今の私が震災の現場にいたのなら

東日本大震災から6年の歳月が過ぎた。

あの頃と比べて、私も、私を取り巻く環境も、ずいぶん変わった。

私は公務員になり、結婚し、子どももできた。あの震災に対するまなざしも、それに伴って変わった。考えてしまうのだ。「もしあの日、今の自分が、津波の押し寄せようとする現場にいたのなら」と。

あの頃の私なら、ただ自分が生き残るためだけに、一目散に高台へ向かっただろう――避難を呼びかけるアナウンスに従って。

あの日、自らは逃げることなく、最後まで放送で人々に避難を呼びかけて、遂には津波に巻き込まれ亡くなった自治体職員がいた。もし今の私が、あの日に、同じ立場に居たならばどうしただろうか――。

私もまた、命はてるまでマイクを放すことはないだろう。なぜなら、人々のために身命を尽くすことこそが、公僕となった私に与えられた【天職(Beruf)】の【義務(Duty)】だからだ。

日本語でいう「天職」は、専ら「その人の能力や性質にぴったり適合した職業」を意味するけれど、「Beruf」でいう【天職】は、そういう職業適性とは関係ない。また、「義務」と言っても、それは誰かに、あるいは法律や契約によって、強制されるものではない。それは、その場・その時に在る人間に与えられた、果たすべき「務め」である。

もっと厳密に言えば、【義務(Duty)】を為すに、「~スベキ」や「~ネバナラナイ」といった、判断や当為は必要ない。風立てば、凪いだ水面は揺れ、木々の葉はさやさや音を奏でる。しかし、水面も葉も、自らの意思でそうしているのではない。風立てば、そう成る。それに抵抗することはできないし、抵抗する理由もない。そう為れば、そう成る、それだけの、当然の帰結に過ぎない。

実に【天職(Beruf)】とは、天が人の世に吹き降ろした風に身を委ね、成るように為すことをいう。

私には妻ができて、子が生まれた。けれど、だからといって、それが【義務(duty)】の遂行を妨げることはない。【天職(Beruf)】に従う者に、もはや個性は存在せず、ただそこには「務め」に身を捧げる一介の「人間」があるのみだ。いまや公僕となった私も、ただ己が【天職(Beruf)】を全うすべく、【義務(duty)】を粛々とこなし、場合によっては、命を落とすだろう。かくて我を捨て、風立つままに為らんとすることのみが、まこと尊厳に値する人間の姿と思念するからには。
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