「若者たち」への期待――自己への不安の共感から問題化を目指す政治運動へ

9月19日の夜は、テレビで安保法案が採決される様子をテレビ中継で観た後、ニコ生でSEALDsの抗議集会の様子を、明け方まで視聴していました。

反対派の「若者たち」が抗議する姿をしっかりと観たのは、今回が初めてでした。集まっていたのは主に10~20代の男女、「安倍はやめろ」、「賛成議員を落選させよう」、「選挙に行こう」といったシュプレヒコールがリズミカルに幾度も繰り返され、合間にアジテーションが挟まれる。おそらく、安保法案の国会審議中、かれらはこのような抗議行動をずっと続けてきたのでしょう。

若者たちの熱意と行動力は大いに称えるべきです。それにしても、政治に関心がないとされる「若者たち」をそこまで駆り立てた力はいったい何なのか――平和を守ろうという強い信念、それもあるでしょうが、私には、その原動力となっているのは、かれらが抱いている「自己に対する漠然とした不安」ではないかと思われるのです。

SEALDsのメンバーか、たまたまそこに居合わせた参加者かはわかりませんが、檀上に上がった若者のアジテーションは、無論、安保法案の成立に対する批判や怒りを込めたものもありましたが、興味深かったのは、そこに自らの境遇を語ることばが挿入されていたことでした。

経済的に不遇な家庭環境、多額の学費、将来への不安――。

法案に直接関わらない事柄が、当たり前のように語られ、周囲の若者たちも違和感なく受け容れている。かれらにとって、安保法案に反対を唱えることと、今の自分たちが不安定な状況に置かれていることに共感を求めることとは、何ら異質なことではなく、どちらも同じ「問題意識」の範囲内に属しているのです。

若者とは「まだ何者でもなく、これから何者かになっていく者」である、と言えるかと思います。若者には、自らを規定するための材料が、未だ十分に揃っていません。自分はこれから何をすべきなのか、自分には何ができるのか、自分の生き方はこれで良いのか――そういった己の実存を巡る様々な悩みが心の内で渦巻いているものの、それを鎮めるに十分な解を得ることもできない。自己の将来は深い霧に覆われ、一寸先にあるはずの道さえ判然としていないなか、悶々として穏やかならぬ日々を過ごしているのです。

してみると、「戦争法案」に対する若者たちの反応は、ただでさえ見晴らしの悪い自己の将来が、一層の暗雲に覆われてしまうという危機感に基づいる――と早々に断言したいところですが、若者の心理はもっと入り組んでいます。

SEALDsをはじめとする若者たちの言動は、自分たちが奉ずる平和思想を積極的に語るでもなく、また自分たちが望む平和を実現するための短・中・長期のプランを立てるでもなく、どの政党を支持するのかを明言するでもない。人間の集団が組織的に活動するにあたって必要不可欠な理念や計画性がまったく欠落しているのです。その理由は「自分たちを自ら何者であると規定することへの拒絶反応」ではないかと思われます。

若者は、己が何者でもないことへの焦燥感に駆られている一方、しかし何者でもない自己を謳歌する者でもあります。人は何者かになってしまえば、そこから別の何者かになるのはなかなか困難です。けれど若者は、まだ何者でもないから、これから何者にでもなれる――自己が「自由」かつ「全能」であるという感覚を根拠とした、大人からしてみると無責任とも楽観的とも取られかねない自己の未来への希望的観測。世間は若者に「何者かになれ」と迫り、若者もまた「何者かにならねば」と焦りを覚えているのですが、しかしその心の奥底からは「何者かになってしまうこと」への恐れが沸々と湧き上がっているのです。「何者でもないこと」は、不安の原因であると同時に、自己に万能感もたらす愉悦の源でもある。このアンビヴァレントな心情が、若者の魂に葛藤を生み出しているのです。

※安保法案に絡んで「徴兵制復活」という荒唐無稽な噂が若者の間で驚くほど広まったのは、それが自己を何者かに規定するものであり、自己の自由に対する脅威と捉えられたからと考えられます。

「戦争法案」に反対する若者たちの運動のもうひとつの特徴は、「戦争法案」の「感じの悪さ」を共有したいという欲求が溢れていたことです。他者と「共感」したいという欲求は、万人が共通してもっている根源的な願望ではありますが、若者はこれが殊の外大きいように思います。そこにあっては、自己の葛藤さえも、同じく葛藤している者たちと共感するための通貨として機能します。故に、葛藤の解消はかれらが真に望むことではありません。葛藤をも媒介にして他者とつながることの快感を味わう事、これが最大の望みなのです。

SEALDsのリーダー格である奥田君は、この運動の目的を「若者が声を上げる場を作る」ことと設定しましたが、若者のニーズとしっかりと合致した見事な戦略であり、狙いどおりたくさんの若者が運動に参加することとなりました。国会前の集会は、若者たちが、自分たちのモラトリアムが破られてしまうことへの漠然とした不安に駆られ、その無意識から到来する恐れを思う存分「共感」する場となったのです。

しかし、前述のとおり、そこでは目指すべき平和の姿を描いたり、その実現のための方策を練ったりする等、組織活動にあるべき試みは、ほとんど為されぬままでした。組織の理念を明確に設定してしまえば、その組織に属する以上、いやおうなく、その理念に「従属する者(subject)」として自己を規定しなくてはなりません。不確かな自己に由来する葛藤を媒介とした集合体である以上、自己の在り方はどこまでも曖昧なままにしておかなくてはならず、そのため葛藤の解消を強いるような要素は極力排除せねばならなかったのです。結局のところ、若者たちにとっての安保法案は、自己の鬱積したエネルギーを起爆させるための着火剤でしかなかったのです。

若者は、少年から大人への過渡期にあたります。大人となるにあたり「何者かになりたい」という社会的欲求を抱きつつも、「何者でもなかった」少年の頃の万能感を捨てきれない。故に「何者かであれ」と強請されたと受け取れば、これに猛烈に反発しますが、「では何者になりたいのか」と問われれば、その答えを未だ持っていないし、心の底では、できればぎりぎりまで答えたくないという気持ちも抱いている。

時代に流され、仕事に就き、結婚し、家庭を育む者たちは、自己の何者であるかを、その状況のなかで規定せざるを得ません。それは必ずしも自分から選んだことではなく、むしろ社会から強いて付与されたアイデンティティが大半ではありますが、それを「自分のもの」として引き受けたとき、人は大人になるのです。60年安保闘争に参加した当時の若者たちや、その後巻き起こる学生運動の闘士たちも、スーツに袖を通し、自己が「何者か」になってしまったのだと自覚したとき、かれらを運動へと掻き立てた若さゆえのエネルギーは永遠に失われ、「普通の大人」として人生を歩むことになったのです。

SEALDsをはじめとする「若者たち」の運動は、誰もがその時期に経験する、行き場のないリビドーを何とかして発散させようとして足掻く、微笑ましい青春の一場面である――世間的にも、その程度にしか受け取られていないように思います。かれらの「声」は歌劇のコーラスのように、あるいは狼の遠吠えのように、美しく、力強く、扇情的ではあっても、そこに「メッセージ」が読み取られることは、ありません。

しかし、そうやって「若者だから」といなされ、若者の「声」が「メッセージ」化されることのない現状は、非常に「問題」があると私は考えます。

若者たちの「不安」を自己の実存に関わるものに押し込めるのは不当です。なぜなら、社会の実状として、若者たちの将来は目を覆いたくなるほどに問題が山積しているからです。

少子高齢化が進行した日本では、年齢構成が逆ピラミッド型となっており、若い世代ほど社会保障費が重くなります。国の財政はいよいよ赤字が重なり、自分たちが支えられる側の年齢に達したとき、その負担に見合う見返りがあるのか、非常に疑わしい。さらに、労働人口の減少は国の経済力の減退にもつながりますから、経済的にこれから日本が成長していくとは想像し難く、そんな中で生き残っていくには、グローバル化の一層の伸展も相まって、国内のみならず、世界の人々と生存競争を繰り広げなければならず、自身の「有能さ」を常に示していく生き方が今後ますます求められていく――。

挙げればキリがありませんが、若者たちだからこそ置かれている「苦境」ははっきりと存在しているのです。若者たちが不安に脅える理由は、かれらの自己内のみならず、この国(あるいは世界)の現状にこそあるのです。だから、若者たちの「声」を政治的な「メッセージ」にコンバートしていくことこそが、わが国の市民社会における重要な課題なのです。

ですから、私としては、SEALDsはじめ若者の「集団」には、より成熟した「団体」へと発展してもらいたいと願うのです。たとえば、若者世代が置かれている社会的状況と将来的な問題を整理し、その解決に資する政策を立案する政治家へ投票する「若者世代の集票マシーン」となる政治団体を結団してはどうでしょうか。そのためには、できるだけ多くの若者を団体に組み入れ、選挙の際に動員できる体制を整えなければなりません。動員可能人数が多ければ多いほど、与野党を問わず圧力をかけることができ、若者世代の政治的発言力を高めることができるでしょう。幸か不幸か、現在若者たちの運動体の筆頭格であるSEALDsは、特定政党へのコミットを言明していません。それでいいと思います。特定政党の組織になるのではなく、あくまで若者世代に益する政治を行う政治家を、是々非々で支援するという姿勢であるべきでしょう。

大阪都構想を巡る住民投票では、「支えられる側」であり、現状維持を望む高齢の有権者が、「支える側」で、現状の変革を望む若年の有権者より圧倒的に人数が多いという、いわゆる「シルバーデモクラシー」の問題が提起されました。小勢が多勢に勝つには、総員の力を結集し、多勢ゆえのまとまりの緩さを衝いて一点突破を計るしかありません。若者の間に高まった政治的関心を、このまま窄めてしまうのはあまりに惜しい。SEALDs等の若者たちには、もっと広い視野に立って、賛否渦巻く安保法制にはあまり拘泥することなく、若者世代特有の問題を広く政治化し、自分たちの未来にかかった暗雲を払いのけるための運動を展開して欲しいと思います。

※非常に残念なことに、かれらの周りには、活動資金を斡旋したり、デモのやり方を教授したりする大人はいても、真の意味で若者たちを導いていこうとする者はだれ一人いませんでした。若者たちは、政権党のイメージダウンを図るためのプロパガンダに体よく利用されたのです。鼻の利く若者のなかには、その「腐臭」を嗅ぎつけて敬遠する者も少なくありません。若者世代のために、若者が結集できる環境を整えるべく指導するのが大人の役割でしょうに。
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