差別主義者を排除して、排除への憎悪を示した「自由主義社会」

●全国初、ヘイトスピーチ規制条例…大阪市議会
http://www.yomiuri.co.jp/politics/20160116-OYT1T50102.html


私自身は、ヘイトスピーチの「品のなさ」には呆れているので、ないならないに越したことはないと思っている。

ただ、これを敢えて抑止することには、疑問がある。

たぶん、リベラルを自負する人のほとんどは、この規制に賛同するだろう。かれらは人道の守護者たることを欲するから、異質な他者を排除しようとする「差別主義者」を憎悪する。リベラリストに限らず、世間並みの良識を有する者ならば、まあ仕方なかろうと看過するだろう。

ということは「ヘイトスピーチで他者を排除しようとする差別主義者は排除しても構わない」という社会的合意が醸成されていることとなる。我々の「自由主義」は、人間の平等を謳い、差別を憎み、異質な他者とともにあらんと欲し、故に人を排除することを憎みながらも、「人を排除しよう」と欲する異質な他者は、これを差別して排除することを厭わないようだ。

と言って、私は我々の「自由主義」を誹謗したいわけではない。ただ、自由は「寛容」なくして成り立たないことを確認したいだけだ。「寛容」とは、強者が、弱者にその存立を許すということであり、民主主義社会にあっては、強者とは概ねマジョリティ、弱者とはマイノリティのことだ。マイノリティの自由は、マジョリティが良しとする範囲を乗り越えてはならぬ。逆に、マジョリティはその自由を振りかざしてマイノリティの自由を抑止できる。

さて、我々の社会は、差別主義者を排除することで、我々が排除を憎んでいる自由主義者であることを、示した。排除をなくすためには、差別主義者を排除するのが得策だと判断した。「共にあることができる他者」と「共にいられない他者」がいる、その間の線引きと区別が可能であることを、そして場合によっては、「共にいられない他者」を排除することもある、その前例を作った。

共存は寛容のもとでのみ可能ならば、ときに、我々が信奉する自由の価値とは、いかほどのものなのだろうか。
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