『徒然草』に見る資本主義の精神と兼好のリアリズム

新訂 徒然草 (岩波文庫)新訂 徒然草 (岩波文庫)
(1985/01)
吉田 兼好、西尾 実 他

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『徒然草』を読んでいたら、なかなか面白い話があったのでご紹介したいと思います。



 ある大福長者の言はく、「人はよろづをさしおきて、ひたふるに徳をつくべきなり。貧しくては生けるかひなし。富めるのみを人とす。徳をつかんと思はば、すべからく、まづその心づかひを修行すべし。その心といふは、他の事にあらず。人間常住の思ひに往して、かりにも無常を観ずることなかれ。これ第一の用心なり。
 次に、万事の用をかなふるべからず。人の世にある、自他につけて所願無量なり。欲に随ひて志を遂げんと思はば、百万の銭ありといふとも、暫くも往すべからず。所願は止む時なし。財は尽くる期あり。限りある財をもちて、限りなき願ひに随ふ事、得べからず。所願にきざす事あらば、我をほろぼすべき悪念来れりと、かあく慎み恐れて、小要をもなすべからず。
 次に、銭を奴のごとくして使ひ用ゐる物と知らば、ながく貧苦をまぬかるべからず。君のごとく、神のごとく恐れたふとみて、随へ用ゐることなかれ、次に、恥に臨むといふとも、怒り恨むる事なかれ。次に、正直にして約を固くすべし。この義をまぼりて利を求めん人は、富の来る事、火のかわけるに就き、水のくだれるに随ふがごとくなるべし。銭積りて尽きざる時は、宴飲・声色を事とせず、居所を飾らず、所願を成ぜざれども、心とこしなへに安く楽し」と申しき。



 ある金持ちが語る「金儲けの秘訣」なのですが、原文のままだとわかりづらいかと思うので、助動詞の活用形などとうの昔に忘れた私が、テキトーに現代語訳してみました(と言っても、実は昔も活用形の暗記なんてしてませんでしたが)。



 とある金持ちがこう言ったそうな。「人は万事さしおいて、ひたすらに富を蓄えるべきだ。貧しくては生きている甲斐がない。富める者以外は人とはいえないのだ。富を得ようと思うなら、かならず、それにふさわしい心構えを身につける努力をはじめなければならない。その心構えというのは、すなわち、この世は永遠に不変であるという認識に徹して、ゆめゆめ世は儚く移り変わっていくものだ、などと思わぬことだ。これが第一の心得である。
 次に、なんでもかんでも欲しいと思わないことだ。この世に生きるあらゆる人間の欲望は尽きることがない。欲心のおもむくままに快楽を追求しようとすれば、銭が百万あったとしてもちっとも満たされない。欲望は止まるところをしらないのだ。しかし、財はいつか尽きる。限りのある財でもって限りない欲望をかなえようなど、どだい無理な話である。もし欲望が沸々と湧いてきたら、「これは身を滅ぼす悪い感情だ」と自制して、ちょっとした贅沢でも我慢しなければならない。
 次に、お金は奴隷のように使役するものだ、などと思っていると、貧苦から抜け出すことなどできない。そうではなく、お金を主人のように、神のように恐れ尊んで、けっして従わせようなどと考えないことだ。次に、どんなに恥をかかされたとしても、怒り、恨んではならない。次に、嘘をつかず、約束はかならず守るようにしなければならない。これらの心得を守って利益を得ようとする者は、乾いたところに火が着くように、水が低い方へと流れるように、自然と富が集まってくる。そうしてお金が有り余るようになったとしても、宴会や色事におぼれたり、豪邸を建てたりしてはならない。そうすれば、欲望を満たすことはできなくとも、ずっと心穏やかに生きてゆけるであろう」と。



 ご存知のように、『徒然草』は鎌倉時代の仏僧・吉田兼好によって書かれた随想録です。この大福長者のような思想がすでに鎌倉時代からあったということに驚く方もいれば、当たり前に受け取る方もいるでしょう。どちらであっても、現代人であれば大福長者の主張を「ごくまっとうな」意見だと思うことでしょう。大福長者の考えは貨幣経済の一般化した時代の「正しい生き方」を説いたものであり、そのため現代のわたしたちからしてもうなずける部分が多いのです。

 禁欲と蓄財の精神。これこそ、近代資本主義社会成立のための前提条件といえます。西洋においてはプロテスタントの教えが、この資本主義の精神を準備しました。勤労によって財産をなし、財貨を積み重ねることこそが現世生活の徳を表し、それが死後の天国へ行ける証となる。プロテスタンティズムは禁欲と蓄財の経済倫理をその宗教的実践のなかに組み込んでいたのです。大福長者の思想が注目に値するのは、アジアの極東に浮かぶ島国で近代資本主義の倫理観がはやくも芽吹いていたことにあります。まさに大福長者は時代を先取りしていたと言えましょう。

 しかし一方、兼好はこのまぎれもない「近代資本主義の正義」に対して辛口のコメントを寄せています。



 そもそも人は、所願を成ぜんがために、財を求む。銭を財とする事は、願ひをかなふるがゆゑなり。所願あれどもかなへず、銭あれども用ゐざらんは、全く貧者とおなじ。何をか楽しびとせん。このおきては、ただ人間の望みを断ちて、貧を憂ふべからずと聞えたり。欲を成じて楽しびとせんよりは、しかじ、財ならんには。瘍・疽を病む者、水に洗ひて楽しびとせんよりは、病まざらんにはしかじ。ここに至りては、貧富分く所なし。究竟は理即にひとし。大欲は無欲に似たり。


 性懲りもなく私が訳してみます。


 てゆうかさ、人間ってそもそも自分が欲しいものを手に入れたり、やりたいことをするためにカネを求めるんだろ?カネが重宝されるのは、それが人の欲望をかなえてくれるからじゃん。それなのに、欲求があっても我慢する、カネがあっても使わないって、それじゃ貧乏人と何も変わんねェよ。まったく、いったい何が楽しくてカネ稼いでいるんだか。俺にはさ、こいつがたんに人間の欲心を断ち切ることで「貧乏だってへっちゃらさ」って人に思い込ませたいだけに聞こえるんだけど、どうよ?だいたい、欲望を満たすのを楽しみにしちゃいけないなら、はじめからカネなんて求めなきゃいいのさ。肩こりがひどいときにマッサージしてもらうとすっごい気持ちいいけど、だからといってわざわざ肩こりになろうだなんて思わないのと同じよ(しかも肩こりになったからマッサージして欲しいのに、それを我慢しろだなんて酷な話だろ?)。こうなっちまうと、金持ちだろうが貧乏人だろうが大差ねェよ。最高の悟りの境地は最低の迷いの状態と等しいもんだが、それと同じで、欲が大きかろうが無かろうが、やってることは結局似たようなものなのさ。


 「いってることが訳わかんないんですけど」といわんばかりの痛烈な批判です。お金は欲望を満たすためにあるのに、蓄財しておきながら質素倹約しろだなんておかしな話ではないか。もし蓄財するため/したあとに欲を断つ必要があるというなら、はじめから無欲でも何も違わない。これが兼好の主張です。

 非常に論理的で、極めて正論だといえるでしょう。そもそも勤労・禁欲・蓄財という倫理の3セットは、いまでこそ人類普遍の経済感覚だと思われていますが、実際はヨーロッパの一角、主にイングランドの中産階級の間で産声をあげた思想が世界全体に広がったものです。ヨーロッパから見た「未開社会」の多くは、財を溜めこむということそのものが忌避され、富める者は積極的に「大盤振る舞い」することが求められる、「不経済的」な社会でした。そこでは、財とは「使ってこそ価値がある」ものだったのです。

兼好の経済観――使わないのに溜めこんでどうするんだ、とは近代の合理的経済人たる大福長者に対する「前近代人」の経済観念ということができます。だからといって、これをもって【合理的でリアリストの大福長者】対【非合理的で非リアリストの兼好】という対立項を置くのはあまりに安易ですし、誤りでさえあると私は思います。むしろ、兼好はわたしたち近代人ほど「想像力が豊かではなく、フィクションを現実だと思い込めなかった」のだ、と言うべきです。兼好は現実を「そのままに見つめる」人間だったのです。

 大福長者の主張のなかで特に注目すべきなのは「人間常住の思ひに往して、かりにも無常を観ずることなかれ」という第一の心得です。だいたいにして、「かりにも無常を観ずることなかれ」との発言を耳にした時点で、諸行無常を旨とする仏教の僧である兼好はかなりカチンときているはずです。しかし兼好でなくとも、現代のわたしたちにとっても「この世は永遠に不変である」という主張をそのままうなずくのは、実は少々厳しいものがある。ブッタのことばを引用するまでもなく、わたしたちは時とともに老い往き、やがて死ぬ運命にあります。いつまでも若く瑞々しいままではいられないのです。万物は時とともに生成変化していくのであって、何ものも一定の形状を保ったままでいることはできない。わたしたちの生活経験はこのような無常の世界観を支持するでしょうし、未来永劫に渡って変わることのない完全な存在があるなどと思う方が非現実的でしょう。

 しかし、大福長者は財産を築くための「心構え」として必要なのは「万物は変化していくもの」という自らの経験的リアリティを否定することだ、と言います。ここで問われているのは「万物は変化するものである」という命題の真偽ではありません。仮に真であるとしても、大福長者は自分の主張を曲げないでしょう。というのも、世が不変であると思い込むことこそが、近代資本主義社会の生活を成り立たせる条件だからです。

 「銭積りて尽きざる時は、宴飲・声色を事とせず、居所を飾らず、所願を成ぜざれども、心とこしなへに安く楽し」と大福長者は説きます。たとえお金があっても質素倹約に努めるべし、さすれば欲求は満たされずとも、将来安泰である。お金、つまり貨幣を蓄えることが人の未来の生活を保障する。貯金好きな日本人にはとても馴染み深い考え方です。さてここで、貨幣をギデンズ流に「時間を括弧に入れ、それによって取り引きを個々の交換の場から切り離す」手段、として捉えてみましょう。この定義だけだとちょっとわかりづらいので、例を挙げてご説明いたします。

 AとB、ふたりの人物が市場にいるとします。Aは100G相当の靴を、Bは同じく100G相当のサカナを、それぞれ売りに出している。Aはサカナを、Bは靴を欲しているなら、めでたくその場で等価物同士の物々交換が成立します。

 では別のケースを考えてみましょう。BはAの売っている靴が欲しい。AもBのサカナが欲しいのですが、あいにくAの靴はすでに売れてしまった。AはBに「1週間後、新しい靴を編んでくるから待ってくれ」と言います。約束通り、Aは新しい靴を持って市場にやってきました。ところが、1週間経ってBのサカナはすでに腐っていました。当然、Aは交換を拒否。AもBもお互いの望みをかなえることができませんでした。

 しかし、もしここでBがサカナを貨幣に換えていたらどうでしょうか?1週間後、新しい靴を持ってきたAに対し、Bは100Gを差し出します。Aは「俺が欲しいのはお金じゃなくてサカナだ」と憤慨します。Bはなだめるように言います。「だいじょうぶ、この100Gがあれば、他の100G相当のサカナが手に入る。つまり、この100Gはサカナの代わりだ。そしてあんたが100Gを持てば、今度はその100Gが靴の代わりになるのさ」。

 すなわち、貨幣を用いた交換とはその場その場で交換されるはずだった物々交換を繰り延べることなのです。いわば、貨幣は時間を超えた取り引きを可能にする。大福長者がいまの快楽を犠牲にしてまで貯金を説くのは、貨幣の量が将来の物質生活の豊かさを表すからです。すなわち、貨幣は未来を買うための約束手形なのです。

 大福長者の経済観念が現代人にも十分に通じるのは、現代人もまた貨幣をこのように見ているためです。人々があくせく働いて稼いだ給料を貯金するのは、どうなるかわからない将来に備えるためです。人々に安心と喜びを与えるのは貯金の金額であり、それをさらに増やすため、自律・自戒して己の欲望を殺しつつ生活を送っていくことになる。

 ところで、いまでも、亡くなった方の棺桶に貨幣を入れる風習が残っています。地獄の沙汰も金次第、あの世へ無事に着いてもらうため、三途の川の渡り賃を包んでおくというわけです。その相場は六文と言われていますが、しかし棺桶に入れる金額はそれで本当に足りているのでしょうか?いままでは間に合っていたとしても、もしあの世の物価が上昇して、渡し船の渡り賃が値上げしていたら、無事に彼岸までたどり着けないかもしれません。

 近年の世界同時金融不安は、世界中の人々を混乱に陥れました。証券や手形が次々と紙くず同然となっていき、連鎖的な値崩れを恐れて世界中の人々が金融市場の動向を戦々恐々としながら見守りました。この混乱は為替市場にも広がり、相対的に安全と見られた日本円が買いたたかれて、いまでも異常な円高が続いています。

 貨幣はたしかに取り引きを先延ばしにする機能をもっています。だから貯金が人々に生活の安定感を与えるのですが、しかしいまこの瞬間に100円で買えた物が、次も100円で買えるなどという保障はどこにもありません。第一次大戦後のワイマール・ドイツのように、ひとたびハイパーインフレに陥るや、たとえ100億円の貯蓄でもパン一切れの価値にすら及ばなくなってしまうかもしれない。そんな事態を防ぐために、IMFのように通貨の安定性を守る世界機関があるのですが、地球規模で日夜大量のマネーが飛び交う時代において、それがどこまで貨幣価値を保障しうるのかは疑わしいと言わざるをえません。貨幣の価値、物の価値が不安定に激動していく時代において、経済の世界もまた「諸行無常」の観を強めているといえます。

 それでもなお、近代資本主義のシステムに則って生活している近代人のわたしたちは「人間常住の思ひに往して、かりにも無常を観ずることなかれ」という掟をつらぬかねばなりません。お金の価値は明日にでも変化してしまうものだ、などと思っていては、手元にある現物をお金に換えよう、労働の対価としてお金を受け取ろう、なんて気にはなれません。現物を、労力を、明日にはただの紙切れになるかもしれないものと誰が交換するでしょうか。貨幣を用いた交換が成り立っているのは、その貨幣の価値が「将来に渡って変わらない」とみなす、そういう態度を当事者同士がとっているからなのです。フィクションを真実とみなすこと、これこそが貨幣経済の根幹を支えているのです。だから私たちは、貨幣交換のシステムを保守するため、仮に経済世界に諸行無常を感じていても、それでもなお、将来にわたって貨幣の価値は一定であると思い込むしかないのです。見えない明日に安心感を求める人間の欲求は、半ば強迫衝動的にお金を貯めることでしか叶えられませんが、しかし貯蓄に起因する安心感も、所詮はこのフィクションを信じ込むことではじめて得られるものなのであり、実態は不安定なもので安定を得ようという本末転倒な企みでしかないのです。

生成変化していく世の中を不変のものと思い込む。この倒錯した前提が共有されてこそ、私たちの依拠する近代資本主義の経済秩序は保たれます。近代人は諸行無常という経験的リアリティに目を瞑り、明日も同じ日常が繰り返されるのだと「自己暗示」をかけながら、ひたすら貯蓄に励んでいくよりほか、かなしいかな、現世に生きることの不安に耐えられません。

 しかし兼好は、この貨幣経済を支える想像力が迷信めいていることだけでなく、この想像力の浸透により、人間が自由を失い、貨幣に従属していくであろう、と警告している。「このおきては、ただ人間の望みを断ちて、貧を憂ふべからずと聞えたり」と指摘しているのはさすがと言うべきでしょう。世捨て人兼好の嗅覚は大福長者の思想のイデオロギー性を見事看破しています。「銭を……君のごとく、神のごとく恐れたふとみ」ろと大福長者は説きます。文脈は違えど、マルクスもまた資本主義経済において貨幣は偶像崇拝(フェティシズム)の対象となっていると分析しています。近代資本主義社会において、お金はまさに「神」なのです。兼好のように、お金は自分の欲求を満たすためにあるとするならば、欲求を満たすもののために欲求を抑え、ただひたすら貯めこんでいる姿は、まさにカミサマへ供物を捧げているかのように見えます。実際、自分で使わないお金を貯金するのはカミサマにお供え物をしているようなものです。日本人は特に何の疑問もなしに銀行貯金をしますが、一般常識として、まさか預けたお金がそのまま保管されているとはだれも思っていないでしょう。人々があくせく働いて銀行に貯めたお金は、実際はどこかの国なり自治体なり企業に借し出されているのであり、銀行の金庫に保管してあるお金は、みなが貯金した金額にまったく足りていません。銀行は貨幣の先延ばし機能を利用して、人々の預金を貸出金として運用しています。資本主義システムにおいては、この実体を伴わない信用取引――いわば未来からの借金こそが市場を潤し、わたしたちの生活を支えているのです。それが可能なのは、人々が倹約・貯蓄に励み、己の欲求を押し殺してまで、お金を銀行に預けているからです。「質素な生活をせよ」という大福長者の教えは「資本主義・貨幣経済システムに仕え、支えよ」という隠れたミッションを成立させているのですが、兼好はその胡散臭さを的確に見抜いていたのです。

 兼好は実に「理性的な」人物でした。その理性は前近代の伝統と慣習にとらわれたものではなく、近代の懐疑主義的なそれに近いものです。兼好の筆には現実のありさまを疑い、真実をありのままに描き出そうとする知的態度が表れています。大福長者の言い分、すなわち近代人の常識は、そんな兼好にとって支離滅裂で筋の通らぬものであるばかりか、多くの虚偽と欺瞞に彩られていました。きっと兼好の目には大福長者、そしてかれの言い分通りに行動するすべての人々は、己が何に仕えているのかもわからないまま、得体の知れぬなにものかのために己を犠牲にしている、そんな狂信的存在に映ったことでしょう。

 800年も昔に、兼好は大福長者とかれが仕える貨幣経済の「幻想」を暴いていました。しかし、その後の日本は兼好の警告よりも大福長者の近代資本主義の言説に導かれることとなり、江戸時代には高度な貨幣経済システムが日本社会に根を下ろすことになります。ときに近代とは「理性と啓蒙」の時代でありまして、いみじくも「市民」を名乗るならば、真実・真理にしたがうことこそが正義と考えるべきでしょう。だからこそ、わたしたち現代人はあらゆる迷信を憎み、科学的根拠がなければ何も信じない、そういう「理性的な人間」を理想像としているのです。さて、その理性的存在であるわたしたちは、兼好と大福長者、いったいどちらの言を「真実」とみなすのでしょうか?そしてその理性的判断は、わたしたちにどんな世界をもたらすのでしょうか?

なにはともあれ、現実主義的なわたしたちの理性は、きっとこう囁くことでしょう。
「わたしの言うことは正しい。そのわたしが汝に命じる。わたしの言うことを信じてはならない」と。
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