イスラームとグローバリゼーション――自由と平等の試金石

カリフ制再興 ―― 未完のプロジェクト、その歴史・理念・未来カリフ制再興 ―― 未完のプロジェクト、その歴史・理念・未来
中田考

書肆心水 2015-02-20
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部族主義(アサビーヤ)を掲げるものはわれわれの同胞ではない。そして部族主義を掲げて死んだものもわれわれの仲間ではない

 ――アブー・ダーウード編による『ハディース』より



私たちは学校の授業で、またはテレビ番組の、ニュースだとかドラマだとかアニメだとかで、あるいは日々の大人たちの言動のなかから、人間とは「自由」である、または「自由」であるべきだ、と教わります。また、人を差別するのはいけないことだし、人はみんな尊いのだし、たとえ文化を異にする人であっても、暖かく歓迎しなければならない、なぜなら人間はみな「平等」なのだから、と教わります。

しかし、最近のアメリカでは排外主義的な言動を繰り返した方が大統領に選ばれました。欧州では、移民の排斥を訴える極右政党が躍進しています。私たちが教わってきた「正しいこと」が、どんどんまかり通らなくなり、人間の自由や平等が脅かされているように感じる方も多いことでしょう。

ときに、そうした「排外主義」的な人々が目の敵にしているのが移民、それもイスラーム教徒(ムスリム)の移民です。なぜムスリムの移民が嫌われるのかと言いますと、テロリストが混じっているかもしれないから、という理由もありますけれど、最も大きな理由は、ムスリムの多くは移民先でも自分たちの信仰、文化、生活を頑なに変えないからです。

それはなぜか。

欧米や日本では「政教分離」が原則となっています。なので、特定の宗教の教義なり戒律なりが、そのまま国の法律になることはありません。これは、長年にわたる宗教戦争に飽き飽きしたヨーロッパが、キリスト教徒の宗教生活を律する「教会法(聖法)」と、国が国民に課する「世俗法」を分離したことに始まりました。これにより、ある国家の領土は、その国家の世俗法が及ぶ範囲となり、現代の国際関係の基本的単位である「主権国家」が誕生する布石となりました。

しかし、イスラーム教には聖なる法と世俗の法を分離するという発想はありません。コーランやハディースなどの聖典から導き出される「イスラーム法」があるのみです。ムスリムにとって、政治だろうと商売だろうと、人間生活のあらゆる面でイスラーム法に貫かれた行動を採ることが宗教生活の要諦なのであって、社会生活そのものが聖なる営みなのです。

また、イスラームとは「服従する」ことを意味しますが、何に服従するのかと言えば(言わずもがなですが)アッラー、すなわち絶対にして唯一の神です。そのため、ムスリムはアッラー以外の何者にも従いません。自分たちの国家が定める法律であっても、それは所詮人間が作った決まり事に過ぎませんから、それがイスラーム法に背くような内容であれば、従う道理などないのです。そのため、主権国家であれば備えていて当然の「憲法」を、イスラーム教を国教とする国家は定めていません。国家が最高法規を定めるなど、アッラーに対する反逆に外ならないからです。

日本の諺では「郷に入っては郷に従え」と言いますが、イスラーム法に従って生活することを何よりも重要視しているムスリムにとっては、その「郷」の法律や生活習慣がイスラーム法に反していれば、それに則るなどもっての外です。そのため、現地の人々からは平気で法律違反を繰り返す、厄介で危険な連中だと見なされてしまい、それがトラブルの火種となってしまうのです。

すると、少なからぬ人々が「ムスリムの人々も私たちのように近代化して、宗教と世俗とをきちんと分別するようになるべきだ」と考えることでしょう。たとえばトルコ共和国のように、それに成功した国もある。近代化に成功すれば、ムスリムであっても他国に生活するからには、その国の社会生活に合わせるようになるし、中東や北アフリカに、コーランではなく自国の「憲法」を最高法規に掲げる、きちっとした主権国家ができて、今は紛争ばかりの地域も安定してくるだろう――と。

ときに、私は冒頭で「人間は自由で平等である」と述べました。日本を含めた「先進国家」の国民で、この道徳観を無下にできる人はまずいません。自由と言う面で言えば、グローバル化が進んだ昨今、膨大なモノとカネが世界狭しと飛び回るようになりました。ですが、ヒトの移動はどうでしょうか。海外に旅行へ行こうとすれば、ビザを取得した上で、入管で厳しくチェックを受けなければならず、在留期間も定められている。永住するなら資格を得なくてはならず、仮に永住権を獲得しても、何かあれば強制送還の対象となります。

たとえばアフリカの、貧しい国に生れた人は、豊かな国や地域に移住したいと望んでも、国家という檻の、国境という鉄格子に阻まれて、衣食の足りる場所で生きていきたいという、人間の基本的な欲求すら叶えられないでいる。これが、自由で平等な人間が織りなしている「はず」の世界の実態です。

主権国家は、結局のところ、国境で区分けされた領土内で人と富とを囲い込むためのシステムであって、その内部では「自分たち(のモノ)と他者(のモノ)」を隔絶するナショナリズムが必然的に発達していきます。そして、他国の人間が自国に入ってくるのを厳しく監視して、自分たちの富を奪われないよう常に目を光らせるようになる。逆に、そもそも富が十分ではない国では、国民は、その乏しい富で生きていくことを強いられます。

一方、イスラーム教においては元来、国境も、主権国家も存在しません。あるのは、イスラーム法が正しく施行されているダール・アル・イスラーム(イスラームの家)と、それ以外の、イスラームの教えが浸透していないジャーヒリーヤ(無明)の地域のみです。また、国民も存在しません。あるのは、ムスリムか非ムスリムかだけです。そしてダール・アル・イスラームの内側であれば、ムスリムはどこにでも移動できるし、それを妨げる者は誰もいません。だから、貧しい地域のムスリムは、富める地域に移住すればいいだけです。

イスラーム教においては、国境で人を囲い、移動を制限して、その内部の人間だけを優遇するようなナショナリズムは、部族主義であるゆえに排除すべきであり、またイスラーム法に反していますから、ムスリムが国家の囲い込みに従う道理もないのです。してみると、現在のムスリム移民と欧米各国との間に起こっている軋轢は、自由と平等を掲げつつも、実態は「部族主義」でしかないリベラル諸国家ないし国民が、主権国家とナショナリズムという、人間の自由と平等を妨げる主要因に亀裂を生じせしめ、国境を粉砕して、世界を真のグローバリゼーションへと導きかねない潜在力をもったイスラームの教えを守るムスリムを危険視するという、いささか倒錯した構図でもって捉えることもできるでしょう。

ムスリム移民への対応は「真のグローバリゼーション」への、すなわち人間の自由と平等という理想をどれだけ本気で実現しようとしているのかを問う「神からの試練」とでも呼べるかもしれません。しかし、その試練は困難を極めるでしょう。「真のグローバリゼーション」に近いのは、常に国境を越え、国家を無効化しようとするイスラーム法の側であり、世界がダール・アル・イスラームに包摂されるかたちで「国境のない世界」が現出する可能性も、けしてゼロではないからです。
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