日本のファシズム【前篇】~ファシズムの「敗北」としての大政翼賛会~

大政翼賛会への道 近衛新体制 (講談社学術文庫)

太平洋戦争前夜の1940年(昭和15年)。この年に、日本では帝国議会(衆議院)に議席を置く各政党が解散し、大合流を果たした。「大政翼賛会」の成立である。戦時中も議会はあったし、選挙も行われていたが、政党は大政翼賛会のみとなって議会の政治機能は失われ、軍部のやることなすことを追認するだけの存在と成り果てた。こうして、日本の「ファシズム」体制が成立した、と一般には評されている。

だが、大政翼賛会は軍部の勝手を支えることを目的に結成された団体ではなかった。日本では今でもしばしば観られる光景だが、当会は種々雑多なステークホルダーたちにやんややんやと揉まれた末に、当初の設立理念など何処かへ投げやった、空っぽの張子であった。軍の追認機関となったのは「意図」してのことではなく、「成り行き」の結果だったのだ。

では、その張子の「中身」となるはずだったものとは何だったのか。

そのことについて云々する前に、まず当時の社会情勢を概観しよう。

1929年、アメリカはウォール街の株価暴落に端を発する世界恐慌は、世界中の国々の経済を大混乱に陥れた。日本も例外というわけにいかず、昭和恐慌として記憶される経済的大打撃を被る。恐慌はやがて沈静化するが、この間、日本国内の社会不安は頂点に達し、その惨状を憂いを抱いた一群の人々が、各々思い思いの方法で、この危機的状況に対処すべく、国家の改造を企図して活動を開始する。

まず、かれらの目に映ったのは、危機に対して何ら有効な手を打てない「政府」と、政争に明け暮れて無用の混乱を招き入れるばかりの「議会」と「政党」、そして政界と癒着して国の政治経済を意のままに操る「財閥」の姿であった。

1932年の五・一五事件や1936年の二・二六事件といった「テロ事件」の動機は、これら「君側の奸」を実力行使で除き、天皇のもと、上下左右の隔てなく、万民が平等に生きられる世を築かんとすることにあった。とはいえ、理想を実現するための肝心の具体策は皆無であり、失敗するべくして失敗することとなる。これ以降、テロを手段とする急進的な動きは鳴りを潜めることになる。

では、国家体制が劇的に改善されたのかというとそんなことはなく、世界情勢が激動していくなかにあって既存の権力構造は何ら変わることなく、人々の政治・社会に対する不満と不安が解消される兆しは一向に見えなかった。一方、世界恐慌の経験は、人々に資本主義に基づく自由経済への不信感を植え付けた。マルクス経済学が一世を風靡していた当時では、恐慌は資本主義というシステムがその性質上必然的かつ周期的に起こす「バグ」と認識されていた。このまま日本が資本主義世界に留まるのであれば、また発生するであろう恐慌に為すすべなく巻き込まれ、国家国民は再び惨禍に見えるであろう。このように観念し、資本主義とそれに基づく自由経済体制――それすなわち英米を中軸とする世界秩序のことを指していたが――こそが、日本が発展していく上での「桎梏」になっているとして、これを「革新」せんとする者たちが、官、軍、政、学、民のあらゆるセクションから出現する。

かれら「革新派」が目指した国家・社会の姿。それを端的に表現すれば「みんながみんなのために」を地で行く社会、と言えようか。
資本主義・自由経済の悪徳なる所以は、その個人主義的な態度である、と革新派は考える。一握りの資本家が、己の利益のみを追求して他の国民を顧みず、貧しい国民は己が保身に精いっぱいで国家・社会に奉仕する余力もない。それではいかん、すべての国民はすべての国民のためにその力を存分に発揮せねばならぬ、それすなわち、すべての国民が国家・社会のために尽力するということである。そのためには、国民の間で盛り上がってきた国家・社会への奉仕の機運――これがあくまで「下から」、「自発的に」起こったものとする点に注目――をいっそう発揚させるとともに、それぞれの運動をひとつに束ねる機関が存在せねばならぬ。その役目を果たしうるのは、国民の圧倒的な支持のもと、国家・社会の全領域(とりわけ、財閥と軍部)を強力に指導・統制しうる絶対的権力を一手に握った政府のみである。

かくして、自由経済を脱却して、すべての国民が政府の指導の下、等しく国家のために奉仕する「全体主義」の国家体制を目指す「革新派」による「新体制運動」が勃興する。この運動の第一目標は、国家・国民を主導する唯一無二の「党」を結成するとともに、この党が政権の座に着いて絶対的な権力を手中に収めることであった。それは明らかに、政党政治すなわち民主政の否定であったが、革新派からすれば、民主政は政界と財界の癒着を招き、資本主義の悪癖をいたずらに蔓延させるばかりか、国民が一丸となって事に当たらねばならぬ情勢下であるにも関わらず、いたずらに国民の分裂を煽るだけの、危険かつ脆弱な政治体制であったから、むしろそれは望むところであった。

新体制運動が政治権力を掌握するまでの方途はいくつか考えられた。ひとつは、ナチスに範を取って熱狂的な急進組織を作り、暴力の行使も辞さない実力部隊を背景に政権に食い込むの途。次に、当時どのセクションからも人気があった、というより、敵らしい敵がいなかった近衛文麿を首班とする新党を結成して、選挙により議席の過半を獲得するの途。最後に、既存の政党を糾合して新体制の推進を理念とする単一の会派を成立せしめ、議会を無力化して実質的な一党独裁を実現するの途。

このうち採用されたのが最後の方途であり、そして構想されたのが「大政翼賛会」であった。すなわち、発足前の段階では、大政翼賛会は全体主義的新体制をけん引し、国家のあらゆる分野に絶大な指導力を発揮する、一党独裁的な政治勢力となることが期待されていたのだ。

であれば、大政翼賛会の結成を、日本においてファシズム体制が完成した画期として問題ないように思われよう。しかし、話はそう単純ではない。大政翼賛会を「一国一党」の政治組織とするためには、大きな障壁があったのだ。奇遇にも、最近の国会でも姦しく騒がれているテーマと重なるのだが――すなわち、一党独裁のファシズム的政治体制は「違憲」ではないか、という批判が噴出したのだ。

民主制を破壊しようとする者に対して、今更「違憲」だ何だと言っても仕方あるまい、と思われるかもしれないが、意外にもこれが革新派にとって致命傷となった。というのも、新体制運動は、当時政治的にタブーとされていた「天皇の主権」に抵触していたからだ。
大日本帝国憲法第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあるように、大日本帝国の統治者はあくまで天皇であった。しかし、政界と学界、そして天皇自らも、美濃部達吉の「天皇機関説」を支持しており、これが長らく「定説」であった。「天皇機関説」とは、天皇は国家と言う法人のなかの、議会等と並ぶ一機関である、とする憲法解釈論であり、天皇は統治権・命令権等を有するものの、他の機関の意向を無視してこれを行使することは不適当とみなされた。つまり「君臨すれども統治せず」の原則が立てられたのであり、この理論を背景に日本の議会制民主主義は発展していくこととなる。

だが、この天皇機関説が1935年の「国体明徴声明」によって異端とされ、替わって「天皇主権説」が「国教」とされると、あくまで形式的な「タテマエ」として扱われていた天皇の統治権が実体を与えられることとなり、そしてこの天皇の「大権」はいかなる者であろうと犯すことのできない「聖域」とされることとなった。

ヒトラーの如き独裁者の「指導者原理」を運動の主軸とするファシズムは、この天皇の大権を否定する「危険思想」と見なされていた。そのため、戦前であっても「ファッショ」の烙印を押されれば、政治生命ばかりか、文字どおりの自己の生命さえ危うくなった(天皇主権説は「観念右翼」と総称される人々が熱狂的に支持しており、天皇の主権を害する思想を持っていると見なされれば、過激派右翼から命を狙われることも少なくなかった)。新体制運動もまた、早期から「幕政論」だと批判され、革新派はその弁明に追われ続けていた。

かくして各方面からの猛烈な批判に曝されるうち、新体制の指導者として担がれていた近衛文麿はすっかり腰が引けてしまう。かれとて政治的野心がなかったわけではなく、ヒトラーのような国家指導者に一種の憧れを抱いていた節もあったが、しかし、天皇への反逆に当たるやもしれぬ冒険に踏み出す度胸はなかった(敵らしい敵がいなかったかれにとって、批判の雨あられを跳ね返せるほどの胆力はなかったのかもしれない)。現代の日本人には想像し難いが、当時の日本人、殊に軍人は天皇の忠臣たらんとする念が甚だ強く、天皇の意に反しているのではないか、という疑念が少しでも生じれば、途端に萎縮して動きを止めてしまう。天皇機関説が覆され、天皇主権説が大いに支持されたのも、この天皇崇拝の気運が社会に蔓延していたことと無関係ではない。

かくして、冒頭に述べたように、大政翼賛会は結成の理念であった「絶大な指導力」を剥奪された、単なる野合の衆と成り果てたのである。革新派がこれに失望したのは言うまでもなく、大政翼賛会の成立によって「敗北」した新体制運動は、以後、勢いを取り戻すことなく沈没し、革新派は下野するか、現体制のなかで雌伏の時を過ごすこととなる。

このように、日本のファシズムは「立憲主義」ないしは天皇主権説の前に敗れ去ったのであり、大政翼賛会の成立とファシズムの完成とを、安易に直結させるわけにはいかないのである。

●後編に続く。
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