クリスマスなので「愛」について語ってみた

愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている……神は愛だからです。
  ――聖アウグスティヌス



最近、近くの図書館でアウグスティヌス著『神の国』が入荷されました。アウグスティヌスといえば、ローマ帝国末期に活躍したキリスト教の思想家で、世界史や倫理の教科書にも載っていますから、名前を暗記している方もおられるでしょう。これも縁だと読んでみようと思うのですが、なにせ大著ですから、今はかれの思想の概要を勉強して「本番」に備えているところです。

さて、おおまかなところ、アウグスティヌスの思想は「愛」をその中心としているようです。アウグスティヌスのみが「愛」を語ったのではなく、キリスト教という宗教がそもそも「愛」を教義の柱としていますから、アウグスティヌスはそれをさらに深めたと言うべきでしょうか。

世間はクリスマス(を少し過ぎてしまいましたが)、イエス・キリストの生誕祭でありますが、日本ではすっかり「恋人たちのためのイベント」になっています。とまれ、そこにも「愛」はありましょうし、せっかくですから、私になりに「愛」のことについて、少しお説教してみたいと思います。

※とはいえ、私はキリスト教徒ではありませんので、あくまで私なりに理解したキリスト教の「愛」を述べるのみでございます。

ときに、宗教はなべて今生の苦しみを除くことを目的としておりますが、仏教は「愛別離苦」といって、愛こそが苦の原因としてこれを「捨てよ」と説く一方、キリスト教は「愛せよ」と説いており、まことに対照的でございます。

現代はストレス社会だと言われますが、生きている以上は何かしら苦労することを避けられないのが人生でありますから、誰にだって辛く苦しい思い出の、十や百はあることと思います。そうした苦い人生経験のなかでも、とりわけ「愛」が絡む苦しみは格別でございます。

愛する人に告げた想いが、すげなく振られてしまった時。心から愛していた人から別れを告げられた時――実は別に愛人を作っていたとなれば、悲惨さはさらに増しましょう。

もちろん、キリスト教の愛の概念は男女間(同性間のものでも)の性愛に限ったものではありませけれど、「愛」が胸を引き裂くような苦しみをもたらす経験は、誰しも味わう、たいへん身近な出来事です。

仏教にとって、愛とは人間のもつ「執着」の心に外なりません。人間の執着心は、愛した人や物をあたかも永遠にそのようにあり続けると思い込んで、欲望し、のめりこみ、寄りかかり、そしてそれを失うや嘆き苦しむ。けれど、人も世も刻々と移り変わり、あらゆるものはいずれ失われる定めなのですから、執着によって心の安らぎを得ようとしても、それは苦しみの種を自ら蒔いているのに等しい、というわけです。

それにも関わらず、キリスト教は「愛」を賛美しているわけですが、それは「愛は確かに苦しみの原因にもなるけれど、喜びも大きい」といった「リア充理論」とは無関係です。キリスト教に限らず、宗教は絶望が蔓延し、一縷の望みすらないなかにあってもなお、人々に光を与えるものでなければなりません。

愛する人を失ったり、愛しているのに裏切られたりすると「もう愛するなんて懲り懲りだ、二度と愛するものか!」と、愛に絶望してしまう人もおります。愛への絶望は、キリスト教にとって致命的でありますから、人が愛を投げ出してしまうことは何としても避けなければなりません。

そもそも、愛を失った人が、愛に絶望するのはどうしてなのでしょうか。それは「対象そのもの」をダイレクトに愛しているが故であります。仏教も説くように、移ろいゆく世の中で、人の愛や、愛している対象が永遠に続くことはありえないのですから、その愛は破綻を運命づけられています。これでは、絶望しない方が無理というものです。

愛がいずれ破綻するのであれば、人は愛することに臆病になってしまいます。それでも、人が人を愛せるように、キリスト教の神は人間に命ずるのです。

「汝の隣人を愛せよ」と。

この命令はたいへん重要です。これにより、人を愛するということが、その人自身を愛しているからというのではなく、神の命に従うがゆえの愛へと、その動機が変質します。たとえ愛する者に裏切られたとしても、その者を愛するがゆえに愛したのではなく、神の命ずるままに愛していたのですから、悲嘆するには及ばなくなります。人を愛するということに「神の命」を介在させることによって、対象そのものに由来する愛を絶ち、仏教が危惧する執着が生む愛の苦痛を除きつつ、「愛する」ことが可能となるのです。

と述べますと、御説ごもっともな気がしてまいりますが、「私があなたを愛しているのは、神様に『愛しなさい』って言われているからだよ」と言われても、なんだか嬉しくないですし、命令されたから愛するとか、子どもじゃあるまいし、情けないなという気もいたします。そもそも、神などという、在りもしない者の言う事に従うなど、現代の、殊に日本人にとっては馬鹿げたことでありましょう。

愛の理解を深めるためには、この「神の命による愛」について、いま少し話を掘り下げなければならないでしょう。

キリスト教徒たるもの、一時とて愛することを忘れてはなりませんが、なによりもだれよりも第一に神を愛しなければなりません。神を愛する心に目覚めた者が、キリスト者であるともいえましょう。

しかし、神を愛するといっても、神は目には見えず触れることも適わず、実在するかも限りなく怪しい存在ですので、直に対面して抱き合う、というのはどうやら無理そうです。それでも神を愛し、愛されることを望むものは、神への愛を証明するために「隣人を愛せよ」という命令を実行するわけです。

神の命に従って人を愛していくこと、それは神への愛を深めていくこととなります。神への愛が深まれば、神の命をますます尊ぶようになり、人への愛もまた深まっていく――かくして、このらせん状の回路を通じて、愛はどんどん増幅していきます。神の命により起動したこの「愛の回路」ですが、ひとたび順調に動き出したのならば、実は、神はいてもいなくてもどうでもよくなります。

どういうことか。

たとえば、最近では5つに満たない子どもでも、スポーツや芸術など何かしら習い事を持っているのは珍しくありませんが、その子どもが自ら望んだから習っている、というケースは珍しいでしょう。現実には、親が子の将来を思って、子の意志とは無関係に習わせているのがほとんどです。

子どもは、はじめこそ乗り気でなく、親の言いつけだから、やらないと叱られるからと、渋々通っていたとしても、練習を繰り返すうちに上達していく自分を実感できるようになると、次第に事を習う歓びに目覚めていきます。こうなれば、あとは親が口出ししなくとも、自分の意志と力で練習を積み重ねていくようになります。

もし、親が無理矢理でも子に習い事をさせていなかったのなら、子は己を高めていく歓びを味わうことはできなかったでしょう。確かに、そこに子の意志はなかったかもしれませんが、子の意志ばかりを尊重していては、子は自らの進むべき道にさえ迷ってしまいます。

神と神の命も、これとまったく同様です。神の命は、きっかけに過ぎないのです。しかし、このきっかけがなくては、人間は誤った愛し方をしてしまう。そうならないために、まずは多少本人の意志を殺してでも、神にすっかり身を委ねよと説く。そうして、正しい愛の回路が作動したならば、もはや神がとやかく言う必要はないのです。

キリスト教の「愛」の理論は、愛を「自己目的化」する、すなわち愛することそのものを愛の目的にしてみせるところに、大きな意義があると私は思います。

愛情は、人間のもつ自然な感情でございます。けれど、人間の愛は、特定の人間のみを対象として、さらに愛の動機は、愛の対象となるその人自身に由来しています。これは、執着に支配される「危うい愛」です。キリスト教はこの愛を避けるとともに、人間の愛を愛の回路のなかに導き、人類すべてに向けられる普遍的な愛へと昇華させようとする。その導入口として、まずはいったん神なるものへ愛する気持ちのすべてを預けるのです。そして神の命により、人間の愛は愛の回路へと流しこまれます。

愛の回路において、愛は、その隣人が隣人であるからということでなく、また隣人のためというでもなく、「愛するということそのもののため」に為されるようになる。だれのためでもなく、ただただ愛する、「愛するということを愛するが故に愛する」、そのような境地が開かれていくのです。

ここにおいて神は、他でもない愛そのものへと変身していきます。神は、人間が愛するに値する唯一の存在であり、人間は、神を愛するがゆえに人を愛するのでした。しかし回路が形成されて以降は、人は愛することを愛するがゆえに愛するようになります。かつて神が座していた位置に、愛が取って代わることとなるのです。こうなれば、人は神が命ずるから愛するのではなく、愛するという行為を愛しているがゆえに、愛ゆえの絶望を恐れることなく、自らの意志で人を愛するようになるのです。ここまでくると、実は話が逆で、普遍的な愛が人々を導くために、あえて方便として神なるものに化けていたのでは、とさえ思えてきます。

かくして、自己目的化した愛は、愛に目覚めた人々によって無限に増殖を繰り返し、そうして愛が人間世界を包み込んでいく。これがキリスト教の描く理想世界――「神の国」なのではないか、と私は考えています。とはいえ、これは勉強を深めていくに便宜を図るため立てた仮説ですので、これが正しいとは申しません。さてしかし、「愛」について語るなど、普段は気恥ずかしくてとてもできませんが、今日は1年のなかで「愛」をどうこう言っても「恥ずかしくない」日ですから、日ごろは愛のかけらも感じられない世知辛い世のなかで暮らしている方も、たまには真正面から「愛」について考えてみるのも良いのではないでしょうか。
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