宇宙論のふたつの視座――SPACEとCOSMOS

もの皆こぞりて御神を讃えよ、光のはらから(同胞)なる日を讃えよ
  ――アッシジのフランチェスコ『被造物の讃歌』より

主は……ポビーとディンガンのなめたキャンデーのひとつひとつにあらせられた。
  ――ベン・ライス著『ポビーとディンガン』より


SPACEとCOSMOS。

どちらも日本語では「宇宙」と訳される。だが、その意味することは大きく異なる。

現代人にとっての宇宙とは、私たちの生きる地球が浮かび、光年というとてつもない単位の拡がりをもつ、広大な「空間(SPACE)」のことだ。しかしそれは、大地は球状の「地球」で、地球は太陽の周りを巡っていて、夜空でまたたく星々は、太陽のような恒星の発する光が、何千万年、何億年と時間をかけて人間の目に到達したものだ、といったことを人類がわかってからそうなったのであって、その発見があるまでの、古典的人類にとっての宇宙は、もっと別の拡がりを有していた。

この古典的人類が用いてきた意味での宇宙をCOSMOSという。COSMOSとは何か。それは、この世界のありとあらゆるもののすべてをかくあらしめている根本原理のことである。

たとえば、大地に落ちた種はやがて芽吹き、天に向かって茎を伸ばし、花を咲かせ、実を結び、種を宿してまた大地に落とし、そして枯れていく。この世界に存在する事物は、まるで何者かにそうなるよう設計されたかのように、秩序正しく生と死と再生のサイクルを繰り返している。となれば、このサイクルを律し、また動かすエネルギーを供給する大いなる源がいる(ある)はずだ。そうして見出されたのがCOSMOSと呼ばれるところの宇宙だ。

COSMOSは、この世界と、この世界の内の森羅万象が、このように存在し、このように起こることの原因である。ならば人間も例外ではなく、COSMOSの作用によって生きている(生かされている)ということになる。ということは、人間の肉体や霊魂は、その隅から隅まで、COSMOSの内側で、COSMOSのパワーに満たされて出来上がっているということだから、全存在世界を貫く大原理としてのMACRO‐COSMOSと、人間(広義では、人間のみならず、世界内に存在するありとあらゆる事物)の存在形態であるMICRO‐COSMOSとは、ちょうどフラクタル構造のように、照応していることになる。

MACRO‐COSMOSは全世界を統合し、あらゆる存在を存在たらしめる無限大のエネルギーであるから、人間ごときがMACRO‐COSMOSに逆らうことなど思いもよらないことだ。むしろ、微力を尽くしてMACRO‐COSMOSの声を聞き、その意に沿って生きることこそが、人間の使命であり、幸福ということになる。幸い、人間の内に満ちるMICRO‐COSMOSはMACRO‐COSMOSの相似的な似姿であり、存在の位相としては同一地平上にあるのだから、両側のCOSMOSを感応させていけば、いずれ双方の融合が叶うであろう、という理論が導き出され、数々の実践が編み出される。

そのひとつがヨーガ。MACRO‐COSMOSたる「梵:ブラフマン」とMICRO‐COSMOSたる「我;アートマン」は本来同一である、すなわち「梵我一如」の確信のもと、肉体をCOSMOSに見立てるとともに、特殊な呼吸法を用いて、体内を流れる「気」の流れを、MACRO‐COSMOS から流れる万物生成のエネルギーとをシンクロさせ、両COSMOSを一体化させることを目的とする。

また、古代ギリシャにおいては、人間が世界の事物を正しく知ることができるのは、人間がCOSMOSを介して世界内の諸存在と深い関係にあるからと考えた。この世界に存在するあらゆる万物は、例外なくCOSMOSを通って生まれてきた。であれば、人間は万物と、COSMOSの胎内で、まだ物質的形態のない、純粋な霊体ないし魂の状態で、出会っていることになる。ゆえにこそ、人間はその頃の魂の記憶をよすがに、万物の何たるかを知ることができる。

この、COSMOSにあって、万物に万物性を供給する存在の原形のことを「イデア(Idea)」と呼ぶ。私たちがこの世界に「存在している」と思っているのは、実はこのイデアの「影」に過ぎず、真に「実在している」と言えるのは、天上に瞬くこのイデアのみ。ここにおいても、古代インドと同様、人間にとっての使命は、イデアを正しく知り、イデアの導くままに、イデアとの合一を目指して、生きていくことである。そして人間の性質のうち、イデアを捉える力である「知性:ヌース」が最も重要な位置を占めることとなり、またイデアを追求せんとする学問である「哲学」に最大の権威が与えられる。

COSMOSは、儒教においては「天」であり、道教においては「道:タオ」であり、一神教においては唯一絶対の「神」となる(もちろん、各々その位置づけや意義は大きく異なるが)。古典期の末期に至るまでは、人間はCOSMOSに抱かれ、その息吹(プシュケー)を己の外と内の両面から感じながら、生きてきた。世界も、人間という存在も、COSMOSの恩恵なくしてはもろくも崩れ去ってしまうのであり、また人間が、この世界に存在するものの真の姿(真理)を知ることができるのも、COSMOSの光がありのままの存在を照らし出してくれるからだった(たとえばキリスト教の古典期における、アウグスティヌスの照明説)。

人間は、COSMOSを介して、COSMOSに包摂された世界の内に存在する万物と、ともすれば主客不可分ともなりかねないほどの、密接な関係を取り結んできた。しかし、ルネサンスを経過したヨーロッパで、人間の「認識論的転換」が生じる。科学の隆盛により、人間はCOSMOSの助けがなくとも事物を認識できるという自信をつけていく。また、実証主義が支持を集めるに従い、COSMOSなどという、人間が見も触れもできないものを、人間の認識能力の根拠にはできない、という風潮が広まっていく。

かくして、近代を特徴づける「人間中心主義(ヒューマニズム)」が成立する。人間と世界とを結び付ける媒介となっていたCOSMOSを、人間はすげなく放棄して、人間こそが世界における「主体」であり、それ以外の物どもは、人間に観測されるのを待つ「客体」であるとして、自己と諸存在との間に越えることのできない分割線を引くようになる。。

そして人間は、自らの実在性の基盤や、他の存在と関係しうることの証明を、MICRO‐COSMOSとMACRO‐COSMOSとが照応する関係性のなかにではなく、自分自身の思考能力にのみ置くこととなる。そして、世界に存在するものたちはCOSMOSとの交流を絶たれ、延長をもつだけの「物体」と化していく。

COSMOSが否定されたからには、真に実在するもの(真理)としてのイデアもまた、否定されざるをえない。すると、人間の真理を捉える能力ばかりか、そもそも真理などというものが現実にありえるのか、という懐疑が発せられ、人間の認識能力の限界を画する試みがなされる。そして真理を捉える力とされていた「知性」は、人間の傲慢、あるいは思い違いとされ、ある対象をカテゴリー内に捉える能力である「悟性」に変貌する。そして孤高の高みにあって、全存在の存在性の源泉であったイデアは、人間が事物を対象化して自己の認識下に置くための道具である「アイディア(idea)」となって、人間の中に埋没する。

やがて、全存在を余すところなく包み込んでいたCOSMOSは、諸物体・物質を容れる空間としてのSPACEへと姿を変える。COSMOSにあっては、世界内のあらゆる存在は、それがCOSMOSを己の存在性の源流としている点において、他の存在と近親関係にあった。いわば、いずれの存在も「全かつ一」なのであって、それが自己と他者との、豊かな精神的交流を生んでいた。しかしSPACEにあっては、他の存在は「物体」としてのみ在り、生体的な感覚(それはいつか脳と神経の機能に集約されるだろう)を通してのみ接点を保つのであって、自己にとっては認識の対象であるとともに、自己の存立の外郭を縁取る「環境」でしかなくなる。

かくして世界は、その様態の尽くが、人間の意識下でのみ存在を許されるようになり、もはや人間なくしては意味もなく、価値もなく、また成立もしないものとなる。そして人間は、COSMOSの超越性を否定するとともに、それを自らの内に取り込むことで、観測者として全存在の頂点に立った気分に浸ったのだった。

だが、ここでヒューマニズムは思いがけない「ぬかるみ」に嵌ることになる。神たるCOSMOSが死んだ後にあっては、人間は、人間自身以外に、人間を超越した「外部」を持たない。ヒューマニズムは、何よりも「有限性」をその特質としており、人間の在り方にも限界が設けられる。そこでは、理性的に限界を弁えることが賢明な態度となる。それでもなお限界を越えようとすれば――欲望する者としての人間は、自らに宿る「力への意志」に突き動かされるのだとすれば、それは人間の宿命だ――人間の力のみで人間を超える「超人」となるよりない。

人間の力のみで人間を超えるとはどういうことか。COSMOSに抱かれていた頃の人間は、人間存在の理想形を、遥けき天上の彼方のイデアに、託すことができた。現世においては、人間は肉体という滅び去るものとして生きているため、永遠なるイデアに達することは叶わないが、一方で、自己は常にCOSMOSとともにある。つまりCOSMOSは到達すべき目標であるとともに、不完全な存在が、不完全であっても現に存在することをも支える、どこまでも普遍的な生命力の根源だ。だから人間は、現に肉体として在る今においても、美しき永遠性の芳香を感じることができた。

だがヒューマニズムの人間は、永遠なる外部を認めない。それは、人間の目指すべき究極的な到達点を定めないということだ。だがそれでもなお「前に進んでいる」ことの快楽を――それが前なのか後ろなのか、進んでいるのか退いているのか、ヒューマニズムでは計測しようがないのだが――享受したいのであれば、もはや自分自身を外部化し続けるよりない。現に在る今の自分に安住することは許されず、自己を絶えず否定し、外部に括り出して対象化して、正と反とを対峙・闘争させることで、自己をより高い次元へと押し上げていかなければならない。しかし、この押し上げが不首尾に終われば、否定されたままの惨めな自己に引き落とされる。自己という棲家を失った魂は、肉体的な死よりももっとおぞましい死を迎えるだろう。

ヒューマニズム下の人間は、自己の否定を恐れているにも関わらず、尽きることのない自己肯定の快楽を求めて、自分自身を否定し続けるマゾヒストとならざるをえない。ヒューマニズムは、人間を諸存在の最高位に置くことで、かえって人間を生から疎外する、あるいは、生の疎外こそが人間的な生として称賛される、倒錯した世界を誕生させた。

やがて2度の世界大戦で「人間は人間でしかありえない」という前提に危機感を覚えた人々は、ヒューマニズムが穿った空隙を埋めようと試みるだろう。ある者は、宗教が数千年にわたって築き上げてきた理論と実践をリバイバルして、人間とCOSMOSとの和解に努めるだろう。ある者は、ヒューマニズムが生み出したコトバを用いて、ヒューマニズムが放棄した「語りえぬもの」あるいは「無」などと称されるものこそが、ヒューマニズム的な生き方をも可能とする、諸存在の活き活きとした地場なのだ、と主張するだろう。ある者は、なおヒューマニズムに賭けて、人間の理性をのみ方位指針とした、あてなき放浪を続けるだろう。

存在の疵を癒やすのはどの道なのか、あるいは、他の道を人間は見つけうるのか、それはまだ、誰にもわからない。
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