共生社会のための基礎的論考――〈法〉による正当な拒否

世界がグローバル化するに従って、人とモノがより活発に行き交うようになり、文化を異にする人々がひとつの社会、地域に暮らすのは、もはや当たり前の世の中になりました。そうした中、「多文化共生」を説く声がますます高まっています。
文化が違う人たちとも仲良くしなきゃいけないよね、と言われれば、9割9分の人が「そのとおりだ」と答えるでしょう。ですから、もし「多文化共生」が、ただ単純に「みんな仲良くしよう」というスローガンに過ぎないのであれば、「言われなくてもわかっている」話で、多文化だとか共生だとかをとやかく論議する必要はありません。
しかし、ヨーロッパの移民・難民の問題を挙げるまでもなく、種々様々な背景をもった人々がひとつのどころに集いますと、いたるところで衝突が見られ、「みんな仲良くしましょう」と言っても効かないケースも目立ってきます。ですから、異なる文化の者同士がどういう関係性を構築すべきなのか、これは非常に差し迫った課題でありますし、日本もこれからどんどん海外から人がやってくるようになりますから、「多文化共生」はけして蔑ろにしてはならないテーマなのです。
では「多文化共生」を、「みんな仲良く」を越えて、より「有意義に」語るためにはどうしたら良いでしょうか。
これに限った話ではありませんが、理想を語るときは、その理想の良いところを賛美するだけでは、さして意味がありません。「理想」なんですから、良いことづくめなのは当たり前ですからね。理想は、それと鋭く対立する現実と突き合わせてはじめて深みを帯びます。対応を少しでも間違えれば、当の理想を全否定しかねない、そういった厄介な現実を相手にして何を実践するのか、そこで理想の真価が試されるのです。
つまり、「多文化共生」を語るに「いろんな文化の人と仲良くすれば、こんな良いことがあるよ」とばかり言っていても始まらないのです。「多文化共生」に真剣に取り組むためには、むしろ共生が困難な場面に真正面から向き合わなければなりません。そこで、ひとつテストケースを想定してみましょう。
あるコンビニに、フルフェイスのヘルメットを被った人が入店しようとしています。これに気付いた店員は、その人の入店を拒否しました。もし、その人の入店目的が強盗なり万引きなりをするためならば、顔を隠されては監視カメラを見ても容易には特定できず、逮捕するのが非常に困難になるからです。余談ですけれど、イベントも何もないのに全身着ぐるみで出歩いても、警察官から職務質問を受けるようです。正体がわからない格好で出歩くこと自体、日本社会では警戒されて当たり前となっています。
さて、イスラームの戒律では、女性は原則として家族以外の男性に肌を見せることを禁じられています。そのため、ムスリムの女性の衣装は露出が非常に少なく、顔は露出させる「ヒジャブ」と呼ばれるスカーフから、顔を含めた全身を覆う「ブルカ」まで、様々な種類があります。
では、先ほどのコンビニに、この「ブルカ」を纏ったムスリム女性が入店しようとしていたならば、店員はどう対応すべきでしょうか。
厳格なムスリムの女性にとって、公衆の面前で肌を晒すのは、私たちの感覚でいうところの「素っ裸」に近いようで、たいへんな恥辱なのだそうです。「多文化共生」と言うからには、そこのところを配慮して、できる限り尊重したいところです。しかし、すでにフルフェイスのヘルメットを被った客に対しては、顔が見えないと防犯上よろしくない、という理由で拒否してしまっている。「ブルカ」の女性も、同じく顔がわかりません。さて、どうしたものかと迷っている間にも、彼女(全身を覆っていますから、もしかすると「彼」かもしれませんが)は、店に足を踏み入れようとしています――。
「ブルカは、ムスリム女性の文化的・宗教的伝統に則っているのだから、彼女たちについては特別に許すべきだ」という、アファーマティブな主張もあるでしょう。その場合「ブルカ」の着用が許される理由は、その人が「ムスリムの女性」だから、ということになりましょうか。ときに、ムスリムになるのは、実はそう難しいことではありません。日本人ムスリムの中田考氏によれば、2人のムスリムの立会のもとで「ラーイラーハイッラーッラー、ムハンマドゥンラスールッラー(アッラーのほかに神なし、ムハンマドはアッラーの使徒なり)」と唱えればムスリムになれてしまう。試験を受けて合格しなければならないとか、どこかの機関に登録されなければならないとか、そんな条件は一切ないのです。そのため、「ブルカ」着用のハードルは意外に低く、身元を隠して何事かしたい女性が、これを悪用するおそれがあります。
さらに、ひとたび「ブルカ」が認められたなら、ムスリムにならずとも、また女性でなくとも、全身を覆う衣装を着用することは容易になります。「宗教的・文化的」理由があればOKということならば、他に「男女ともに人前では顔を見せてはならない」という戒律を設けた宗教ができたならば、その信徒が顔を隠す衣装を身に着けるのも認めないと、宗教間で差別することになってしまいます。なお、言うまでもないですが、イスラーム教は長い歴史を持った伝統的な宗教だから別格なのだ、という主張はまかり通りません。いったい、どれくらい歴史があれば「伝統的」となるのか、何を基準に、何者がそれを定めるのか、という問いがたちどころに出現して、収拾がつかなくなるからです。
つまるところ、「ブルカ」を認めればフルフェイスのヘルメットも認めざるをえないし、フルフェイスのヘルメットをNGとするならば「ブルカ」を纏った女性も入店拒否しなければならなくなる。ここでは、公共空間において「自分が何者か表に出さなければならない」文化と「自分が何者か隠さなければならない」文化が衝突していいて、片一方を認めれば、片一方を否定しなければならない、そうした緊張状態にあるのです。もちろん、お互いの文化が否定し合うのではなく、話し合い、歩み寄り、そして双方の文化が融合した「第三の道」が開ければ、それに越したことはありませんし、新たな道を探し出す努力は常に継続すべきです。しかし、「ブルカ」を纏った女性は、いま、まさに入店しようとしているのです。悠長に構えている暇はありません。いますぐに、何かしら、応対しなければならないのです。
では、どうすべきなのか。もし、私がこの店員だったらならば「入店を拒否」します。
文化間で摩擦が起こる場合は、ある文化とある文化が1対1の対等な力関係で向き合っているのは極稀で、たいていは圧倒的多数を占める原住民〈ネイティブ〉の社会に、文化を異にする少数の異邦人〈ストレンジャー〉が来訪することで生じます。ネイティブは、ストレンジャーを迎え入れるために、ストレンジャーの文化を考慮して、自分たちの文化に修正を加えていきます。ストレンジャーもまた、自分たちの文化をネイティブのなかに馴染ませていく。文化の混淆や融合はこうして進んでいきます。
しかし、先のコンビニの例のように、将来的にはどうかもわからなくとも、現状では折り合いがつかないケースは、社会生活を送る上ではどうしても生じてしまう。その場合、どう対処するか。私は、ネイティブの〈法〉を優先するよりない、と考えます。
〈法〉といっても、それは国会で制定される「法律」に限りません。〈法〉は、その社会が様々な問題に対処していくなかで形成してきた習慣や慣行のことで、それは言葉づかいから箸の持ち方まで、社会生活上の細やかな決まり事や、自然に身に着けた挙動にまで及びます。至極身近な例を挙げれば、日本の家屋は「靴を脱いで」中に入りますが、日本人は普段、これを当然のこととして何とも思っていません。こうした、日常に染み込んで、従っているという意識すらないルールをこそ〈法〉と呼ぶのです。
さて、ここでまたテストケースを提出します。仮にある外国人が「私の社会では、人前で靴を脱ぐのは非常に恥ずかしい行為だ」と言って、畳を敷いた部屋に土足で上がろうとした、としましょう。それは遠慮してほしいので、やんわりと断ると「あなたたちは、私の文化を認めないのか」と激昂しました。
もし、文化であればそのすべてを認めるべきとするなら、その外国人の言い分を認めて、畳が汚れていくのを眺めるしかありません。けれど、日本人としては、どうしても認めたくない、家屋に上がるときには、やはり靴を脱いでほしい。ただ、それは外国人の文化を、部分的にせよ拒否することを意味します。
そのことを正当化するのが〈法〉です。〈法〉は、ネイティブの社会が長年培ってきた、人と人とが調和するための作法です。もし、ストレンジャーの文化がその〈法〉に抵触するならば、そこは申し訳ないが、ネイティブの〈法〉に従ってもらう。この原則が貫かれていれば、文化同士でうまく折り合いがつかない局面があっても、とりあえずは場を収めることができます。これは一見すると乱暴で、「多文化共生」の理念に反しているように思えますが、価値観の異なる者同士が共に生活すれば、お互いの望みが両立しない事件はどうしたって起こります。それを想えば、多文化間で深刻な亀裂を生まないよう、お互いが渋々であっても納得できる「正しさ」の根拠をあらかじめ設けておくことは不可欠です。
となれば、「多文化共生」のために必要なこととして、一般には異文化を理解することに重点が置かれていますが、実はそれと同じくらい、もしかするとそれ以上に、自文化の〈法〉を意識化することが重要といえます。
私たちは、ふつうに暮らしている分には〈法〉をほとんど意識していません。それは日常のなかで何気なく行っていることですので、いちいち気に留めていないのです。しかし、文化を異なる人々と暮らすにあたって、どうしても受け入れ難い生活上の懸案があったならば「これこれが私たちの〈法〉だから、申し訳ないが、これに従ってもらう」と言わねばならない。そのためには〈法〉の内実を、言い換えれば、自分たちの文化の「本質」を、明らかに示せるようでなければなりません。
ここで「文化に本質など無い」という、文化相対主義の主張はひとまず脇に置いておきます。確かに仰ることは「真実」なのですけれど、ここでは共生のための作法が問題となっているのでありまして、もし文化に本質など存在しないのだとしても、スムーズに共生するための方便として、フィクションであっても、これを打ち立てるのが求められている、そういう代物なのです。
さて、普段意識化されていない〈法〉を意識するための手っ取り早い方法は何か、と言いますと、ずばり「異文化と接触すること」であります。事実は小説よりも奇なり、とは申しますが、実際に起こる出来事は、人間の予想や想像をはるかに超えますから、異文化と実地でコミュニケーションを取れば、いやでも自文化と異文化のズレを発見することになります。すると、いままで意識していなかった自文化の特徴がくっきりと浮かび上がってくる。そうした事例を積み重ねていけば、自分たちの暮らす社会の〈法〉の内実が次第に明らかになっていきます。
どれだけたくさんの異文化を理解したとしても、無数に存在する文化のすべてを理解し尽くすことは不可能です。であれば、むしろ自分の属する文化の理解を深め、それを基準として異文化に対応する方が賢明です。そして、異文化と摩擦が起こった際には、相手の文化を尊重するのはもちろんですが、どうしようもない場合は、〈法〉を基にして拒否する。逆に、自分がストレンジャーになった場合は、ネイティブの〈法〉をしっかり勉強して、仮にそれが自分の思想信条に合致しなくとも、まずは従うのがマナーとなりましょう。
注意すべきは、〈法〉を押し付ければ万事解決するわけではない、ということです。〈法〉は、対立が取り返しのつかない状況にまで発展しないよう、ひとまずの落としどころとして持ち出されるものであって、原則として、ネイティブもストレンジャーも自分の文化に則って気持ちよく暮らせる社会を目指すべきであります。
また、〈法〉は固定的なものではなく、時代や状況によって変化するものでもあります。たとえば、人体に身元を識別できるチップが埋め込まれるようになって、監視装置にキャッチされると、顔を隠していたって正体がわかってしまう、そんなSF映画のような社会になれば、「ブルカ」を禁じる理由はなくなります。
とまれ、現状では「ひとつの社会で、複数の文化がそれぞれの個性を十全に発揮する」のはたいへん難しいと言わざるをえません。来るべき「共生」社会に備えて私たちのできることは、異文化とのコミュニケーション事例を積み上げ、自分たちの社会の〈法〉を明確にして、もし異文化と衝突が生じた際にはいつでも〈法〉に訴えられるよう、つまり正当な理由でもって異文化を拒否することができるよう準備することです。きっとその末に、いつか、互いの文化を拒否しなくとも、共に暮らせる世になると信じながら。
スポンサーサイト

0 Comments

Post a comment