自由主義者の精神 ~M・フリードマン『資本主義と自由』~

資本主義と自由 (日経BPクラシックス)資本主義と自由 (日経BPクラシックス)
(2008/04/10)
ミルトン・フリードマン

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 M・フリードマンは、日本では「ネオリベの権化」として記憶され、ひどく忌み嫌われている経済学者といえるだろう。たしかに、かれは市場原理を支持する自由主義者であり、また大きな政府より小さな政府を良しとするアメリカ自由主義の伝統を正統に引き継ぐ「保守派」である。「規制緩和」への批判が嵐のように巻き起こっていた「国家主義的な」日本においては、どうやら悪魔の思想と受け取られたらしい。
 とはいえ、かれが「ネオリベ」呼ばわりされるのも致し方ないところもある。たとえば、かれは政府が撤廃すべき制度を以下のように挙げている。

1.農産物の買取保証価格制度
2.輸入関税・輸出制度
3.産出規制
4.家賃統制
5.最低賃金・法定金利
6.産業規制・銀行規制
7.ラジオ・テレビ規制
8.社会保障制度
9.特定事業・職業の免許制度
10.住宅政策
11.徴兵制
12.国立公園
13.郵便
14.有料道路

 日本人がこれを見たならば、大抵はこのあまりに放任主義的な提言の数々に目を回すことだろう。そして次の瞬間には「人を人とも思わぬ暴言をぬけぬけとぬかす、まったくけしからん輩だ!」と口角を飛ばして批判することだろう。それから罵倒するだけ罵倒して、その中身を吟味する作業など放棄してしまうにちがいない。
 自由主義、とくに経済自由主義に抵抗感をもっている社会派の人間には、これらフリードマンの提言はひどく乱暴なものに映るであろう。たとえば、1や2は国内農家や産業を守らんがためにTPPに反対する陣営からすればまったく受け容れがたいことだし、5や8は生活困窮者に対する死刑宣告のように見える(実際には、最低賃金は本当に苦しい人々をさらに苦しめているのだが)。しかし、これらの提言がいかなる社会思想・信条のうえに立てられたのか、それを知らずにただ頭ごなしに拒絶してしまうのは、なんとも勿体ない話ではなかろうか。というのは、よくよく吟味してみれば、フリードマンは日本も奉戴している(はずの)自由の精神(日本のそれがタテマエでないことを願うが)から必然的に導かれる施策を述べているに過ぎない面があるからだ。
 かつ注目されるのは、自由主義者であるフリードマンが「負の所得税」を同時に提言していることだ。負の所得税とは、後に詳しく述べるが、要するに、個人の所得が基礎排除を下回る場合、その差額分に負の所得税率を適用して算出された金額を「国家が個人に支払う」という制度だ。個人に一定の所得を保証するという、ベーシックインカムとも通底するこのプログラムは、社会主義・共産主義に過敏にアレルギー反応を示す日本人にとって――そのアレルギーの大概は無知から起こっているのだが――まず論外の制度であろう。それを、自由主義者フリードマンが提唱しているというのは意外かもしれない。自由主義といえば「敗者の自己責任」が叫ばれ、勝ち組を称賛し、負け組はうち捨てる、そういう考え方なのだと思われがちだ。しかし、それは大きな間違いだと断言しよう。負の所得税は自由主義の理念から演繹的に要求される制度なのである。
 ますます景気の後退する日本においては、自由主義は人々の生活を破壊する「悪者」扱いされ、社会主義・社会民主主義への傾倒が進んでいる。失業や貧困が拡大するなかでは、将来のよすがとして「成長より安定」の方向に惹かれるのもわからない話ではないし、ひとつの手立てではある。だが、その選択で果たして私たちの社会が掲げてきた諸々の価値を――日本にそんなものがあればの話だが――守れるのだろうか。また、いま目下の事態となっている失業や貧困などの社会問題は、実は自由主義思想の枠組みからでも対応できるのではないか、それによって社会主義的政策を求める人々の要求はほとんど満たせるのではないか。本論はこれらの問いの下、フリードマン著『資本主義と自由』より、かれの自由論、平等論、政府論などを確認した後、なぜ自由主義のもとで負の所得税が要求されるのかを述べていきたい。


1.自由主義者(Liberalist)の精神

 フリードマンは冒頭でケネディ大統領の有名な一句を引用している。

「国が諸君のために何をなし得るかを問い給うな。諸君が国のために何をなし得るかを問い給え」

 日本人であれば「まさしくその通りである!国に甘えるのではなく、各人が国に貢献していかねば」と膝を打って賛同しかねないこの文句を、しかしフリードマンは「自由社会における自由人の理想にはほど遠い」と一蹴する。だが後句が間違いで前句が正しい、というわけではない。かれにとって「国が諸君のために~」という関係性も「諸君が国のために~」という関係性も、どちらも自由人の精神には合致しない。

自由人にとって国は個人の集合体に過ぎず、それ以上でも以下でもない。受け継がれてきた国の文化を誇りに思いもするし、伝統も守ろうともする。だが、自由人にとって政府とは一つの道具や手段にほかならず、何か施しをしてくれるやさしい庇護者でもなければ、敬い仕えねばならない主人でもない。また国家の目標も、一人ひとりの目標の集合体としてしか認めない。(p.24)

 自由人にとって、国家(政府)というのは、あちらから何か施しをしてくれるわけでも、またこちらから何か貢献せねばならないわけでもない。ただ自分の自由を守るための「道具」に過ぎないのだ。だから、自由人は国家が個人の自由を妨害するのを何よりも警戒するし、またそのような意図をもった施策を断固として認めない。自由人にとって「自由は、傷つきやすい高貴な花のようなもの」であり、この儚くも美しい価値を守るためにはあらゆる手段を行使するものである。
 そのため、自由主義(liberalism)の戦略は「政府が自由を脅かすのを防ぎつつ、政府という有力な道具から望ましい成果を引き出すにはどうすればよい」かを課題としている(p.25)。権力はともすればすぐに個人の自由を阻害しようとする。だから権力の動向に注視し、個々人の自由を防衛するのが自由社会に生きる市民の役割なのであり、また憲法を立てて国家行動を抑制した理由なのである。
 当然の事ながら、自由人は「大きな政府」を拒否する。大きな政府を主張する人々は、その方が社会の平等を保たれると信じる。政府はその権力(暴力)でもって強制的な所得移転ができる唯一の主体であるから、その機能を高めていけば結果的に公共の利益が達成できると見る。たしかに自由人とて、政府の役割をすべて拒絶はしない。市場分配には各人の自由を損ないうる重大な欠損(外部効果)があり、そこを補うためにも政府は必要だと考えてはいる。だが、それは「しぶしぶながら」承認するのであって、けして歓待するわけではない。政府の暴力性と権力の集中は、少し間違えれば自由人の自由を容易に破壊しうるのだから。
 それにまた、自由人は自由であればこそ、人の創意工夫が促されると信じる。大きな政府は人々の行動をがんじがらめに封じる。そのような環境からでは社会の発展に資するすばらしい発想は生まれないのだ。

 多種多様な個人の行動は、政府にはけっして真似できない。衣食住に画一的な基準を設けて国民の大多数の生活水準を引き上げることなら、いつでもできるだろう。教育、インフラ整備、保健衛生に画一的な基準を設けて多くの地域の改善を実現することも、可能だろう。国全体の平均を押し上げることも、不可能ではないかもしれない。だがそのうちいつの間にか、政府は進歩より現状維持を、多様性より可もなく不可もない均質性を選ぶようになるだろう。けれども多様性こそ、明日の底辺を今日の平均以上に押し上げる試みに欠かせない要素なのである。(p.27~28)

 文明社会の発展のためには常にイノベーションが要求される。ウォルト・ディズニーも言ったように、資本主義において「現状維持は衰退」なのである。そして進歩は多様性と差異があってこそ可能なのだ。このような進歩主義的観点からも、大きな政府は否定されるのである。
 以上のように、自由主義者とは、すなわち国家の福祉・平等を旨とする温情主義(paternalism)的施策や事業の独占よりも民間企業の自由競争を、そして何よりも個人の自由を至上価値とするのである。安定が何より求められる世になって、自由主義者は「保守派」やら「現状追認者」のレッテルを貼られるに至ったが、フリードマンは、自由主義者は「急進的」であらねばならないという。国家の諸々の介入――多くの人民の目に天からの恵みと錯覚される権力の過剰を断固として斥け、自由人として生きる気概を持ち続けること、これが自由主義者に求められる精神的態度なのである。 


2.経済的自由と政治的自由

 自由の信奉者の多く、特に知識人など頭でっかちになりがちな人々ほど、経済の問題を不当なまでに軽視しがちである。かれらが自身に課している「崇高な目的」は金銭よりも大事な価値を創り出すことにあるからだ。大学やシンクタンクの研究室に首尾良く入り込めた人間は、一般市民並の(もしくは、それ以上の)経済生活を保障されるのだから、金銭の問題が経験的に逼迫した問題になりえないのも無理からぬことではある。だが、フリードマンは経済的自由を政治的自由の実現に欠かせない手段として見る。「市民にとって経済面で自由であるということの方が、政治的自由を実現する手段としての間接的な意義よりも、どうかすると重要なのだ」(p.38)。経済的自由、すなわち自由に職に就き、自由に物を売り買いし、自由に自分の財産を使う自由。これらの自由が広く認められていることが、政治的自由を確保する条件になるのだ(フリードマンが職業免許制度に反対するのも、この原則あってのことである)。
 自由な経済活動を承認されていることは、国家権力と国民の経済との分離を可能にする。つまり国民の生殺与奪の権利を国家が一手に掌握する、という事態が避けられるのである。そして自由な経済活動は、たしかに貧困を一掃できるわけではないにしろ、歴史的に見れば人々の経済力を底上げさせてきたのであり、この経済力の向上こそが市民の政治的発言力を高めていった要因であったのだ。経済的自由こそが民主主義の基盤であると言っても過言ではあるまい。
 この経済的自由を支えているのが、言うまでもなく市場原理である。市場原理が正常に動いている社会においては「社会体制の大胆な変革を堂々と主張し宣伝する自由が個人に保障され」ている(p.51)。一見、当たり前のことのように思えるが、たとえば社会主義国家のように、国家が国民の所得、すなわち生命線を容易に左右できる国家体制下においては、このような自由は実質上ないと言わざるをえない。いわば国民すべてが国家に雇われているも同然であるのに、どうしてその雇い主を批判できようか。ここにはわが国において公務員の政治運動への参加が制約されているのと同様の論理が働いている。御上に反抗すれば首を切られる、すなわち生活に多大な支障が出ると知っていて、それでも反抗する者はよほど気骨があるのか、もしくはたんなる愚か者であろう。経済的自由、すなわち市場原理に従った富の分配がなされていれば、権力批判のハードルは格段に下がるのである。
 さらに、フリードマンは「不平等な富の配分は、政治的自由を守るのに役立ってきた」という(p.53)。たとえばある反体制的な主張を世間に向けて宣伝しようとすれば、ある程度の資金と主張を広める手段、たとえば出版・流通の経路が必要となる。資本主義社会においては、何人かの金持ちの好事家をパトロンにして、またその主張が金になると出版社が踏めば問題なく目的を果たせる。社会主義国家のように国家権力が何事にも首をつっこむ社会ではこれらの政治活動のチャンスは妨害されがちだが、自由な競争市場があれば、人々の経済・政治活動は国家権力と分断されたかたちで展開できるのだ。己の主張を、己の意志と責任において、何者にも阻害されることなしに表現できる自由、これは自由市場とそれを有する自由社会にあってはじめて可能となるのである。

 
3.自由主義の倫理と市場

「自由主義者が究極の目的とするのは、個人の自由であり、これはおそらくは家族の自由である。この自由を基準に、自由主義者は社会制度の善し悪しを判断する」(p.44)とフリードマンはきっぱりと述べる。そしてこの態度は、自由をある「倫理」に結びつけて語ることを拒否する。「各人は自分の自由を使って何をすべきかについて、自由は何も語らない」のだ。「自由は倫理ではないのだ。いやむしろ自由主義者がめざすのは、倫理の問題を個人の判断に委ねることである」(p.44)。換言すれば、「己の格率に従え」という定言命法が自由主義者の倫理といえよう。
 さて、このような倫理観に従えば、畢竟、避けては通れない問題が出てくる。己の自由を行使するさいの限度、つまり他者の自由を損なう可能性についてだ。
 大勢の人間の経済・社会活動を調整するにはふたつの方法がある、とフリードマンはいう。すなわち「一つは、強権を発動して上から命令する、軍隊や近代の全体主義国家のやり方である。もう一つは、個人が自発的に交換し助け合うやり方である。市場はこちらに当たる」(p.46)。自由主義者が採るべき方法はもちろん、後者である。ゆえに自由主義者は競争資本主義、すなわち市場における自由な交換経済を擁護するのである。
 「交換の実質的な自由が維持される限り、経済活動が行われる市場では、ある人が別の人の取引を邪魔だてすることはまずできない」とフリードマンはいう(p.49)。つまり、独占や参入制限などがない公正な市場においては、あるひとつの選択を選ばざるをえないという強制的状況に陥ることはない。売り手にしろ買い手にしろ、選択の幅が広く開かれているからである。個人の自由はこの選択の自由を行使できてはじめて可能となるのだ(つまり、原発の電気しか買えない日本の独占的な電力市場は、自由主義者からすれば個人の自由を奪う不当なものなのだ)。
「市場はこれらをごく機械的に、中央集権的な組織の存在なしにやってのける」(p.49)。 まさにこの「機械性」こそが、市場の最大の特徴といえるだろう。市場の機械性は多様性とその選択を個々人に開くのであり、またそのことは、政治権力が個々人の上にふるう一極集中的・画一的な集団化の圧力を分散し、抑制する効果を持っている。政府の役割は、この機械の整備に、つまり公正なルール作りとその施行に限られる。政府はそれができる唯一の存在なのだ。その限りで、自由主義者は政府の必要性を認めるのである。


4.自由社会における政府の役割

 いままで述べてきたとおり、自由主義をシニシズムと同列に見なすのは間違いだ。「筋の通った自由主義者は、けっして無政府主義者ではない」(p.85)。自由主義は国家とその法を、個人の自由を守るという目的のために要請するのである。とはいえ、政府が己の役目からはみ出して振る舞うことは許されない。では、自由主義者が求める政府とはどのようなものなのか。
 「自由主義者にとってよい手段とは、自由な討論と自発的な協力である。強制は、どんな形であれよくない。責任ある個人が自由な議論を尽くしてのちに合意に達すること、これが自由主義者にとっての理想である」とフリードマンはいう(p.66)。ここで「討論の末での合意」というハーバーマス的発想に難をつけることはできるだろう。しかし、フリードマンがもっとも現実的と見る「合意」のかたちとは「市場における決定」である。かれにとって自由市場こそが、何者かの(主に国家の)強制によらず、「機械的に」ある決定を下すことのできる、最も民主的なシステムなのである。
 それと比べたとき、政府の決定はどれも非民主主義的・非自由主義的にならざるをえない。というのも、政府の決定は少数意見を、仕方ないとはいえ意図的に切り捨て、さらに法律となって社会全体に強制されるからだ。しかしながら、万事を市場に任せられると考えるほど、自由主義者は楽天家ではない。分割不能な問題――カール・シュミットの言うように、友/敵に分裂せざるをえない二価的問題群が人類の宿命として存在する以上、それらは政治の場で裁決するほかないのである。
 政治の場においては様々な文化・価値観をもった個人・団体が己の要求の実現のために鎬をけずることになる。それらの文化・価値観の間にある程度共有されている一般的価値があればまだしも、もし絶望的なまでに異なるようであれば、その間に宥和や合意を見出すのは非常に困難だ。R・A・ダールも言うように、もし共同体内で修復不可能なほどの断裂が生じた場合、最も民主的な処置は国家機能の分裂・独立しかない。政治という営為はつねに共同体の分裂の危機を内包しているのである。
 そのため、政治的決定を避けえる問題なのであれば、それを市場に委ねてしまうのが得策であるとフリードマンは主張する。「そういう問題が減れば減るほど、自由な社会を維持しつつ合意に達する可能性は高まっていく」(p.68)。市場は機械的・没個性的に諸個人の行為を処理していくため、政治的決定にまとわりつく「恣意性」や「権力の不均衡」を無効にできるのだ。
 フリードマンは「合意の理想的な形は、言うまでもなく全員一致である」が、それは現実的には不可能である、という(p.68)。シュミットも言うように、もし全員一致の原則を貫くならば、われわれはあるひとりの独裁者にすべてを委ねることを満場一致で認めるほかない。とはいえそれは自由主義の精神に反するので、次善の策としては、政治による決定をなるべく少なくし、市場による合意形成――主体的意志を廃した合意なき合意による正当化を活用するほかないのである。
 さて、以上のことを確認した上で、フリードマンは政府の基本的な役割を3つの述べる。すなわち「ルールを変える手段を用意すること。ルールの解釈を巡って意見が対立したときに調停すること。放っておくと試合を放棄しかねないメンバーにルールを守らせること」である(p.70)。
 「自由主義者は、人間は不完全な存在だと考える」とフリードマンはいう(p.45)。たとえどんな立派な道徳や慣習があろうと、すべての人間がそれに従うとは限らない。だから完全な自由はあり得ない。互いの自由を尊重するという価値規範があっても、やはり現実に衝突してしまうのは避けられないからだ。この衝突の問題を解決するのが、国家の第一の役割となる。
 また、市場の機能を保つのも政府の仕事である。つまり「自発的な交換を通じた経済活動では、政府がそのための下地を整えることが前提となる。具体的には、法と秩序を維持し個人を他者の強制から保護する、自発的に結ばれた契約が履行される環境を整える、財産権を明確に定義し解釈し行使を保障する、通貨制度の枠組みを用意する」こも、が政府の成すべき事なのだ(p.73)。すなわち、市場では処理できない部分(不完全性や外部効果)を補うのが、政府なのである。
 しかし、なにが外部効果で、何が人々の自発的な交換活動によっては困難な事柄なのかを判断するのは非常に難しく、また政府の介入の効果はけしてゼロサムゲームではないため、そこはひとつの判断にかかるプラスとマイナスとを天秤にかけながら、ケースバイケースで決めていかねばならない。その際にも、自由主義者は個人の自由を最も重視して政府の介入の是非を判断することが求められる。


5.国家の温情的(Paternalistic)配慮

 「自由は、責任ある個人だけが要求できるものである」(p.82)とフリードマンはいう。そのため「狂人や子供の自由に正当性があるとは考えない」(p.82)。この意見の是非については、おそらく様々な立場から批判がなされよう。しかし現実として、法的にはこれらの人々に「責任」は追求されないし、また追求しようという運動も、狂人はまだしも、子どもにもという話は、管見ではあるがさして耳にしない。
とにかく、現実的に国家はこれらの人間を「自由人」とは見なしていないのであり、よって政府はかれら「非自由人」に温情的干渉を及ぼしてくるし、ほとんどの国民はそれを容認している。狂人を自発的に管理しようという人間はまれであり、もしそれを引き受けたとして、その人に多大な外部効果が発生する。子どもはいちおう家族の構成員ではあるが、ゆくゆくは責任ある市民となり、社会の構成員になってもらわねばならない。子どもの両親もまた自由で不完全な存在と見るならば、将来の市民となるにふさわしい教育を両親に全面委託するのは危うい。つまり双方ともに政府の温情的介入が必要なのである。
 「政府が介入の理由に温情的配慮を持ち出すのは、多くの点で自由主義者にとって好ましくない。……だが残念ながら、この好ましくない事態を受け入れるしかないようだ。ある程度の温情的措置は、避けられないのである」とさしものフリードマンも嘆く(p.83)。自由主義にも限界がある。だからこそ国家が要請されるのであり、なおかつ政治体制としては自由人の参加に開かれている民主主義が叫ばれるのである。
 
(政府の介入には)どこで歯止めをかければいいという公式などないから、自分たちの危なっかしい判断力に頼るほかない。そして決断を下したあとは、周囲を説得するなり、周囲から誤りを指摘してもらうなり、互いの能力に頼ることになる。先入観から逃れられない不完全な人間である私たちは、自由な討論と試行錯誤を通じて合意に達するしかないのであって、この場合に限らずどんな場合でも、こうして達した合意を信頼し重んじなければならない。(p.84)


6.分配の根拠、平等のあり方

 政府の介入を「自由人に対する暴力」とみなす自由主義者にとっては、政府の強制などなければないに越したことはない。だが、そこに自由にとって一定の有効性を認めざるをえないため、承認しているのである。自由主義者には、だから国家による所得の分配、つまり税の徴収・分配とその根拠や正当性を鋭く問う姿勢をもたねばならない。そのさい、「平等とは何か」を定義する必要がある。なぜなら、福祉国家における多くの税制は、この「平等の達成」を大義名分として掲げており、しかもその美名をもってさらなる増税に踏み込もうと企図しているからだ。自由主義者は個々人の自由(財産)を守るという理念のためにも、これを監視し、批判しなければならない。だが平等という観念も、近代社会においては守らねばならない重要な価値のひとつだ。自由主義者は、ときに自由と対立する平等という価値概念にたいし、いかなる答えを用意できるのか。
 ここにAとBというふたりの人物がいたとしよう。Aは暇な時間が多くある仕事を、Bは休む時間もない過酷な仕事を選んだとする。給与はA<Bである。さて、これは不平等といえるだろうか。確かに、給与のみを見れば不平等である。だが、仕事の中身を見てみれば、AよりもBの給与が多いのはそれほど不公正とはいえまい。かえってAとBの給与が同じだったなら、それこそ不平等であろう。所得の差が仕事の中身を埋め合わせているのなら、ここには「格差を均す格差」が存在しているのであり、そうであればAとBは平等である、といえる。
 「各人を平等に扱うとは、いまの例からわかるように、各人の好みを満足させることだとも言える」(p.295)。仕事の中身と所得とを付き合わせて、総体としてそれが各人均等であれば、所得を無理矢理平準化せずとも、それはそれで平等であろう。ここに「運」の要素が絡んだとき、所得を平準化する根拠はますます薄まっていく。
 「人生はチョコレートの箱」と言う台詞がとある映画にあったが、人生は開けてみなければわからないものである。いわば、みながみな宝くじを一斉に買っているようなものだ。あるくじは当たる確率は高いが、配当金は微々たるもの。あるくじは当たる確率こそ低いが、当たれば一攫千金を期待できる。私たちはそれら様々なくじのなかから自分の好みに合ったものを選んでいる、といえる。税金は、これらの結果が出た後に課せられる。殊に累進課税は、人々の不確実性を担保するという名分があったとしても、大きなリスクに賭けた人ほど多くの財産を失うという、割に合わない制度である。
 所得の不平等は「格差を均す格差」が働いたか、もしくは「くじ」の選好の結果といえる。だがここに生まれながらに持っているもの、すなわち才能や親の財産などが絡むと、話は少々めんどうになる。
 「生まれつきの才能の不平等」と「生まれつきの財産の不平等」を分けて考えるのが一般的であろう。しかしフリードマンはこの区別に異議を唱える。自分の親の財産でもって高収入を得ることが不当とされる根拠とは、いったい何なのだろうか。親が自分の子どものことを思って多くの財産をなし、それだけ子どもに多額の再投資をするのを誰が妨げえようか。それらもまた、個人の自由に属する事柄であろう。財産が不平等だからといって、それが各人の自由を奪う――つまり富める者からより多くの税を取る理由になるだろうか。
 フリードマンは、ここでひとつ例をあげる。ある男が友達3人と道を歩いていて、たまたま20ドル札を拾ったとする。そこで友達にビールの一杯もおごってやれば、その男は十分に気前が良いと言えよう。だが、もしそうしなかったとして、残り3人が「平等に分け前をよこせ」と言い始めたら、どうか。これは正当と言えるだろうか?多くの人は「そいつの運が良かっただけだから」といって「ノー」と答えるだろう。「たまたま」20ドルを拾った者に対して「分け前をよこせ」というのは不当であるならば、才能も財産も運の産物、つまり「たまたま」のものなのだから、生まれによって偶然多くの財産をもった人間に対し「分け前をよこせ」と言い寄るのは、とても正当とは言えまい。そのような行為は「自分の訴訟に自分が裁判官になって自分の権利を認め相手の権利を剥奪する判決を下すのと何ら変わらない」(p.300)。地位や富はほとんど偶然の産物なのである。日本では、勤勉と努力にはそれに見合った見返りがあるという根強い「信仰」があるが、その性格とて親から遺伝的に受け継いだものであるとしたら、どうか。つまり勤勉も努力もかれ自身のものではなく、かれがその親の元に生まれたという「偶然」のおかげなのだとしたら。才能にしろ財産にしろ、親からもらった運の不平等は正さねばならないなら、私たちはその真面目な人にも、あの20ドルを拾った男に向かって言うように、「分け前をよこせ」と詰め寄らねばなるまい。
 すなわち問題にすべきは、財産の不平等を累進課税などで強制的に均すことではない(フリードマンは基礎控除以上の所得税を納めている国民からの一律課税で良い、とする)。あらゆる結果には不確実性が残る、つまり不平等は「くじ」の選好や当たりはずれの結果であると見なした上で、それが社会の流動性を妨げる決定的な差になるのを防ぐことだ。特に子どもに対してチャンスを与えること――フリードマンの提唱する教育バウチャー制などはそのための施策である――や、政府が許可している独占、関税、特定集団に利する法的措置などを撤廃すること、これらのより深い不平等の根源を断ち切ることが、まず必要なのである。
 しかし何と言おうと、自由主義が不平等をある程度容認するものであることは確かだ。というのも、自由主義者にとって不平等とは各人が自由にふるまった「結果」なのであり、富の増大も含めて、それらはみな自由の「副作用」なのである。つまり、自由と平等とはトレードオフの関係にあるのだ。この「副作用」のなかには、もちろん貧困問題もふくまれる。それは自由の代償である。しかし、だからといって、自由主義者は貧困問題から目を逸らすことはしない。個々人の自由の保護を理念に掲げる自由主義者にとって、貧困は自由の敵なのだ。


7.負の所得税とは

 以上、フリードマンの自由主義思想を様々な面から眺めてきた。ここにその要点をまとめておこう。

(1)自由主義者にとって、国家とは個人の自由を守るための道具に過ぎない。
(2)自由主義者は大きな政府を拒否する。大きな政府は個々人の自由を阻害する巨大な権力を一身に集めた危険な存在である。また、大きな政府は市場の多様性を損ない、国家の発展に必要不可欠な差異とイノベーションを抑制するため、進歩的観点からも容認できない。
(3)経済的自由は市民の政治的自由の条件である。健全な市場、すなわち国家が不正を規則通りに取り締まり、しかし過剰に介入することのない自由市場があれば、人々はたとえ反体制的な思想であっても、社会主義国家のように政府が個人の生計を、すなわち生殺与奪の権を握っているわけではないため、自身の責任の上で自由に主張することができる。
(4)自由主義者に倫理はない。より精確に言うならば、各々は各々の倫理を持つことが許される。互いの自由を侵害し合う可能性については、基本的に市場による調整に拠りつつ、しかしそれでは解決不可能な問題が出現してはじめて国家が要請される。
(5)自由主義者は無政府主義者ではない。人間を不完全な存在と見る自由主義者にとって、国家の介入は基本的に望ましくないものではあれ、市場に外部効果がある以上(たとえば、警察に代わって秩序維持のコストを払う主体の出現は期待できない)、どうしても必要となる。特に狂人や子どもに対しては国家の温情的配慮が不可欠となる。この点、自由主義にも限界がある。
(6)人生は「くじ」のようなものであり、所得の不平等は個々人のリスク選好の結果といえる。そのため、所得の多い人間からより多くの税を取る根拠はない。

 このように、自由主義者は国家の強制を良しとせず、あくまで個人の自由を守ることを究極理念とする。そしてまた、個人の自由なふるまいを寛大に許すことこそが、国家・社会の発展に不可欠だとみなす。それでも国家の介入の必要があることは認めるが、それも「致し方なしに、しぶしぶと」認めるのであって、そのため特に財産の収奪に関わる税の問題に関しては、その正当性に鋭い批判の目を向けるのである。
 さて、フリードマンはかくのごとき徹底した自由主義者であるが、しかし貧困対策として「負の所得税」の導入を主張している。負の所得税やベーシックインカムといった基礎所得を設ける政策は、一般に「社会主義的」とみなされている。「全員に、同じように、給金する」というのは、かつての共産主義諸国を彷彿とさせるのだろうか、基礎所得は社会を停滞させ、堕落させるもの、というイメージが付いて回っている。しかし基礎所得というアイディアは、そのような社会主義的怠惰を助長するものとしては構想されていない。もしそうなのであれば、自由主義者たるフリードマンが負の所得税など提唱しないであろう。基礎所得はむしろ、自由主義を維持・発展させるという目的に沿った、自由主義思想の脈絡で語られるべき制度なのである。
 ではフリードマンは負の所得税をいかように語ったのか見ていこう。
 フリードマンは、まず貧困対策は個々人の慈善事業では十分ではない(外部効果に属する)ことを確認したうえで、貧困対策は貧困を正すことのみを目的とすべきである、とする。たとえば、日本で言うなら農家に対する戸別保障は貧困対策ではない(そうでなくとも、正当性の薄い事業ではある)。つまり賃金層、年齢層、職種、労働団体などで分けられた特定の集団を対象とするものであってはならない。また、市場を歪めるような制度であってもならない。そのため最低賃金法、関税などは貧困対策にあたらない。あくまで貧しい人を助けるためのプログラムでなければならないのだ。
 そこで提唱されるのが負の所得税である。たとえば納税者一人あたりの基礎控除が600ドルとしよう。納税者の所得がこれを100ドル上回っていたならば、問題なく規定の所得税を払うことになる。一方で所得が基礎控除を100ドル下回っていたならばどうなるか。その場合、納税者は負の所得税分を支払う(受け取る)ことが出来る。つまり補助金が受けられるのだ。たとえば負の所得税率が50%だったとすれば、この納税者は50ドルの負の所得税を払う(受け取る)。まったく所得がない場合は基礎控除の50%、すなわち300ドルの負の所得税を払う(受け取る)。もし医療費が控除対象となっている場合など、所得がすでにマイナスの場合は300ドル以上を受け取る可能性もある。すなわち、所得が-400ドルだった場合、基礎控除との差額は1000ドルとなり、500ドルの負の所得税を払う(受け取る)ことになる。もし基礎控除を600ドルに設定するのであれば、その国の最低所得水準は300ドルということになろう。所得がマイナスであればあるほど、実際に受け取れる税額は低くなる、つまり困窮者がますます困窮するため、ここに累進制を取り入れても良い。
 この方法のメリットを、フリードマンは6点あげている。すなわち、

(1)貧困の救済のみが目的となっている。
(2)使い勝手の良い現金による補助である。
(3)特定集団が対象となっているのではなく、汎用的である。
(4)特別目的税から費用を調達するため、社会が負担するコストがはっきりする。
(5)市場の外で機能するため、市場を歪ませることがない。
(6)貧困者の自助努力をいくらかは削ぐものの、最低所得に達するまでの所得を補うだけであるため、完全に失わせるわけではない。

 2の現金補助というのは、公営住宅の廃止を主張するフリードマンにとっては重要であった。フリードマンは基本的に現物補助を非合理とする。現物を与えるくらいなら、それに見合う現金を与えよ、と言うのだ。負の所得税もこれと同じ発想に拠っている。また3のメリットも重要だ。ここには挙げられていないが、負の所得税の「機械性」こそフリードマンにとって魅力なのである。つまり、それは所得という全職業・全国民のもつステータスのみを基準とするのであり、特定の集団に対してのみ税が投ぜられるということがない。負の所得税は市場と同様に「機械的」であり、人間が介在することで生じる恣意性から逃れられている。まさにそうであるがために、公正なのである。
 フリードマンは貧困対策の種々雑多なプログラムをこの負の所得税に一本化すれば、煩雑な行政事務を大幅に簡素化できる、つまり税金のロスを減らせる、という。また現行制度ではなしえていない全国民の最低所得の保障もこれによって可能となり、現物支給という貧困者のニーズに合わない貧困対策も改めることができる。さらにこの方式によって、政府の介入が大幅に減る――つまり、最低所得の保障のために、特定の職種・団体に肩入れするという不正な事態はかなり少なくなる。
 だが、やはり負の所得税も「税」である以上(しかも、フリードマンは負の所得税の財源を特定目的税から捻出しようとしている)、貧困対策のためとはいえ、所得分配という自由主義者にとっては「悪魔の一手」を認めなければならない。おそらくリスクを取って当たりを引いた人間、つまり少数の金持ちから多くの金をふんだくることになるだろう。貧困対策とはいえ、それが認められて良いのかどうかは、自由主義者にとって頭の痛い所ではある。


8.自由を守るための基礎所得

 自由主義者フリードマンは、いわゆる「ネオリベ」の言うような意味での「自己責任」は語らない。もちろん、自由主義者である以上、個々の人間は自身の行為に対して責任をもつべきである、という原則を前提にはしている。しかし、自由主義者の見る人間とは、ひとりひとりがみな違っていて、その性格は良いこともすれば悪いこともする不完全なもので、「くじ」を引くような偶然性のなかを生きている、そういう存在なのである。この前提に立てば、自ずと「自己責任」の範囲も決まってこよう。少なくとも、ある人の貧困はその人自身だけの責任問題ではないことは明らかだ。かれとて、生まれとくじ運さえあれば、もっと豊かな生活を送れていたかもしれない。だが、運の問題を平等主義的に無理矢理矯正するのは自由主義の精神に反する。そのため、より公正な貧困対策――フリードマンならば、負の所得税――が要求されるのである。日本の「自己責任論」のように、その人の努力や勤勉にのみ焦点を合わせ、そこで問題を終わらせてしまうような軽薄な思考停止を、真の自由主義者なら糾弾するであろう。真の自由主義者は、貧困者の不運と、貧困者の不自由に想いを馳せ、その不当性に憤慨するであろう。
 自由主義の理念と想像力は貧困をけして見捨てはしない。だが、結果の不平等や物質的不平等をただ均そうとするのは、自由主義者の精神に反する。それは暴力的に誰かから取り上げ、別の誰かにあげることであり、すべからく個人の自由の侵害だからだ。その限界に耐えながら――しかし、常に批判を絶やさずに、より公正で、個人の自由を損することなく、むしろ拡大していく制度を考案すること、これが自由主義者の使命なのである。負の所得税、つまり基礎所得とは、まさにこのような思想の流れなかから生じたのであり、社会主義的福祉国家のような「揺りかごから墓場まで」の「手厚い保護」でも「温情的な庇護」でもなく、個人の自由と自立、そして競争による社会の発展を目指すための、実に自由主義的な制度案なのである。
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