極右というリベラル急進派――自由は勝利したのか?

フランス大統領選は下馬評のとおり、極右政党・国民戦線のルペン氏を中道左派のマクロン氏がダブルスコアに近い差をつけて大勝しました。

これが右派躍進の歯止めとなるのか、それとも右派のさらなる躍進の序曲に過ぎないのかは現時点ではわかりませんが、しかしこの結果を「フランス国民は排外的・差別的で国粋主義の極右ではなく、自由・平等・博愛を掲げるリベラル派を選んだ」という図式で捉えると、これからの政治の流れを読み間違うおそれがあります。

そもそも、どうして極右政党が大統領選の決選投票に残るまでに勢力を拡大しているのでしょうか。日本でもそうですが、いわゆる右翼と呼び称される政治団体は、やたらとケンカ腰だし、言っていることも古臭くて時代錯誤で「スマートじゃない」と見なされ、特に若い人には人気がありません。ヨーロッパでも事情は同じで、ほんの20年前くらいまでは右翼の政治団体など見向きもされませんでした。

ヨーロッパの右翼団体は次第に支援者を失い、活動が先細りになっていくなかで起死回生の策に取り掛かります。とにもかくにも支援者を増やさないことには、団体そのものが消滅してしまいますから、一般人にも取っつきやすくなるよう、イメージの刷新を図ったのです。

その取り組みのひとつが「リベラリズムに則って右翼的主張を通す」という戦略を実行したことでした。

たとえば、あなたの暮らす地域に、女性の社会進出はおろか外出すらも制限し、外出の際は全身を覆う衣装の着用を義務付ける等、女性の人権を著しく損なっている人々がいるとしましょう。その人たちは、女性はみなそうすべきと主張しているわけではなく、自分たちの文化は伝統的にそうやって生活してきたからそうしているだけだから、放っておいてくれまいか、と言うのですが、特にリベラルな傾向の強い人は、同じ社会に暮らす女性が人権侵害を受けていることを看過できないでしょう。国や社会も罰金を課すなどの様々な制裁を通して、かれらの「改宗」を促すことになりますが、それでもなお止めなかったらどうしましょうか。

どこの自由社会でも、最終的な手段は同じです。つまり、こうした「人権侵害」をする人々を、社会から排除するのです。

日本でも近年、ヘイトスピーチ規制法が成立しました。リベラルな人々はこれを歓迎しましたが、この法律は「他者に非寛容な言動はゆるさない」という意思の現れです。リベラルは「他者への寛容」を美徳としますが、しかしその価値を守るためなら「他者へ非寛容な者への非寛容」をも辞さないのです。

事情はヨーロッパでも同じです。たとえばドイツであれば、かつてのナチスを称賛するような言動は厳罰に処されます。またフランスでも、ムスリム女性がスカーフ等の宗教文化に根付いた衣装を付けて学校に通うのは、フランスの掲げる「平等」に反するとして禁じられています。このように、リベラルな「寛容」は、寛容を否定する「非寛容」に対して戦うことによって保たれているのです。

ここに、ヨーロッパの右翼は目をつけました。

かれらは何とかして移民、特にムスリムの移民を排除したいのですが、そこにいかにも右翼的な差別的意識を持ち出してしまえば、自由と平等の価値を信じて疑わない大多数の人々からは顰蹙を買うだけです。だから、右翼は論法を変えました。すなわち、ムスリムは女性の人権を抑圧する等、ヨーロッパが愛する自由と平等の価値に従おうとしない。つまり、かれらは「他者に非寛容な者」であり、われらリベラルの敵であるからして、これを社会から排除しなければならないのだ、と。

かくして、ヨーロッパの右翼はリベラルの戦法を逆手に取り、リベラルの規範内で排除を正当化する理論を手に入れました。そして思想信条的には「リベラル急進派」とも評しうる装いを前面に押し出し、良心の呵責から移民反対を唱えられなかった国民から支持を集めることに成功したのでした。

マクロン氏とルペン氏の決選は、「リベラルvs極右」ではなく、「リベラル穏健派vsリベラル急進派」の争いだったと見ることもできます。すると、もしマクロン政権が「他者に非寛容な者」の跳梁跋扈を防げなければ、国民戦線含む極右=リベラル急進派が「真に自由・平等・博愛を守りとおせるのは自分たちだけだ」と勢いづき、さらに躍進するシナリオも十分にあり得ます。今後注目されるのは、フランス社会が今後、リベラルな価値規範からは外れる国内のムスリムとどう関係を築いていくのかということです。もしここで対応を誤れば、「リベラルな思想に基づく大規模な排除」という、およそ世界の思想史において最悪ともいえる結末が待っているかもしれません。

※そう考えると、シャルリー・エブド襲撃事件は、返す返すも厄介な前例になってしまいました。かの一件以降、ムハンマドの肖像画を描いてさらにかれを批判する、というムスリムにとって最大級の侮辱的行為も、フランス社会は表現の自由の一環として認めざるをえなくなりました。
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