九条が描く真の世界平和とは――九条原理主義による劣化平和主義批判

世界は今一人の狂人を必要としているということである。……世界史の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。

――元内閣総理大臣 幣原喜重郎の言



当今、安保法制が話題にならない日はなく、今なお国会前ではこの法案に反対する人々が詰め寄せ、憲法に反する政治を許すなと気焔をあげております。かれらの「平和」を守らんとする心意気はすばらしいことと思いますが、一方で、憲法の護持を唱えてはおりますけれど、その実、憲法の精神の何たるかを確り弁えている方はどうも少ないように見受けられます。憲法を錦の御旗に掲げていても、その主張するところが憲法の趣旨に合致しなければ、逆にその精神を殺してしまうことになる、このことを私はたいへん危惧しております。

そこで、今年も終戦の日が巡ってくるにあたり、ここで九条が掲げる平和の理想とは何か、その具体的輪郭を描いてみようと思います。いわば「九条原理主義」の立場に立って、平和憲法の原義を著すことで、日本国憲法によって打ち立てられた平和の規準を明確に示し、安保法制のどさくさのなかで蔓延する「劣化平和主義」に打ち止めをかけ、平和を求める人々の議論の発展に貢献したいと願うものであります。

さて。

安保法案と憲法との関係については、国会に招聘された憲法学者が「違憲である」と発言をしたその日から緒論噴出しており、殊に当法案に反対する諸派はこれを矛とし盾として賛成派諸子を追求して止みません。なお当法案が違憲である以上は、当然憲法の平和主義に反する「戦争法案」であろうと見なされ、多く市民の運動に参加する契機ともなりました。

私も、当法案は違憲であると考えます。ですが、当法案「のみ」が違憲なのでしょうか。というのも、たとえば国会で「違憲」と発言した憲法学者のひとりである長谷部氏は「個別的自衛権の行使であれば合憲だが、集団的自衛権の行使は違憲である」とする主義に立っている。民主党も国会答弁で、岡田代表が同様の意見を述べている。

では、この「憲法が認める自衛権行使の範囲」を巡る問題について、九条の原理に照らせば如何なのか。それを、憲法制定に関わった人物の、当時の発言から探ってみましょう。

第90帝国議会衆議院帝国憲法改正案特別委員会(1946年6月26日)において、当時の首相、吉田茂は次のように答弁しました。

「戦争抛棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はして居りませぬが、第9条第2項に於て一切の 軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も抛棄したものであります。 従来近年の戦争は多く自衛権の名に於て戦われたのであります。満州事変然り、大東亜戦争然りであります」

また、同委員会(6月28日)では次のように発言しております。

「戦争抛棄に関する憲法草案の条項に於きまして、国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようで あるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名に於て行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認むることが偶々戦争を誘発する所以であると思うのであります」

※「憲法9条ファンクラブ」HPより引用
http://www.toyamav.net/~fc9/sPDF/44-8.pdf

当事はまだ自衛権の個別的/集団的の別はありませんでした。というのも、上記の答弁で表されているとおり、第九条第二項において、自衛権の発動による戦争はすべて抛棄されたのですから、その個別的か集団的かの違いなど問題にならなかったのです。

また注目すべきは「過去の戦争の多くは自衛権の名において起こった」と認識していることであります。かの枢軸国も、大義名分の上では、自分たちの戦争を「侵略戦争」だとは位置づけなかった。自分たちが生き残るための、生存のための、止む無き戦いなのだ、と主張した。「自国を守るための戦争」ならば認めるとしてしまえば、如何様にもこじつけて戦争することができてしまう。故に、自国防衛をも一切否定しなければ、本当の戦争放棄は実現しない。

九条の戦争放棄とは、自国を、自分たちの力で防衛する権利をも徹底して放棄せよ、と迫るものなのです。してみれば、個別的自衛権ならば認めるとする主張は、到底、九条原理主義の受け容れるものではありません。九条原理主義からすれば、もし本法案が違憲であるとして攻撃するならば、個別的自衛権の行使を認め、自衛隊という戦力を保有している現状をも打破しなければならない。その意志なき平和主義は、もはや九条の精神を失っていると言わざるをえません。

こう云いますと、当法案に賛成する方々のみならず、こうした「九条修正主義」の方々からも「では日本の安全保障はどうあるべきなのか。まさか敵が攻めてきても無抵抗でいろと言うのか。であれば、結局のところ九条原理主義とは空理空論に過ぎないのではないか」と挟撃されることでしょう。

このことについて応答するに『幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について - 平野三郎氏記』を取り上げたいと思います。幣原先生とは、戦後の1945年10月9日に内閣総理大臣に就任し、憲法の、特に平和主義に関する箇所の制定に大いに貢献された、幣原喜重郎その人であります。本資料は、当時幣原首相の秘書官を務めていた平野三郎氏が、すでに鬼籍に入っていたかれに代わって、平和憲法制定の本義を証言したものです。

本資料は、あくまで平野氏が生前の幣原元首相の談を紹介したものであり、また私は本資料の原本をこの目にしたことはありませんので、偽書である可能性は捨て切れませんが、しかしここには、九条に込められた平和の精神が余すところなく記されていると私は評します。

幣原元首相も、吉田元首相と同様、日本は一切の武装を解除すべきだと主張しています。その理由は、各国の果てなき軍拡競争の蟻地獄から抜け出すためであります。ただ日本だけが抜け出すのではない。各国が軍縮と軍の解体をしない限り、世界平和は訪れない、だからその先駆けとして、まず日本が戦力を放棄しようというのです。これについて、平野氏は「目下の処は差当り問題ないとしても、他日独立した場合、敵が口実を設けて侵略してきたら」どうするのだ、と質問します。

これに、幣原元首相は次のように答えている。

「僕は我国の自衛は徹頭徹尾正義の力でなければならないと思う。その正義とは日本だけの主観的な独断ではなく、世界の公平な与論に依って裏付けされたものでなければならない。そうした与論が国際的に形成されるように必ずなるだろう。何故なら世界の秩序を維持する必要があるからである。若し或る国が日本を侵略しようとする。そのことが世界の秩序を破壊する恐れがあるとすれば、それに依て脅威を受ける第三国は黙ってはいない。その第三国との特定の保護条約の有無にかかわらず、その第三国は当然日本の安全のために必要な努力をするだろう。要するにこれからは世界的視野に立った外交の力に依て我国の安全を護るべきで、だからこそ死中に活があるという訳だ」

すなわち、日本だけの「主観的な判断」で個別に防衛するのではなくして、国際社会の正義と秩序を信頼して、これに国の安全保障のすべてを委ねる、これが九条の唱えるわが国の安全保障の姿です。もしわが国が、完全に武装を解いた、侵略も防衛もできぬ国家であれば、そのような国を攻撃する国家が世界の賛同を得るはずがなく、必ずや世界の脅威と見なされ、様々な制裁を被るであろう。そのようなリスクを冒してまでわが国を攻める国はまずありえまい。であれば、むしろ武装せぬ方が安全を守れるのだ、というわけです。

無論、リスクを度外視して攻め入ってくる国もありましょう。国際社会の対応が二手三手遅れることも想定できます(なお国連が各国の自衛権を認めるのは、国連が然るべき制裁を加えるまでの「つなぎ」として当面の処置が必要となるとの判断からです)。その間は、敵の凶刃に晒されることは覚悟しなければなりません。多くの国民が、親兄弟が、恋人が、殺戮の目に遭うやもしれません。それでも、わが国が戦争を起こす可能性を微塵すら残さぬためであれば、この現実を享受する。平和のためにあえて国民の生命を捧げることも辞さない。この「狂気の沙汰」を貫くことこそ、九条の平和主義に立つ者であれば必ず持たねばならぬ覚悟であります。

ときに「九条があったればこそ、日本はこれまで平和だったのだ」と弁ずる方がいらっしゃいますが、これは優れて修正主義的な発想であって、原理主義の賛同しうるものではありません。何となれば、九条による平和は、まず日本が裸一貫となって、国際社会に対し道義を立てるところから出発しなければならない。もし日本が武装していたならば、自国のことは自国で守れと言われてそれで終いになりかねない。そうではなく、もし非武装の日本を見捨てたらば国際秩序の大いに乱れて各国も不利益を被る、故に日本を守らねばならぬ、そのような状況を作らねばならないのです。

今日までの平和が九条によるものかを実験するには、まずもって戦力の完全放棄が必要なのです。それが果たせていない以上、九条のおかげを被っていたのかはまったく証明できません。現実には、ひとえに日本周辺で重大な有事が起こらなかったこと、そして自衛隊という世界有数の戦力とアメリカという超大国の後ろ盾があったればこそ、ひとまず戦争の対象とならずに済んだと言うべきでしょう。

では修正主義者がどうして「九条のおかげで日本は平和だった」と称えるのかを考えるに、それは日本人がこれまでひとりの「敵」も殺傷しなかったことを誇っているからと推察いたします。要するに、日本人が危険に遭わず、日本人の手が血に汚れなければそれが平和と考えている。けれど、諸々の人道的支援をするにも、殊に紛争の止まぬ地域においては、まず軍事力によって安全を確保する必要があります。日本の人道支援は、他国の兵士の血によって可能となっているのです。もし九条の効能を日本人が穢れずに済むことに求めるのであれば、九条の平和は日本人にのみ恩恵をもたらす、非常にローカルで利己的なものになり下がるでしょう。

意外に思われるかもしれませんが、九条の平和主義は平和のために軍事力が必要であることを否定しません。故に、あらゆる戦争、武力、暴力の根絶を理想とする「絶対平和主義」とは思想的にだいぶ異なっている。こう云いますと、「平和のために武力を放棄したというのに、軍事力が平和のために必要なんて矛盾しているではないか」との反論が当然あることでしょう。

このことについて応答するには、九条の精神の最終発展形態、すなわち九条が理想とする究極の世界平和の体制とは如何なるものなのかを語らなければなりません。

砂川判決は、政府与党や安保法制推進派からは、その合憲性の根拠とされ、反対派からは、アメリカの政治的意向が強く反映された不当な判決であると切り捨てられている。しかし、当判決を集団的自衛権行使の合憲性の根拠とするにはあまりに無理があり、また反対派にしても、わが国の最高裁で出された判決を了としない態度には、およそ民主主義国家の国民としての品性が疑われるところであります。いずれにせよ、両派から不適当な扱いをされていることは事実であり、どうにも不遇をかこっているようではありますが、しかし、当判決で示された原則は九条の平和主義を考えるにあたって非常に有用であります。

砂川判決の要旨を、本論に関係する部分のみ抜き出してみます。

1 憲法第九条第二項が戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となって、これに指揮権、管理権を行使することを禁ずるためである。
2 憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではない。

すなわち、憲法九条が禁じているのは、わが国が指揮しうる戦力を保持することであって、敵性の国家がわが国を攻撃してきた際、同盟国や国連等の国際組織が、わが国を防衛するために必要な法制度等を整えるのは合憲である、ということです。

この判決は、これまで述べてきました九条原理主義の信条にぴったり合致いたします。日本は自国の防衛する力を放棄しましたが、かといって無抵抗主義・絶対平和主義の如き、一切の戦争行為を否定するような極論には走っていない。日本を守る事こそ世界秩序の維持につながると国際社会が判断する外交的状況を作り上げ、もし日本を攻撃してきた敵があれば、日本ではなく国際社会がこれを撃退する、それが九条の描くわが国の安全保障のかたちですから、日本の防衛=世界秩序の維持をしやすくするための措置であれば、それが戦争に備えるためであっても合憲なのです。

しかし、これではまだ「ローカルで利己的」な理想でしかありません。九条が、世界に誇れる平和思想となるためには、より普遍的な、世界規模の平和を実現するためのビジョンを提示できなければなりません。

ひとり日本の平和のみではなく、世界を平和に導くための、その先駆けとなることこそが九条の魂胆であります。では、いかなる平和体制の「先駆け」たらんとしたのでしょうか。

重要なのは、九条が禁じたのは「国が戦力を保持すること」だということです。国が自らの意志で、自由に扱える戦力を持っている、このことが戦争の原因であると捉えていることです。故に、世界平和のためには、日本のみならず、いずれすべての国々が、自国の自衛権を放棄して、自前の戦力も解体しなければならない。日本はそれを真っ先に実践しようとしたのであります。

これだけですと「軍隊がなければ戦争はなくなる」という、酷く単純で、かつあまりに楽観主義的な、取るに足らない考えだと一蹴されることでしょう。しかし九条は、日本が侵略の憂き目に遭えば、国際社会が正義と秩序のために行動するであろうこと、このことを少しも疑いません。国際社会が横暴な武力に立ち向かうためには、それに対抗する武力は不可欠なのですから、わが国の憲法は、世界のいずこかに、世界の秩序を維持するに足る「戦力」があること、これを前提にしている。しかし、すべての国家が戦力を放棄した今、どこにその「戦力」があるのか。

再び幣原元首相の論を紹介いたしましょう。

「僕は世界は結局一つにならなければならないと思う。つまり世界政府だ。……何故なら、世界政府とまでは行かなくとも、少くも各国の交戦権を制限し得る集中した武力がなければ世界の平和は保たれないからである。凡そ人間と人間、国家と国家の間の紛争は最後は腕づくで解決する外はないのだから、どうしても武力は必要である。しかしその武力は一個に統一されなければならない。……すなわち戦争をなくするための基本的条件は武力の統一であって、例えば或る協定の下で軍縮が達成され、その協定を有効ならしむるために必要な国々か進んで且つ誠意をもってそれに参加している状態、この条件の下で各国の軍備が国内治安を保つに必要な警察力の程度にまで縮小され、国際的に管理された武力が存在し、それに反対して結束するかもしれない如何なる武力の組み合せよりも強力である、というような世界である」

各国が各国の主権の行使として用いることのできる戦力を放棄することで、各国が自国の「自衛」を大義名分として勝手な戦争を起こすことを不可能とし、一方で不当な武力を行使する者に制裁を科すため、世界中の戦力を一元的に管理する「世界政府」を樹立して、その圧倒的な武力のもとで平和を維持する。これこそが九条の平和主義がその極限において実現せんとする平和世界の体制であります。

もし「世界政府」が樹立された暁には、日本は世界政府軍の結成を助けるために「日本軍団」を組織してこれを「世界政府」に献上すること、このことは何ら憲法に違反しません。むしろ、九条の理想郷を維持するため、不当な武力がいずこかに出現したならば、日本軍団が世界政府軍の先鋒を務める等、どの国よりも積極的に貢献すべきでしょう。修正主義者の如く「日本人の手さえ汚れなければ平和」という発想は、九条の精神が健全に発展していくためには害悪にしかなりません。

以上、述べてきたことを簡単にまとめますと、次のようになります。

・九条は、個別的/集団的の区別なく、自衛権の全面的放棄を企図したものである。なぜなら、過去の戦争のいずれも自国を守るためという大義を以て為されたものであるから、自衛権を残している以上は、戦争の可能性は残ってしまうから。
・九条はいわゆる「絶対平和主義」の唱える如く、戦争及び武力行使の全否定はしない。ただ国が戦力を持ち、国の独断で戦争することを禁ずるのみである。なお、仮に敵国が攻撃してきた場合は、日本の防衛が世界秩序の維持に不可欠となるような国際状況を事前に作り上げ、国際社会による武力行使を含めた制裁によって安全を確保する。
・九条はいずれすべての国々が自国の戦力を放棄することを願い、日本がその先駆けとなることを宣言している。その目指す先は、世界の戦力を一元的に管理する「世界政府」の樹立により、全世界の平和を維持することである。

これが九条原理主義のテーゼであります。九条原理主義にとって、九条とは、わが国と日本国民が「世界政府」の樹立という大目標に向かって邁進することの宣誓文なのであります。その点で、目先の危険から日本人を逃すための方便として九条を持ち出す修正主義者たちとは、一線を画しているのであります。

九条を改正するというのは、すなわち「世界政府」による世界平和という路線を放棄するということであります。しかしながら、九条の原理が指し示すこの世界平和の理想の他に、別の世界平和のビジョンを人々に提示できる者がはたしておりましょうや。残念ながら、改正派の人々、そして修正主義者たちの中にも、より魅力ある未来世界の平和の展望を描けるほどの思想家は皆無であるように思います。

改正派は九条に代わる世界平和のかたちを示せず、また護憲派のほとんども修正主義に陥った結果、九条の世界平和のビジョンは歪み、その像を結ぶことが困難になっている。かくいう私も、世界政府以外の永遠平和のかたちを思い描くことができていません。現代の私たちが抱える重大な問題に、この「平和思想の貧困」があるように思います。目先の損得に惑わされ、世界平和に向けた遠大な道程の、その概略図すら描くことができないのです。

その結果、平和を叫ぶ声は、当の「平和」の概念が曖昧模糊としているため、的外れで無責任なものとなり、それにも関わらず「平和」は「反論を許さない絶対価値」となってしまっているから、「平和を守れ」という実質的意味を失った空虚なフレーズに、人間性を分別する暴力的な力が宿りつつある。この惨状を打破するためには、九条の原理に立ち返って世界政府路線を再確認するか、日本国民が熟議の上で新たな平和思想を練り上げ、これを掲げた条文に改正すべきではないでしょうか。
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