して、文章をしたためなければなければならない。そこでは、方言に込められた、己の想いの微妙なニュアンスは、切り捨てられる。

地方の、方言を話し、標準語を満足に操れない人々の〈ことば〉は、声にしても、文字にしても、十分に伝わらない。そうして、方言の、非標準語話者の想いは、往々にして打ち捨てられる。聞き取れないから。書けないから。かくして、方言の劣位はますます強められていく。

人間の、〈ことば〉を介した日常的な発話の、記述の、その端々に、権力が発現している。権力を必要としない、権力と無縁な「純粋な」コミュニケーションなど、不可能だ。そしてコミュニケーションそのものが、権力の誕生と強化と更新の、絶え間ない闘争の、現場となる。

発話の内容、つまり『何を』話しているかだけでなく、『何で』話しているのか、そこにも社会の有様の一面が見えてくる。
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