ハーバーマス「近代 未完のプロジェクト」――終わりなき近代を生きるために

近代―未完のプロジェクト (岩波現代文庫―学術)近代―未完のプロジェクト (岩波現代文庫―学術)
(2000/01/14)
J.ハーバーマス

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公共性論や市民社会論で有名なユルゲン・ハーバーマス、かれの数ある論文のなかで重要なもののひとつが「近代 未完のプロジェクト」です。ハーバーマスは数々の著作を残しておりますが、どれも力作と呼ぶにふさわしい重厚長大なものであるため、かれの思考を辿るのはなかなか容易ではありません。今回は比較的短い内容でかれの考え方を知ることのできるこの論文を取り上げ、「近代」という、時代の認識を深めていくこととしましょう。

本文を引用するにあたってひとつ注意を促したいのですが、「モデルネ」という、日本語で「近代」を意味するドイツ語は、訳者の気遣いから「モデルネ」と訳すことなく表記されています。というのも、「近代」というと、私たちはその先の、いまのこの時代を指す「現代」とは断続しているものと見なしがちです。しかし社会科学の分野では、「近代」と「現代」を歴史区分として用いるよりも、「現代」も「近代」の陸続きと捉えるのが普通です(無論、時代は「近代(モダン)」から「ポスト・モダン」に移ったという議論もありますが、どの分野のどのような特徴の変化を重視するかで立場が異なってきます)。「近代」という時代と社会の諸々の特徴、たとえば資本主義であったり、国民国家であったりは、いまも変わらず生き続けているのであり、ハーバーマスもまたそのような立場を採っているたえめ、役者は「モデルネ」を「近代」と訳するのを避けて、「モデルネ」をそのまま用いているのです。



1.モデルンの用法

本論文はハーバーマスがアドルノ賞を授与された際の記念講演です。芸術に造詣の深かったアドルノにちなんで、ハーバーマスも芸術論から論をはじめます。もちろん理由はそれだけではなく、「モデルネ」という時代を論ずるに、人々の表現活動の結晶たる芸術に目を向けるのはとても有効だからでもあります。

まずハーバーマスは「モデルン(現代的)」という言葉に着目します。「モデルン」がはじめて使われたのは紀元後5世紀。キリスト教徒が異教の支配していたローマの時代と教会が支配するいまの時代とを区分するのに用いたのが最初です。基本的に過去と現在を分け、いまと昔が異なっていると理解したとき、「モデルン(現代)」という時代認識が生まれるのです。ゆえに、「モデルン」とは時代の変化の先端を意識した概念なのです。「今やモデルンとは、時代精神がアクチュアリティへとたえざる内発的な自己革新をするさまを表現へと客観化するものを意味するようになった」(p.9)。

「モデルンとされる作品の特徴は、新奇さにある」とハーバーマスは言います(p.9)。「モデルン」は自身が時代の先端にあることの自覚なのですから、その意識の上に築かれる芸術作品は、当然ながら新たな形式、新たな表現を伴っております。しかし、商品の入れ替えの激しい現代においては、新奇なものもたんなる流行としてあっという間に古くなってしまいます。ですが、これに対してハーバーマスは「真にモデルンなものは、古典的なものとある種のつながりを保持している」のであり、「強勢的な意味でモデルンな仕事も、時代を超えて生き残る……力を持っている」と言います(p.9)。いま古典と呼ばれている作品も、当時にあっては「モデルン」だったわけです。古典として残り続けるものが造られるのは「現代」といういまこのときに他ならない。たとえどれだけ商品の波が激しくとも、魅力のある作品は時代の制約を超えて後世まで生き残り、後に「古典」と称されることになるのです。



2.アヴァンギャルドのメンタリティー

古今変わらず、新たな「古典」を生みだす原動力は新しい表現への挑戦心であります。時代変化に敏感に反応し、新たな表現を獲得しようとする態度を「前衛」、すなわちアヴァンギャルドと言います。アヴァンギャルドとは、

「未知の領域に入り込む探検家として、突然のショッキングな遭遇の危険に曝されつつ、未だ占領されていない未来を征服するのである。アヴァンギャルドは、未だ誰も測量したことのない土地にわけ入り、方位、すなわち針路を定めようとする。だが、前へ向かって進もうとするこの努力、未だ定まっていない偶発的な未来への予感、新しきものへのこうした崇拝は、本当のところ、アクチュアリティの賛美なのである」(p.11)

このアヴァンギャルドの精神こそ、時代を先へ先へと進めていこうとする原動力なのです。しかもそれは、ただ過去を捨て去るのではなく、「そのつどもう過去にすぎないとして主観的に決めつけた過去を産み落としていくような、そうしたアクチュアリティ」なのです(p.11)。時代を切り開いたことで自身が再び古典となり、未来の世代の土台を造っていくような活動こそ、アヴァンギャルドには求められるのです。

しかし、アヴァンギャルドな態度には、モデルネという時代の避けがたい矛盾した成功が内包されてもいます。「この新しい時間意識が表しているのは、ただ単に流動化した社会とか、動きの早くなった歴史とか、日常生活における非連続性といった経験にとどまるものではない。それだけではなく、一時的なもの、瞬間的で過ぎゆくもの、またうつろいやすいものの価値を高めた」ものの、「こうしたダイナミズムへの賛美の中に表明されているのは、静止した汚れなき無垢の現在を求める憧れの念なのである」(p.11)。われわれ近代人は、新奇なものを乞い求めながら、しかし一方で変わることのない純粋な価値にも憧れを抱いているのです。けれど、たとえば、たえずイノベーションを欲する資本主義の欲望と、安定した生活を夢見る労働者の想いがうまく重ならないように、このふたつの極が一致することはほとんどありえません。「その点でモダニズムは、たえず自己自身を否定する運動」といえます(p.9)。

この自己否定の運動が続く限り、「伝統」や「歴史」といった過去の慣習や事実の連続から規範性を導くのは、ひとつの手段ではあるものの、やはり十分には機能しなくなります。モデルネは、特にアヴァンギャルドの美学においては、こうした規範性への反抗をそのアクチュアリティの源泉としているのです。「この美の意識は、伝統による規範化の作業に反抗し、いっさいの規範的なものに対する叛乱の経験を栄養源としている」(p.12)。

もちろん、モダニズムは規範ならば何にでも反抗しようとする精神を言うのではありません。「アヴァンギャルド芸術に表明されている時間意識が、徹頭徹尾、反歴史的であるというわけではない。ただ、偽りの規範性に対抗しているだけである。つまり、規範を模倣すれば事足れりと考えるような歴史理解に由来する偽りの規範性に逆らうのである。……この新しい時間意識は……歴史主義によってなされた規準の中立化に対しては、強く反抗する」(p.13)。ただ単に「決まりだから」といってそれに盲従すること、また過去の歴史の一点を普遍化し、批判不可能な規準を作り上げること、これらの静止的な態度に反抗することこそ、モダニズムの精神の表れなのです。



3.モダニティの精神の衰退と新保守主義の風潮

しかし、アヴァンギャルドを筆頭とする美的領域のモデルネの精神はすっかり老化している、とハーバーマスは嘆きます。この空隙を狙ったかのように、モダニズムを「経済と行政によって合理化された日常生活における約束事や道徳的価値への敵対心を煽るもの」として批判し、管理された規律正しい社会、そして伝統遵守を指向する「新保守主義」が台頭してきます。時代はモデルネ以後に移ったのだとするこのような考えを、ハーバーマスは退けます。

ハーバーマスから言わせれば、新保守主義はモダニズムの精神をなべてニヒリズムやコミュニズム、テロリズムやファシズムといった、人々にネガティブな印象を与える概念に兄に結びつけているのですが、これは新保守主義者が「経済と社会の資本主義的近代化が多かれ少なかれ上首尾に進んだ結果として生じた面白からぬさまざまな難問の責任を、文化的モデルネに押しつけている」に過ぎない(p.18)。この稚拙な批判は、かれらの社会分析力が弱いことに由来しているとかれは指摘します。

「社会の近代化という彼らにとって歓迎すべき動きと、意欲の減退とのあいだいにある連関を……視野の外に押しやっている。労働に対する考え方や消費習慣が変わり、要求の水準も高くなり、余暇中心志向が出て来たことの社会構造上の原因を取り出すことが彼らにはできない。だからこそ、さまざまな現象がいまや快楽主義に見えたり、献身的姿勢や服従的態度が欠如していると思えたり、またナルシシズムに思えたり、地位を求める能力競争からの脱落と感じられてしまったりというわけで、それらすべての責任を直接にこのモデルネの文化(筆者註:特に反抗的文化[adversary culture])に押しつけようとするのである」(p.18)。

新保守主義者は必死になってモダニズムの時代を刷新する能力を秩序の敵として封じ込めようとしますが、モデルネの文化はかれらの懸念する社会的活力の減退の真の原因ではありません。またモダニズムのはらむあの矛盾も、人々の不安の原因にはなっていない。新保守主義者の感じている不快感はゆえに倒錯的なのですが、かれらのように現状に不満を覚えている人々は多くおります。その原因をモデルネの文化になすりつけるのはあまりに表面的過ぎる。根っこはもっと深いところにあるのです。



4.システムによる生活世界の植民地化

「社会の近代化に対する反発に由来している。すなわち、社会の近代化が、経済成長や国家による組織的活動〔行政や福祉〕のもつ強制力に促されて、自然に生い育った生活形式の生態系に闖入して来ることへの、つまり歴史的な生活世界のもつ対話的な内部構造を浸食することへの反発に由来しているのだ」(p.20)

ハーバーマスの思想のキモとなる部分がいよいよ登場して参りました。ここは詳しく説明した方が良いかと思いますので、もう少し、引用を続けましょう。

「こうした不快感や抵抗運動が発生する多様なきっかけを見ていると、そこには必ず、経済的および行政的合理性にのっとった一面的な近代化が、文化的伝統の継承や社会的統合、さらに教育等の課題を芯に持つ生活領域に闖入してきているという現象がある。つまり、単なる合理性とは異なった基準、ようするに対話的合理性(kommunikative Rationalitä)
の諸基準に依拠した生活領域に侵入して来ているのである」(p.20)

まずは対話的合理性――社会科学をかじった人ならば、「コミュニケーション合理性」と言った方が通りがいいかもしれません――について。これは人々の、議論によって問題を明確化し、解決方法を模索し、合意によって了解するというコミュニケーションの一連の流れを志向する意志ならびにそのための諸手続のこと、と言っていいかと思います。その特徴は、はじめからある問題解決方法やそのための確固たる規準があるわけではない、という点にあります。そうではなく、新たな社会問題への意識やその発見に際し、それに見合う新たな規則を他者とのコミュニケーションのなかで構築していくことをこの理性は求めるのです。ハーバーマスは、これら人々の対話による問題の提起・解決がなされる領域を「生活世界」と名付けます。「生活世界」は、人々の間の自由な討論によって社会の認識が不断に改められる、今までの議論を引き継ぎつつ言えば、アヴァンギャルドを体現するような領域なのです。

それに対し、国民を監視下におこうとする国家や、作業効率を上げるために労働者を徹底的に管理しようとする企業などは、あらゆる行為をマニュアルの型にはめこもうとします。これら資本主義的精神は、公平性や品質の均質性にこだわるあまり、すべての事柄をシステマティックに処理し、必然の内に収めようとするのです。この「システム合理性」に基づく諸規制が、自由かつ偶然的な領域である生活世界にまで及び、「生活世界の植民地化」が進んでいるとハーバーマスは警告します。豊かな議論の可能性にあふれた生活世界に、必然性と一面性を押しつけるシステムが割り込んできている、このことが、人々の諸々の抵抗、社会への不満の元凶なのです。



5.理性の3つの分化と自律

ハーバーマスは社会学者のマックス・ヴェーバーを参照しつつ、モデルネにおける理性の3つの分化について取り上げます。その3つとは「真理」、「規範上の正当性」、「純粋性もしくは美」です。この分化によって、私たちが統一された世界像を描くのはひどく困難になってしまいました。というのも、諸々の問題は「認識の問題」、「正義の問題」、「趣味の問題」と分かれて捉えられるようになったからです。モデルネにおいて、この3領域を担うのはそれぞれ「科学(学問)」、「道徳」、「芸術」の各々の分野であります。それぞれの価値領域は独立して発展していき、制度化とともに専門家を有するようになり、固有の歴史や法則を持つにいたります。

この分化は、そもそも人間社会のさらなる発展のために寄与するものとして――意図的ではなにせよ、進められてきました。当初は「こうして蓄積された知的潜在力を特殊な人間にしかわからない高踏的なあり方から解き放ち、実践のために、つまり理性的な生活を形成するために役立てる」ことが目指されたのです(p.23)。しかし、事態は逆に推移したとハーバーマスは言います。「専門家による処理と反省を通じて文化の中身が壮大しても、それがそう簡単に日常的実践の共有物になるとはかぎらなくなってしまった。むしろ文化的合理化に伴って、生活世界は自身の伝統のもつ実質的な価値を奪われ、文化的貧困化の危険が増大している」(p.23)。

かくして、モデルネの前途を楽観的に見つめる余裕は次第に失われていきました。しかし結局、われわれにはこの知的分化を押し進める「啓蒙のプロジェクト」にこのまま乗るか、それとも途中下車するかしか選択肢はありません。「啓蒙の後衛」を務める哲学者の多くは、学問(科学)、道徳、芸術の領域のいずれかに依拠して、なんとかモデルネの理念の建て直しを計りましたが、いずれも片手落ちに終わりました。この3つは高度に自律的で、いずれかがいずれかを包括することなど不可能でした。また何より、専門家に任され、制度化されるようになった領域では「システム化」が進行してしまい、コミュニケーション的・自生的な生活世界とはそりが合わなかったのです。



6.文化の止揚の誤り

こうした理性の3分野の自律分化とシステム化による文化の貧困化に対処するためにはどうするべきか。まず言えるのは、システム化とそれに伴う内外(専門家と素人)の分化にひたすら反抗して、ひとつの文化領域の実践で以て社会のあらゆる領域を包括しようという企みは、なんであれ失敗すると言うことです。芸術の領域においてはシュルレアリスム運動がこの失敗例だとハーバーマスは言います。制度化され、基準の定められた芸術の枠を取り払い、専門家と素人という区別も、芸術も非芸術もないところから表現活動を展開しようとしたこの普遍性を求める運動は、しかし「芸術」というカテゴリーに付随する伝統的な諸々の手法や概念を使ってでしか表現活動ができない、という矛盾に直面し、かえって芸術の自律性を浮き彫りにすることとなりました。

結局のところ、自律的に発展してきた文化領域を打ち壊そうとしても、長い構造化の過程を経た枠組みから逃れるのは容易ではないし、「反○○」の宣言からはじめられる運動はなんであれ、その反抗の対象からは離れがたいものなのです。それになにより、「コミュニケーション的な日常実践の中では、認識次元での解釈、道徳上の期待、主観的な表現や価値評価は、相互に深く絡みあったものでなければならない。生活世界における相互理解のップロセスは、これら全領域にわたる文化的伝統を必要としている。しだがって〔筆者註:システム〕合理化された日常生活を、それに伴う硬直した分化の貧困から救うために、どれかひとつの文化的領域……を無理矢理に開け放ち、専門化した知識の集積体のひとつであるものにすべてを接合しようとしても、どだい無理ということになる」(p.32-33)

生活世界は種種雑多な文化領域を内包した、ある種カオス的な空間なのであり、そこをあるひとつの文化的領域で包み込んで統合(止揚)するのは無理があるのです。だから、芸術を普遍化しようとするシュルレアリスムの運動は破綻したのでした。芸術は生活世界の湛える多様な意味の全質量を受け容れる器としてはあまりに小さかったと言えましょう。

しかし、それは芸術に限った話ではありません。事は学問や道徳であっても同様です。「両者とも、つまり制度化した学問も、また法体系の中で分裂した道徳的・実践的議論も、生活実践からかけ離れてしまって」いる上に、芸術と同じく自律化を遂げていますから、相互に総合されることもなく、むしろ「止揚のプログラム」へと、つまり自己の領域内でのみ生活世界を裁断しようとするシステム的発想へと流れていく傾向にあるのです。

もちろん、芸術でうまくいかなかったことが、学問や道徳でどうなるものでもありません。「日常の生活実践というのは、認識面、道徳的・実践的な面、そして美的・感情表現的な面が無理なく自然に絡み合うことによって成り立っているわけであり、そうした日常の生活実践が物象化した場合に、それらの文化的領域のどれかひとつだけを強引に開け放って、すべてをそれにつなぎとめようとしても、その物象化を治療することはできない」のです(p.34)。システム合理性に従って、人間とその理性が道具のように機能的にしか行使されない状態(物象化)に反抗するに、ひとつの理性によって防壁を立てようとしても、それは内側から決壊してしまうのです。そうでなはなく、必要なのは、生活世界のこの混沌とした豊かさ――それはシステムからすると厄介この上ないのですが――を、そのままに活かし続けていくことなのです。



7.モデルネ、未完のプロジェクト

新保守主義は社会に蔓延する様々な倦怠感――労働に対する無気力、投票率の低下に見られる民主主義的制度への無関心、家庭モラルの衰退――を、生活世界の混沌とそこから運動を引き出すモダニティの精神に求めましたが、これはかれらの目的理念から鑑みれば自殺行為と言えるかも知れません。かれらがなそうとしているのは毒をもって毒を制する、つまりシステム合理化がもたらす不満に対して、あらたな/さらなるシステム合理化によって対処しようとするものに他ならないからです。

モデルネのプロジェクトを失敗と決めつけるには早すぎる、とハーバーマスは言います。諸々の止揚のプロジェクトもまた、モデルネ的といえばそうなのですが、しかしモデルネの本質はいわばアヴァンギャルド性にあるのであって、わたしたちはこの止揚の失敗から学ぶべきなのです。

では、シュルレアリスム運動のように普遍化するのでなければ、他に生活世界の豊かさを守る方法などあるのでしょうか。

芸術の領域においては、その答えは非常に簡潔なものです。「素人でありながら芸術好きの役を選んで、自己の美的経験を自身の実人生上の問題に結びつけること」がそれです(p.36)。もちろん、芸術鑑賞に専門家による批評は欠かせません。制度としての批評がなければ、芸術作品の意味内容はとても貧しくなってしまいます。しかし、いったん専門化的な芸術の批評・判断から離れて、素人が自身の個人的生活のなかに美的経験を受容したとき、批評による芸術の美的評価とは異なった意味が生じてくるのです。すなわち、

「このようなものとしての美的経験は、もろもろの欲求に関する解釈を――われわれが世界を知覚する光である欲求解釈を――革新してくれるだけではない。それと同時に、われわれの認識次元での意味理解や規範に関する期待のうちにまで浸透し、認識、規範、欲求というこれら3つの要因が相互に参照しあっているその関わり方をも変えていくのである」(p.37)。

つまり、強烈な美的経験は私たちの世界を見る見方に変化をもたらすのです。優れた芸術作品は私たちの価値判断に深い影響を与えます。ある作品を自身の生活の文脈上に、あるいは逆に、作品の文脈上に自身の生活を置くことで、生活世界の複雑に絡みあった連関構造は震動し、観覧者をしてその組み直しに取り組まざるをえなくさせます。芸術作品との出会いは、既存の価値秩序の崩壊を伴うゆえに時として悲劇的となりますが、新たな世界地平へのカギとなる点では、間違いなく、芸術はモデルネのプロジェクトの牽引役となりうるのです。

ここでは、システムや制度が生活世界を機械的に分割するのとは逆の、専門家の知識や文化が生活世界の側が吸収するという「反植民地闘争」的様態が表れています。支配する側、侵略した側の土俵の上で自分たちの運動を正当化し、活発化させていくという、前世紀半ばに盛り上がった解放闘争を模倣するがごとしです。ここでは「解釈」という意味の増幅・変換過程が決定的に重要となるかと思います(ハーバーマス自身は解釈という概念をあまり用いていませんが)。学問が生産されるのは基本的に価値中立的な無味乾燥の「真理」であります。しかしながら、生活実践者は何の味付けもされていない「真理」を自分ごのみの味に仕立て、自身の善なるものの体系、準拠すべき規範の更新に役立てることができます。実践過程においては、その「真理」をその人がどう解釈し、何を受け取ったかが重要なのであり、この主観的経験はだれも妨げることはできません。こうして生活実践者は様々な意味世界を構築しつつ、今度はそれを他者に公開し、話し合い、新たな規範を更新していく共同的・対話的作業へと促されていくのです。

「モデルネの文化と日常の生活実践とを――つまり、生き生きとした伝統を必要とするが、単なる伝統主義によっては貧困化せざるを得ない日常の生活実践とを――各側面において精密に再接続することがうまく行くためには、社会の近代化をもこれまでとは異なった、非資本主義的な方向へ導くことが必要であり、また、生活世界がそれ自身の中から経済的および行政的行為システムの自己運動を制限しうる諸制度を生みだし得ねばならない」(p.39-40)

ハーバーマスは、たとえばシステム優越を生活世界の拡大によって止揚し、最終的にシステムを駆逐せしめ、「国家を(市民)社会化する」というマルクス派的テーゼについては懐疑的なようです。システムはシステムとして高度な自律分化を遂げており、近代社会においてこれを放棄することも、破壊することも現実的とはいえない。そうではなく、これらともすれば人々の生活をシステム化し、伝統保守に徹しようとするシステム合理性の性向に対し、その固有の領域、すなわち経済や行政とは別個の領域である市民社会を対置させること。別個とはいえ、完全に別離できるわけではありません。システム領域と市民社会は互いに浸透し合うと同時に、鍔迫り合う関係にあるのです。市民社会はシステム化に抗するため、問題を主題化して討論するのはもちろんのこと、ときには解釈を通して逆襲を試みる必要がありますし、また市民社会の自由な討論空間のなかで生じた新たな公共的関心――昨今では女性や子どもの権利、少数民族の人権、地球環境保護などが代表的ですが、それらをシステムの側に反映させ、新たな時代、新たな社会意識に適う制度の創造にむすびつけなければならないのです。

しかし、ハーバーマスは「こうしたことが可能になる見込みは、わたくしの間違いでなければ、あまり良好とはいえないようである」と、モデルネ文化の将来には悲観的です(p.41)。先述した新保守主義のように、反モデルネあるいはポスト・モデルネを掲げる主義主張はアヴァンギャルドの衰退にともなっていよいよ拡がりつつあり、モダニティの機運は頓挫を運命付けられているかのようです。また、本来人々の意見の集約形である公論の形成を担うべきジャーナリズムも、大衆化と商業化の度合いを強めるにしたがって、公共性を担う主体とはもはや言えなくなっていきます(いまのテレビや新聞がスポンサーの宣伝媒体に成り下がっている現状をみなさんも目の当たりにしていると思います)。

しかしながら、モデルネを捨て、市民社会と市民の潜在的な批判力を封じ込めてしまうのは、はたして得策と言えるのでしょうか?時折しも、世界中で格差是正を求めるデモが拡がっています。このような問題提起と連帯の契機なくして、より良き社会の実現や豊かな文化の創造などなしえるのでしょうか?もしも、未来への希望を捨て去るつもりがないのであれば、安易なシステム合理化と偽りの安寧を振り切り、新たな価値領域を切り開くアヴァンギャルドの旗印のもと、人類の幸福のために闘争していくべきでしょう。ハーバーマスは、この幸福希求のモーメントを消し去るような新保守主義やポスト・モダンの言説に反論すると同時に、私たちが「コミュニケーションする勇気をもつ」回路を築こうとしたのだと、私は思います。
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