近親婚は禁止できるのか――社会は愛をどこまで認めるか

目はいかにせん、正視に堪えぬ。君の与える、げにそれほどの恐れおののき。
  ――ソポクレス『オイディプス王』より


クリスマスが近づいてきて、恋人たちは愛する人と素敵な一日を送ろうと、うきうき準備を進めていることでしょう。

近年では、様々な愛のかたちが認められるようになりました。ちょっと前には、アメリカで同性婚が合憲とされたことが画期的な出来事として話題になりましたね。日本でも、渋谷区が嚆矢となって、婚姻関係は認められなくても、それに近い法的関係は認める「パートナーシップ証明」を発行するようになりました。この自由な世界では、もはや愛する者の間には、いかなる壁もなくなりつつあるかのようです。

しかし、同性婚を認めた「自由で先進的な」アメリカですが、一方で少なくない州が「いとこ婚」を法律で禁じていることはご存知でしょうか。

ちなみに日本ですと、民法の第734条で「直系血族又は三親等内の傍系血族の間では、婚姻をすることができない」とありますので、裏を返せば従兄弟・従姉妹との結婚はOKということです。

同性婚をも認める自由の国アメリカが「いとこ婚」には不寛容。日本でも、親と子、兄弟姉妹、叔父叔と姪、叔母と甥といった「近親婚」は禁止されています。どうやら世界的に見ても、同性婚はまだ許されるけれど、近親婚のハードルは非常に高いようです。

でも、それってどうしてでしょうか?

「そんなのダメに決まってるだろうが!」とお叱りを受けそうですけれど、それならあえて聞き分けのない子どものように「どうしてダメなの?」とさらに食いつきたい。時代の潮流は同性婚をも許容し、そればかりか人類の進歩として歓迎すらされているのです。そのなかにあって、なぜ近親婚はいまだに禁じられているのか。

ということで、近親婚に反対する意見は種々ありますけれど、その理由が批判に耐えられるのか検証していこうと思います。日本では、いとこ同士の結婚は、珍しいとはいえ合法となっていますので、ここで「近親婚」と言うときは、親子間とか、兄弟姉妹間とか、日本社会では拒絶されている直系親族同士の結婚を想像していただければと思います。

近親婚に反対する人々の意見のうち、最も多いのが「遺伝情報が近いと、脆弱な子どもが生まれる可能性が高いから」というものでしょう。医学的に見れば、これは確かに一面の「事実」なのですけれど、これをもって「理由」にしてしまうと、人道上、非常に都合の悪い事態に陥ってしまいます。

この理由が成り立つためには、その背後に「脆弱な子どもが生まれる可能性のある夫婦は、子どもを妊娠・出産すべきではない」という「倫理」が控えていなければなりません。ひとむかし前であれば、お腹のなかの子どもに先天的な病気や障害があるかどうかは、産まれてみなければわかりませんでしたが、現代医学の進歩により、両親のDNA情報を解析することで、子どもがどんな病気を「受け継ぐ」可能性があるのか、かなりの程度わかるようになりました。

もしこの「倫理」を適用するのであれば、近親婚に限らず、産まれる前、それどころか妊娠する前から、「脆弱な」子どもが生まれる可能性が高いと診断された夫婦は、子どもを作るべきではない、ということになりましょう。言うまでもなく、これは優れた種だけを残し、劣った種をあらかじめ排除しようとする「優生学」に帰結します。半世紀以上前に人類が否定したはずの思想を、またリバイバルさせるのは、はたして賢明でしょうか。

また、そこから百歩も千歩も譲って、近親者同士から産まれてくる子どもの脆弱性が危惧されるってなら、それじゃあ子どもは作らないから、夫婦として認めてよ、という話になったらどうでしょう。

「それでは人口が増えなくなって、社会・共同体が維持できないじゃないか」という声もありましょうが、それなら同性婚だって、どう逆立ちしても子どもはできないのですから、事情は一緒です。人口が維持できない、という理由を持ち出すなら、同性婚だけ認めるのはフェアではありません。

同性婚にあって近親婚にないもの、となれば、近親婚は血縁関係が拡がらない、という人類学的理由が挙げられましょうか。

古来より婚姻は、それまで無関係だった一族と一族、家と家とを結び合わせる重要な手段でした。ですから、中世の王様や貴族、日本の大名なんかは「政略結婚」を繰り返して仲間を増やし、複雑な合従連衡の網の目を張り巡らせたのです。

けれど、それは昔の話。大日本帝国憲法では「家」の維持に配慮した条文もありましたけれど、日本国憲法では、第24条で「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とあるように、婚姻に「家」がどうのなんて関わりなく、夫婦というのはあくまで「両性の合意」にのみ基づく、ごく個人的な関係として規定されています。

血縁がどうの家がどうのといった理由は、特に若い人は十分な経済力を持ちませんから、今でもそれなりにシビアな問題ではありますけれど、憲法上での婚姻は当事者同士の問題でしかないのですから、いまさらそれを持ち出して近親婚をけしからんと言うのは、現代に生きる日本人からすれば、いささか旧弊に過ぎるでしょう。なお憲法では「両性の合意」と明記されていますから、同性婚の方が筋としてはよろしくありません。

あとは「血の濃い者同士から生まれた子どもはケガレている」といった呪術めいた確信をお持ちの方もいるかもしれませんが、大多数の現代人には「まあたいした迷信家ですこと」と一蹴されてそれきりでしょう。

最後のは冗談として、こうして見ていきますと、近親婚を禁ずる「合理的」な理由を見つけるのは、どうも難しいように思われます。となれば、近親婚を禁じる理由としては、もはや「感情的」な面しか残されていません。要するに、近親婚は「生理的に受け付けない」から――あえて下品に言うと「キモい」から、なのだと。

実のところ、人々が近親婚をNGとするのは、この「生理的嫌悪」が主な原因なのではないか、と私は思います。つまるところ、ちゃんとしたワケなどないのです。ただただ「気持ち悪く」て「嫌」で「受け入れられない」というだけのこと。けれど、だからこそ、どんなに理に反していても、頭ではわかっていても、認めることができない。

とまれ、常識的な大人であれば、自分の好き嫌いを他人に押し付けてはならない、ということは当然にわきまえていなければなりません。人にはそれぞれ趣味・趣向があるのですから、自分には価値のわからないことであっても、最大限尊重するのが自由社会のマナーです。

しかしながら、人々の生理的嫌悪を理由として、ある人の行為・行動が制限されるケースも皆無ではありません。たとえば、大多数の人は「ゴミ」を不快に感じますけれど、近所にゴミ屋敷があって、悪臭が漂ってくるようであれば、いかにゴミ屋敷の主人が、そのゴミを我が子のごとく大事にしていようが、行政などがそれを強制的に撤去して、咎める者はいないでしょう。

その人にとってはどんなに大切で素晴らしいことであっても、人々の社会生活に支障をきたすほどの不快感を与えてしまうのであれば、それを禁じるのは正当とされます。では近親婚は、ゴミ屋敷のように、人々の生活を脅かすほどの不快感を振りまくものでしょうか。たとえば、血のつながった兄弟/姉妹同士で愛し合っているカップルが、群衆のなかふたりで歩いていたとして、周囲の人間が体調を崩したり気分が落ち込んだりするでしょうか。近親者同士で愛し合っていることが、他人の生活に具体的な損失をもたらすケースは、私の思いつく限りでは、まったくと言っていいほどありません。

いちおう証言しておきますと、私は近親婚の権利を認めよう、と積極的に働きかけるつもりはありません。正直に白状しますと、近親者同士で恋愛するなどまったく理解不能で、特に理由もなく、直感的に「嫌悪」を抱いてしまいます。といっても、近親婚に何としても反対しようとも思いません。血のつながった者同士でも、愛し合ってしまったのであれば仕方ありません。あとは当人たちの問題でしょう。

とはいえ、大多数の人々は、同性婚はまだしも、近親婚はおいそれと認められないでしょう。けれど、近親婚を禁じようとすれば、私たちの人権なり自由なりを支える他の価値観を壊しかねない、それはこれまでの検討で明らかになりました。となると、今のところは特に「問題化」されていませんけれど、もし将来、近親者同士に恋愛の自由はあるか、という問いが社会に投げかけられたとき、さて、私たちや私たちの社会は、それにどう応答すべきなのでしょうか。
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